社章
| 社章 |
|
図と説明文 |
巻頭 |
役員
| 会長 桜井孝頴、社長 森田富治郎 |
平成14年(2002年)4月 |
写真 |
巻頭 |
役員;従業員
| 明治38年の役職員 |
明治38年(1905年) |
写真、取締役・大橋新太郎、社長・柳沢保恵、監査役・浜口茂之助、塩田進、新免弥継、高輪守幸、専務・矢野恒太、石岡繁太郎、鈴木六郎、野閒謹爾、石川善太郎、後藤徳太郎、松崎故一郎 |
p3 |
世相;生命保険
| 明治43年ごろの銀座。手前が新橋、左手の建物は当時「看板のお化け」ともいわれた帝国博品館 明治時代の保険加入者 |
明治43年(1910年)頃 |
写真 |
p4 |
世相
| 明治時代の社会経済情勢 |
明治35年(1902年)~明治38年(1905年) |
写真、社会情勢(ペスト流行 明治35年。日露戦争 明治37~38年)、生活(明治時代の呉服屋のようす。調理などに使用され始めたガス)、風俗・文化(女学生の間で流行したひさし髪。日比谷公園開園 明治36年) |
p5 |
生命保険;経営者
| 相互主義との出会い |
明治13年(1880年)~明治26年(1893年) |
写真、岡山時代の矢野[恒太]、明治24年の日本生命役職員集合写真、[矢野が保険研究の集大成として明治26年11月に発表した小冊子]『非射利主義生命保険会社の設立を望む』、日本生命時代の[矢野の]自筆診査報状、日本生命辞職の新聞広告、『保険論』と[矢野の]勉学ノート |
p6 |
生命保険;経営者
| 相互主義の実現に向けて |
[明治26年(1893年)~明治33年(1900年)] |
写真、安田財閥の創始者である安田善次郎、矢野退社時の共済生命本社(日本橋区小舟町)、共済生命の約款兼営業案内、ゴータ生命本社の油絵、ドイツ留学時代の矢野と自筆の絵はがき、ドイツ留学時代のテキストとノート、[法学者・]岡野敬次郎(明治28年ドイツで矢野と交流を持つ。以後、相互会社の設立と育成に奔走する矢野を援助しつづける)、[農商務省・]保険課長時代の矢野、保険課長任命の辞令 |
p8 |
経営理念;役員
| 創業―理想の保険会社を |
[明治34年(1901年)12月~明治35年(1902年)9月] |
写真、「保険相互会社主唱之辞」、普通保険約款案、110名の原始社員名簿(矢野恒太と発起人藤山雷太の名前がある)、[創立当初の役員等] [第百銀行の取締役支配人・]池田謙三、[第百銀行の元頭取・]原六郎、[森村銀行、東洋陶器、日本碍子、日本陶器等の設立者・]森村市左衛門、[取締役、出版界の王者、博物館の館主・]大橋新太郎、[服部時計店の開業者・]服部金太郎、[監査役、銚子醤油の設立者・]浜口茂之助、[社長。伯爵・]柳沢保恵、創立総会決議録 |
p10 |
経営理念
| 創立時の「我社の特色」 |
[明治35年(1902年)10月~明治38年(1905年)] |
写真、「我社の特色」(初版は明治35年7月9日)、新右衛門町社屋の借家証、新右衛門町社屋(現在の日本橋高島屋裏通りあたり)、「要領」(初版は明治38年11月ごろ)、代理店希望者が後を絶たなかったため当社は代理店を採用しないことを広告した、矢野恒太が契約者となった保険証第1号(定款や約款を含めて1冊の冊子にした) |
p12 |
経営
| 苦闘から躍進への準備 |
[明治36年(1903年)~明治44年(1911年)] |
写真、職員名簿、創業時の出勤簿、日本橋区通3丁目の本社社屋、通三丁目本社の専務室での矢野[恒太](明治44年)、明治37年4月から使用を始めた募集資料「最良の貯蓄法」には以後長期間にわたって使用された「確実・親切・低廉」のモットーが掲げられている。明治37年ごろの募集資料 |
p14 |
経営理念
| 相互主義のひろがり |
[明治35年(1902年)5月~昭和20年(1945年)] |
写真、第一火災保険相互会社発起認可申請書、矢野が考えていた第一火災保険の社章のイメージ、第一火災保険相互会社定約款(明治35年5月5日)、「余が理想の火災保険会社(矢野恒太)」、「新しきこころみ」(大正10年の正月に矢野が年賀状代わりに配布した小冊子)、「第一相互館」1階にあった第一相互貯蓄銀行の玄関、第一相互貯蓄銀行創業時の営業案内 |
p16 |
出版
| 矢野恒太の著述活動 |
[明治26年(1893年)3月~昭和27年(1952年)9月] |
写真、『ダイヤモンド論語』(6cm四方で携帯に便利)、渋沢栄一(常にチョッキのポケットに携帯し、革装がボロボロになると矢野に新品を請求した)、ポケット論語とその広告、『金利精覧』、『芸者論』、『日本国勢図会』(昭和2年に矢野が編纂した統計解説書)、矢野恒太主要著作一覧(書名と発行・発表年月) |
p18 |
経営;営業
| 大正躍進期 |
大正元年(1912年)~大正15年(1926年) |
写真、大正時代後半の募集資料 |
p20 |
世相
| 大正時代の社会経済情勢 |
[大正3年(1914年)~大正14年(1925年)] |
写真、当時のサラリーマンの服装と持ち物、社会情勢(第一次世界大戦中に交戦国への軍需品輸出が急増、空前の好景気となる。シベリア出兵 大正7年)、生活(洋装化は子供から始まり、その後女性の間でも広まった。ラジオ放送が始まる)、風俗・文化(「円本」の並べられた書店。日比谷野外音楽堂完成 大正12年) |
p22 |
経営
| 最良か解散か |
[明治43年(1910年)~大正4年(1915年)] |
写真、大正2年ごとの全国地方部長会議での記念写真、この頃制定された「服務心得」、矢野[恒太)が当時好んで使った「安全第一」という言葉を表題にした募集資料(大正5年)、大正3年12月に創刊されたコンニャク版の社報、社員(ご契約者)に紹介を依頼したチラシ「社員諸君に日す」、営業職員に配られた募集上の注意書き(大正4年) |
p24 |
経営;業界
| 5大生保の一角に |
[大正4年(1915年)~大正15年(1926年)] |
写真、4分5厘の高率配当をうたった募集資料(大正12年)、「我社の貯蓄的生命保険」と題した加入勧奨のはがき(大正15年)、大正14年度の生保各社の業績を比較した資料、矢野[恒太]社長就任直後の朝鮮半島への出張。石坂泰三[取締役]と稲宮又吉[取締役]、『社報』大正8年12月号の記事「一億円には何時なる?」、大正11年ごろの支部長会議、増加するサラリーマンを対象に当初の保険料を安く設定した「出世保険」(大正9年発売)のパンフレット |
p26 |
事業所
| 東京一の摩天楼、第一相互館 |
[大正10年(1921年)] |
写真、本社移転を伝える絵はがき、第一相互館の完成を伝える新聞記事(『報知新聞』大正10年4月1日付)、新築披露時の玄関と吹き抜けの中庭、6階の事務室、第一相互館全景、京橋通りに面する1階の広告窓と貸店舗に入った「山一京橋営業所」(元山一証券)、7階東洋軒の大食堂 |
p28 |
災害
| スペイン風邪と関東大震災 |
[大正7年(1918年)、大正12年(1923年)9月] |
写真、スペイン風邪を報じる新聞記事(『大阪朝日新聞』大正7年12月26日付)と感染を防ぐためにマスクを着用した女学生たち(大正9年1月)、流感予防のポスター、スペイン風邪によって実際の死亡数が予定死亡数を上回ったことを伝える『社報』(大正8年11月号)、震災後の決算公告、震災10日後の第一相互館周辺、銀座の大火災を描いた絵はがき、外部修復後の第一相互館を絵はがきにし健在ぶりをアピールした、第一相互館の無事と同館での事務開始を告げる新聞広告、生命保険会社協会の申し合わせを告知する新聞広告 |
p30 |
経営
| 昭和発展期 昭和2~20年(1927~1945) |
昭和14年(1939年)1月 |
昭和14年(1939年)1月に第一生命館で行われた「新館落成記念募集有績者招待会」であいさつする矢野[恒太]会長、石坂[泰三]社長(6階の集会室にて) |
p33 |
世相
| 昭和初期の社会経済情勢 |
[昭和2年(1927年)~昭和16年(1941年)] |
写真、太平洋戦争後期、時局の悪化により疎開先に向かう学童たち、社会情勢(金融恐慌 昭和2年。真珠湾攻撃 昭和16年)、生活(昭和初期の家庭料理の一例。浅草-上野間に地下鉄が開通 昭和2年)、風俗・文化(昭和初期のモダンガール。戦時下の統制は衣服にもおよんだ) |
p34 |
生命保険;経営
| 「高配」主義と「低料」主義 |
[大正15年(1926年)~昭和12年(1937年)] |
写真、『社報』に頻繁に寄稿された契約者配当に関する記事(昭和2年4月号)、高配・低料問題について矢野[恒太]が寄稿した「配当付保険料と低保険料の優劣論」(『経済往来』昭和2年10月号)、「貯蓄的生命保険」を訴えた募集資料、略奪(掠奪)募集問題を伝える業界紙(『保険銀行時報』大正15年6月6日付)、東京支部の優績祝賀会における渡幸吉東京支部長(昭和12年)、当社の経営効率の良さがうかがえる生命保険会社業績一覧(昭和11年度)、当時の新聞広告 |
p36 |
事業所;設備
| 第一生命館の完成 |
[昭和10年(1935年)~昭和14年(1939年)] |
写真、潜函工事に入る前の実験堀りと思われる建設現場(昭和10年1月)、「日本一長いのは東京駅、高いのは国会議事堂、深いのは第一生命館」という矢野[恒太]の言葉を図示した落成記念のパンフレット、落成を記念して開かれた営業職員招待会(昭和14年1月、東京会館)、来館した高松宮殿下にIBM統計機の説明をする石坂[泰三]社長(昭和14年4月)、[皇居お堀端に]完成した第一生命館[(昭和13年10月完成)]、中央監視盤、大金庫、地下4階にあったカード類の保管庫、新築披露時の1階営業室、新築披露時の中庭を望むベランダ、トイレ |
p38 |
世相;役員
| 戦争と統制の時代 |
[昭和12年(1937年)~昭和20年(1945年)] |
写真、石坂[泰三]社長と矢野[恒太]会長の就任披露会(昭和13年)、日本経済連盟の「遣欧米経済使節団」に参加した石坂[泰三社長]の帰国を東京駅に迎える矢野[恒太会長](昭和12年)、政府が主導した国民貯蓄奨励運動の一環として作成された保険募集パンフレット、契約者配当率の引き下げを知らせる新聞記事(『東京朝日新聞』昭和12年10月7日付)、戦時下の当社のポスター、昭和20年の支部長会議で演説する国民服姿の矢野[恒太]会長 |
p40 |
提携合併
| 昭和生命の包括移転 |
[昭和8年(1933年)7月~昭和16年(1941年)12月] |
写真、日本医師共済生命が昭和生命と改称し、5相互会社が大合同の合意に至ったことを伝える新聞広告(『東京朝日新聞』昭和8年7月2日付)、石坂[泰三]社長は元昭和生命職員へ「家族として迎える」とあいさつした(昭和16年12月)、元昭和生命職員に辞令を交付する稲宮[又吉]取締役(昭和16年12月)、元昭和生命社員と当社職員の懇親会(昭和16年12月、稲宮[又吉]取締役、戦後社長となる矢野一郎取締役)、昭和生命の商品パンフレットと包括移転許可証 |
p42 |
世相;催し
| 戦時下の第一生命 |
[昭和13年(1938年)~昭和17年(1942年)] |
写真、日比谷女学校の授業風景、有楽町駅前での防空壕掘り、戦没職員の慰霊祭(昭和14年)、陸軍による防空演習の視察(昭和14年)、戦時中の第一相互館(昭和13年)、祝勝のちょうちん行列、女性職員の入社式(昭和17年)、女子挺身隊の結成式、本社防護団(昭和13年) |
p44 |
世相;事業所
| 戦後再建期 昭和20~32年(1945~1957) |
昭和27年(1952年)7月7日 |
写真、昭和27年7月7日の第一生命館の返還受領式。 |
p46 |
世相
| 戦後復興期の社会経済情勢 |
[昭和20年(1945年)~昭和30年(1955年)] |
写真、新橋の闇市(昭和21年4月)。社会情勢(朝鮮戦争による特需景気 昭和25年。繁華街に設置された街頭テレビに群がる人々 昭和30年)、生活(焼け跡での生活 昭和20年。6・3・3・4制の実施で男女共学に 昭和22年)、風俗・文化(終戦直後の代表的な風物 街頭での靴磨き 昭和21年の東京。プロレスブーム) |
p48 |
事業所
| 第一生命館の接収 |
[昭和20年(1945年)9月~昭和26年(1951年)7月] |
写真、第一生命館接収を報じる新聞記事(『朝日新聞』昭和20年9月13日付)、星条旗を掲げた第一生命館(昭和22年)、日比谷の第一生命館から京橋の第一相互館までの経路を示した地図と事務所移転公告、第一生命館を出るマッカーサー元帥(昭和21年1月1日)、第一生命館を訪れた吉田茂首相(昭和26年7月)、マッカーサー元帥が使用した6階の社長室 |
p50 |
経営
| 戦争による打撃と再出発 |
[昭和20年(1945年)9月~昭和22年(1947年)11月] |
写真、退任する直前の第46回社員総代会であいさつする矢野[恒太]会長(昭和21年11月)、戦時補償の打ち切りを伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和21年9月8日付)、生保各社の第2会社設立を伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和22年5月15日付)、当社新発足の公告(昭和22年11月)、社長に就任した矢野一郎、アメリカのインシュアランスウィークにならって昭和22年より11月が「生命保険の月」となる、外地からの引揚げ職員や戦死した職員の遺族に対して救護金などの援助を行った。それに対する受領証と礼状、矢野恒太の自宅は戦争で家を失った職員の寮として利用された |
p52 |
生命保険
| インフレ下の苦悩 |
[昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)] |
写真、国民経済の見地からインフレ防止のために保険加入をすすめたパンフレット、昭和23年5月に新設した「優績クラブ」の入賞者、昭和24年末から25年初めの駅頭広告、この時期発売された新種保険のパンフレット、矢野[一郎]社長が契約した無診査保険の第1号証券、ご契約者に配布した「第一生命の近況御報告」、昭和25年ごろの「こども保険」の立て看板 |
p54 |
経営;催し
| 事業の再建 |
[昭和26年(1951年)~昭和32年(1957年)] |
写真、第一生命館6階の「第一生命ホール」における創立50周年式典(昭和27年9月15日)、棚上げ契約の返済内定を伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和31年8月7日付)、その返済風景、第一生命館への本社復帰広告と返還受領式であいさつする矢野[一郎]社長、この頃制定された社名マーク、昭和32年の支社長会議、民間ラジオ放送の開始とともに昭和26年11月から「音楽の星座」を提供した。 |
p56 |
社会貢献
| 公衆衛生に対する貢献 |
[昭和25年(1950年)~昭和28年(1953年)] |
写真、第1回保健文化賞贈呈式で祝辞を述べるGHQ公衆衛生福祉局長 サムス准将、朝日新聞東京本社講堂で行われた第2回保健文化賞贈呈式(昭和26年2月)、第2回保健文化賞審査委員会、第1回保健文化賞贈呈式で矢野[一郎]社長から第一生命賞を受ける受章者(昭和25年3月21日)、保健文化賞の記念品。公衆衛生院生への奨学金提供に対する厚生大臣からの感謝状[(昭和28年6月)]、千代田村における検診の風景 |
p58 |
経営;催し
| 高度成長下の順調な発展 |
昭和34年(1959年)8月 |
写真、昭和34年8月の「第一生命の月」の進発支部長会議(名古屋支社) |
p60 |
世相
| 高度成長期の社会経済情勢 |
昭和30年代~昭和44年(1969年) |
写真、鳩山内閣の「42万戸政策」により団地が誕生(霞ヶ丘団地、昭和37年)、社会情勢(東京オリンピック開催 昭和39年。名高速と名神高速が接続して全面開通 昭和44年)、(昭和30年代、電気洗濯機・電気冷蔵混・白黒テレビは「三種の神器」と呼ばれ、電化製品ブームを巻き起こした。登校する児童を見守る「緑のおばさん」)、風俗・文化(フラフープで遊ぶ子供たち。高速道路の発達により、観光バスを利用した旅行が盛んになった) |
p62 |
売上;営業
| 保有契約10兆円達成 |
昭和33年(1958年)~昭和45年(1970年) |
写真、「10兆円達成3か年計画」進発のポスター(昭和43年)、高田馬場の研修所と研修所から募集に出発する職員、研修所修了生に終了バッチをつける矢野一郎社長、月掛支社の営業所における地区主任会議(昭和39年)、デビット制度の営業職員の募集広告(昭和33年)、昭和39年ごろの支部風景、[東京・烏山に]完成直後の[総合教育施設「第一生命修練所見心寮」](昭和44年)、10兆円達成の垂れ幕がかかった第一生命館(昭和45年) |
p64 |
商品;広告宣伝
| ニーズの多様化と新種保険 |
[昭和34年(1959年)~昭和45年(1970年)] |
写真、「災害保障特約」のパンフレット、「保障割増特約付特別養老保険」のパンフレット、「終生安泰保険」のパンフレット、販売促進ツール「安泰カレンダー」、支部の朝礼風景(昭和41年)、「長寿保険」のパンフレット、昭和45年7月 民話「しあわせをはこぶ金の鳥」をイメージして制定された当社のペットマーク(愛称「ポピー」) |
p66 |
商品;広告宣伝
| 企業年金の誕生 |
昭和37年(1962年)~昭和44年(1969年) |
写真、お客さまに契約内容の説明を行う企業保険部の職員(昭和37年)、企業保険部の事務風景(昭和37年)、企業保険コンサルタントを対象にした企業年金講習会(昭和41年)、「企業年金」のパンフレットと同商品の発売前に退職一時金制度の受け皿として販売されていた「団体養老保険」のパンフレット、生命保険協会による企業年金保険の広告、企業年金の販売推進用ポスター(昭和44年) |
p68 |
事業所;表彰
| 大井本社の建設 |
昭和40年(1965年)~昭和43年(1968年) |
写真、上棟式で検鋲の儀を行う矢野[一郎]会長(昭和40年12月2日)、東京本社から大井本社への移転風景、大井本社と東京本社を結ぶ連絡車第1号便、地域住民とのよりよい関係を築くために発行された親睦雑誌『むらさき』、自然環境に恵まれた大井「第一生命館」、当時の大井本社施設配置図、最優秀防火建築物に選ばれ、建設大臣賞を受けた(昭和43年3月)、各階間で書類のやり取りを行うエアシューター、事務室風景 |
p70 |
情報システム;設備
| システム・オンライン化の推進 |
昭和36年(1961年)~昭和48年(1973年) |
写真、IBM1401型コンピューター式(昭和36年)、昭和40年からは国産のコンピューターも導入した(昭和42年)、パンチカードに穴をあけるキーパンチャー(昭和40年)、大井本社の磁気テープ庫、大井本社の電子計算機室、[申込書~現状照会(ディスプレイ)の工程図]、事務室風景、大井本社における支社オンライン始動式(昭和48年)、オンライン端末とその画面 |
p72 |
営業
| 「新[営業]制度」による改革と伸展 |
昭和49年(1974年) |
写真、新制度実施に先立って開催された「支社・営業部管理職赴任前合同研修会」(昭和49年) |
p74 |
世相;経済
| 安定成長転換期の社会経済情勢 |
昭和50年代 |
写真、操業を停止した造船所(昭和53年)、社会情勢(成田空港開港 昭和53年。昭和50年代から60年代にかけて増大する対米貿易黒字が問題となり、内需拡大を迫られるようになった)、生活(高度経済成長は大量消費社会とゴミ問題をもたらした。レトルト食品売場)、風俗・文化(1000万円宝くじの発売 昭和51年。テレビゲームの登場は子供たちの遊び場を屋外中心から屋内中心へと一変させた) |
p76 |
営業;経営
| 新[営業]制度の導入 |
昭和48年(1973年)~昭和58年(1983年) |
写真、熱心に討議をつづける新制度委員会(昭和48年)、新制度を紹介する業界紙(『保険銀行日報』昭和49年2月8日付)、社内公募によって決定した新制度のシンボルマーク、営業部に張られた大地図のまえで討議するスタッフと営業部内に設置された支部の合同朝礼、支社・営業部管理職赴任前合同研修会で担当地区の具体的な開拓方法が討議された(昭和49年)、営業部内の事務風景、新制度実施に先立つ昭和48年に竣工した「渋谷教育センター」、千里教育センター(昭和56年)、戸塚教育センター(昭和58年) |
p78 |
商品;広告宣伝
| インフレと高齢化への対応 |
昭和48年(1973年)~昭和60年(1985年) |
写真、トイレットペーパーに殺到する買い物客(『毎日新聞』昭和48年11月19日付)、営業部における営業職員研修(昭和60年)、インフレを背景に開発された「転換制度」「個人定期保険」「物価指数定期保険」のパンフレット、一生涯の保障を提供する「悠悠保険」「リード21」「パシポート21」のパンフレット、医療費の高騰をうったえた募集資料。昭和58年ごろ使用した老後生活資金の準備を提案する生活設計プラン、「新長寿年金」のパンフレット |
p80 |
生命保険;消費者
| お客さまの声への対応 |
昭和51年(1976年)~昭和61年(1986年) |
写真、幅広い契約者の声を経営に生かすため、従来の「定議員会」に代えて設置した「評議員会」(昭和51年)。「安心のおたより」[(昭和53年~)]。本社からご契約者に直接送付した「ポピーだより」[(昭和60年~)]。昭和52年より配布された「ご契約のしおり 定款・約款」。ご契約者懇談会(昭和56年)。消費者モニターの懇談会。昭和54年から発行しているディスクロージャー誌「第一生命の現状」。ローカウンターに改装された本社と支社の窓口[(昭和61年)]。 |
p82 |
生命保険;海外事業
| 国際再保険業務への取り組み |
昭和49年(1974年)~昭和59年(1984年) |
写真、海外拠点をもつ日本企業向けに行われたIGP[(国際団体保険制度)]の説明会(昭和49年)とIGP制度のパンフレット。ミュンヘン再保険会社社長の来社(昭和55年)。来社したジョン・バンコック生命の社長・副社長と歓談する矢田恒久会長と塚本亮一社長(昭和49年)。新光人寿保険公司との再保険協定書に調印する西尾信一社長(昭和59年12月)。FALIAの研修風景 |
p84 |
情報システム
| 業務系システムの完成から情報系システムの構築 |
昭和49年(1974年)~昭和61年(1986年) |
写真、コスモス計画で導入されたIBM3600端末機。大井本社のオンラインコントロール室。大井本社コンピュータールームとBESTシステム開通式で祝電メッセージを全国に送信する西尾[信一]社長(昭和57年)。STAFFによって作成された資料。エポック計画で設置されたIBM5550。支払い業務を格段に迅速化した保険金部のファクシミリセンター。[日本オフィスオートメーション協会より受賞した]OA賞の楯[(昭和61年)] |
p86 |
経営;海外事業
| 金融環境の変化と運用の多様化 |
昭和55年(1980年)~昭和60年(1985年) |
写真、パーソナルローンのパンフレット[(昭和58年)]。国債の大量発行の動きを伝える新聞記事(『日本経済新聞』昭和57年3月3日付)。当社初めての投資用高層ビルとなった「新宿第一生命ビル」(昭和55年)。当社が主幹事となったオーストラリア共和国向け円建てシンジケ-トローンの調印式であいさつする西尾[信一]社長(昭和60年)。海外向けに英文で作成したアニュアルレポート(昭和55年版、大正13年版)。仙台のランドマークとして存在感のある「仙台第一タワービル」(昭和60年)。世界銀行幹部の訪問(昭和58年) |
p88 |
市場;広報
| 総合的な企業取引の展開 |
昭和49年(1974年)~昭和60年(1985年) |
写真、広域団体向けの厚生年金基金の説明風景(昭和58年)。取引業との緊密化をはかるため昭和49年に創設された「ポピー法人友の会」では積極的にイベントを開催した。企業向けのサービスをまとめて紹介した「サービスノートブック」(昭和60年)。高齢化が進展するなか、講師・聞き手ともに熱が入る「退職準備プログラム」セミナー(昭和60年)。年金が主役の時代という意味を込めて昭和60年から提唱した「ペンショナリゼーション」の新聞広告。『企業年金実務シリーズ』と『企業年金ガイドブック』 |
p90 |
事業所
| バブル形成崩壊期 |
平成5年(1993年) |
日比谷の第一生命館は同じ街区にあった「農林中央金庫有楽町ビル」とあわせて「DNタワー21」として改築された(平成5年) |
p92 |
世相;経済
| バブル形成崩壊期の社会経済情勢 |
平成元年(1989年)~平成8年(1996年) |
写真、社会情勢(昭和天皇崩御により新元号「平成」がスタート。阪神・淡路大震災 平成7年)、生活(消費税導入前日の上野のアメ横商店街 平成元年、バブル期を通じて海外旅行者が激増した 平成4年の成田空港)、風俗・文化(バブル景気は独特の風俗を生み出した。プロ・サッカーリーグ「Jリーグ」が人気に 平成6年) |
p94 |
事業所;営業
| オールアタック運動と金融サービスの多様化 |
昭和61年(1986年)~平成4年(1992年) |
写真、ライフデザインショップ町田店、「オールアタック運動」のポスター。「第一生命カード」と各支社に設置されたATM。多数の金融機関が出展した金融総合展で当社のブースは人気を博した(昭和61年7月、日本経済新聞社主催)。教育施設の充実にも引き続き取り組み、昭和62年3月に東戸塚教育センター本館、平成4年8月に同新館を竣工させた。ライフデザインショップ日本橋店と渋谷店。[図・]個人向け商品の概要 |
p96 |
広告宣伝;世相
| 社会とふれあうプロモーション活動 |
昭和60年(1985年)~平成元年(1989年) |
写真、ディズニーのキャラクターを使用した保険証券[(昭和61年)]。「ビッグサンダー・マウンテン」のオープニングセレモニーにおける桜井[孝頴]社長(昭和62年7月)。「ミニ作文コンクール」のチラシと応募用紙[(昭和60年~)]。支社ごとに開催された表彰式。ゴールドラッシュ時代のアメリカの鉱山鉄道をイメージした「ビッグサンダー・マウンテン」[(昭和62年)]。「サラリーマン川柳コンクール」の応募用紙とノベルティグッズ[(昭和62年~)]。平成3年より「サラリーマン川柳」の優秀作品を集めた単行本も発行され、13年までに11巻を数えた。[表・]「大人になったらなりたいもの」の推移{年(平成元年、平成7年、平成12年)、男女別(男子、女子)、それぞれ1位~3位の職業} |
p98 |
情報システム
| A-1計画と営業用携帯端末の導入 |
昭和62年(1987年)~平成4年(1992年) |
写真、OCR端末、パソコン、プリンター。支社教育担当者向けの支部パソコンとOCR端末の研修。平成元年導入の初代「パスカルくん」と平成6年の2代目。OCRで申込書を作成する営業職員。平成2年に導入された新経営情報端末PRISM、支社のPRISM推進短刀向けの集合研修。平成4年に完成した「府中情報センター」。 |
p100 |
商品;事業所
| バブル崩壊と当社の対応 |
昭和63年(1988年)~平成7年(1995年) |
写真、ニューヨーク拠点の入口と執務風景。アジア開発銀行向け円建てシンジケートローンの調印式。昭和63年に完成した総合トレーディングルーム。平成4年発売の25倍型「テンダー」。「リビング・ニーズ特約」「シールド」のパンフレット。工事中のDNタワー21と日比谷本館の落成式(平成7年) |
p102 |
災害
| 阪神・淡路大震災 |
平成7年(1995年)1月 |
写真、震災直後の「三宮第一生命ビル」と入居していた神戸支社の事務室。神戸支社臨時窓口と執務風景。阪神・淡路大震災被災地図。大阪総局が手配した救援物資運搬用のトラック。灘営業部の外観と内部に張られた移転告知。兵庫支部では無料でお好み焼きを提供した。 |
p104 |
催し
| 新たな飛躍に向けて |
平成13年(2001年)9月 |
写真、東京・晴海の「第一生命ホール」で開かれた第99回創立記念行事であいさつする森田[富治郎]社長(平成13年9月) |
p106 |
世相;経済
| 長引く不況下の社会経済情勢 |
平成9年(1997年)~平成12年(2000年) |
写真、長野県のデイサービスセンター(平成12年)。社会情勢(経営破綻した証券会社の店頭に殺到する人々 平成9年、求職者でにぎわうハローワーク新宿 平成10年)、生活(携帯電話が急速に普及 平成12年、日用雑貨が並ぶ100円ショップ)、風俗・文化(女子中高生を中心に「厚底靴」が流行、図書室でインターネットを使い資料を探す小学生たち) |
p108 |
法律;関係会社
| 新保険業法の成立と当社の対応 |
[平成8年(1996年)8月~平成10年(1998年)4月] |
写真、生保の損保子会社に事業免許が交付されたことを伝える新聞記事(『読売新聞』平成8年8月28日付)。損保参入を前に頻繁に行われた損保研修と、損保子会社の設立に向けて準備する事業企画室。公共債ディーリング業務参入を伝える新聞記事(『日本経済新聞』平成8年7月26日付)。第一ライフ損害保険の設立祝賀会、本社が入居したビル、商品パンフレット、本社受付。「第一ライフ投信投資顧問(株)」の本社受付、執務風景、投信商品のパンフレット。規制緩和の流れのなかで、同社は平成10年4月より投信委託業務を開始した。年々充実が図られているディスクロージャー誌『第一生命の現状』(平成12年度版)。健全性向上への取り組みを紹介するページ。 |
p110 |
商品;広告宣伝
| 生涯設計の推進 |
[平成6年(1994年)~平成13年(2001年)] |
写真、一生涯の収入と支出などを踏まえ、5大リスクに対してどのように準備するかを提案する設計書。生涯設計を考える上での情報を年代別に提供する冊子。第一生命ウェルライフサポートの執務風景と体験介護セミナー。新携帯パソコンNavitを使ってお客様にコンサルティングを行う営業職員。ドリームキングダムのパンフレットと代表的サービス。契約の継続期間、加入保険金額などに応じて計算されるポイントによって、ご契約者に各種のサービスを提供している。業界初の保険料払込免除特約をセットした「堂堂人生ハイバリュープラン」の新聞広告(平成12年8月) |
p112 |
提携・合併;催し
| 生涯設計の完成に向けた提携 |
[平成10年(1998年)~平成13年(2001年)12月] |
写真、DIAM[(興銀第一ライフ・アセットマネジメント(株))]設立のテープカットでの固い握手。DIAM設立の新聞広告(平成11年9月30日)。興銀の支店スタッフとの合同勉強会(平成11年、大阪北支社)。当社のホールセール部門と安田火災との「合同情報交換会」。オリエンテーションと特設ブースでの個別打ち合わせ(平成12年8月)。提携調印での安田火災平野社長、当社森田[富治郎]社長、AFLACエイモス社長と森田社長、AFLAC日本社松井社長。業務提携の全体図(平成13年12月末現在)。安田火災の「カーオーナーズ保険ONE」のパンフレット。AFLACの「21世紀がん保険第一生命ドリームプラン」のパンフレット。安田火災と共同で開催した企業経営者向けのセミナー。安田火災と共同で運営するインターネット上の保険ポータルサイト「ins-dream(インズドリーム)」 |
p114 |
市場;商品
| 法人市場の変容への対応 |
[平成8年(1996年)8月~平成12年(2000年)] |
写真、安田火災と共同で運営する会員制法人向けサービス「サクセスネット」。現在薬3,000社に導入され、高い評価を得ているSELFSの画面とパンフレット。確定拠出年金分野における共同事業会社3社のパンフレット。「資産管理サービス信託銀行(株)」「日本インベスター・ソリューション・アンド・テクノロジー(株)」「確定拠出年金サービス(株)」。確定拠出(DC)年金や新確定給付(DB)年金について「年金フォーラム」を開催し、タイムリーな情報をお客さまに提供している。DC向けの新商品「第一のつみたて年金」。企業向けに開催したカフェテリアプランのセミナーと受付風景(平成10年9月) |
p116 |
情報システム;教育・研修
| 新情報ネットワーク計画とIT戦略 |
平成9年(1997年)~平成13年(2001年) |
写真、パソコン1人1台体制に備えて支社長対象の研修も行われた(平成9年8月)。支部におけるNavit研修(平成11年6月)。インターネット上の仮想店舗「ライフデザイン サイバーショップ」とその開設を伝える新聞記事(『日刊工業新聞』平成8年8月14日付)。東京と大阪の「コミュニケーションデスク」。電話センターの開所式(平成9年6月)。平成11年8月に支部の内勤職員のパソコンもネットワークに組み込まれた。平成12年末から1年間、政府主催で行われたインターネット博覧会において、パビリオンサイト「ライフ&マネー」を運営し、インターネットゲームを提供した。「NET総合照会」の画面 |
p118 |
品質管理;表彰
| 「日本経営品質賞」の受賞 |
平成13年(2001年) |
写真、日本経営品質賞の受賞を広くお客さまに報告した新聞広告とチラシ。職員1人ひとりが品質向上に取り組むための情報をまとめたハンドブック、お客さま応対のポイントをまとめたハンドブック、当社の経営方針などをまとめたポケット版の小冊子。社内LAN上で社長みずから経営方針を語り、職員の質問に答える「ネットワーク社長室」。平成13年12月14日に行われた表彰式で受賞講演を行う森田[富治郎]社長。トロフィーと表彰楯。職員の小集団活動「New Best Way活動」と「チームワーク活動」の全社発表大会。当社の経営品質向上への取り組み概念図 |
p120 |
催し;社会貢献
| 100周年記念事業 |
平成12年(2000年)8月 |
写真、100周年ロゴマーク。平成13年9月にオープンした東京ディスニーシーと、当社が提供するアトラクション「センター・オブ・ジ・アース」。当社は東京ディズニーランドと同様に、東京ディスニーシーでもベビーカーと車いすのレンタル施設を提供している。100周年記念事業の一環として再興された第一生命ホール。平成13年10月のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による特別演奏会(サントリーホール)。100周年記念商品「堂堂人生『保険工房』」と「悠悠人生」のパンフレット |
p122 |
広告宣伝
| 戦後の広告宣伝 |
昭和25年(1950年)~平成14年(2002年) |
写真、昭和20年代{昭和25(或る晴れた日に!)、昭和26(ラジオ番組「音楽の星座」)}、昭和30年代{昭和36(「スポーツニュース」でのCM、「日曜夕刊」でのCM)}、昭和40年代{昭和45(「奈良和モーニングショー」での生CM、ペットマークによるCM)、昭和46(10倍保障 セールスマン篇)、昭和47(お元気ですか こんにちは 第一生命です)}、昭和50年代{昭和51(セールスマン・セールスレディ 第一のひと)、昭和54(こども保険成人祝型)、昭和58(お父さんはガンバルマン 波篇)}、昭和60年代{昭和60(リード21太鼓判 家庭篇)、昭和61(ディズニーシリーズ 素敵な出会い篇、パスポート21 野球篇)}、平成元年以降{平成5(パスポート新鮮組 空港篇、紙上面接)、平成6(キーパープラン)、平成7(新通院特約)、平成8(Uシリーズ Uオンリーユー篇)、平成11(第一でナイト 堂堂人生)、平成13(第一でナイト 提携)、平成14(第一でナイト 堂堂人生 保険工房)} |
p128 |
社会貢献
| 社会貢献活動 |
昭和10年(1935年)~平成13年(2001年) |
写真、{戦前(財団法人保生会)、昭和20年代(保健文化賞、財団法人矢野恒太記念会)、昭和30年代(財団法人第一住宅建設協会、愛児館、財団法人心臓血管研究所、財団法人地域社会研究所)、昭和40年代(相互愛の拠金、財団法人姿勢研究所、財団法人国際保険振興会)、昭和50年代(全国小学生テニス選手権大会)、平成元年以降(緑のデザイン賞、東京ゾリステン親子のための室内楽コンサート、マッチングギフト制度、VOCA(ヴォーカ)展、第一生命ギャラリー、モーツァルト住家復元事業、第一生命ホール)} |
p132 |
組織
| I 会社組織図 |
平成14年(2002年)4月1日現在 |
組織図 |
p138 |
事業所
| II 支社 |
平成14年(2002年)4月1日現在 |
日本地図上に支社の所在地と名称を記す。首都圏、名古屋、大阪の3地区は詳細を別掲 |
p140 |
関係会社
| III 子会社など 1.国内 |
平成14年(2002年)4月1日現在 |
表、名称、設立年月日、事業の内容 |
p141 |
関係会社
| III 子会社など 2.海外 |
平成14年(2002年)4月1日現在 |
表、関連会社(名称、設立年月日、事業の内容)、駐在員事務所(名称、設立年月日、所在地) |
p141 |
関係会社
| III 子会社など 3.財団法人 |
平成14年(2002年)4月1日現在 |
表、名称、設立年月日、設立の目的、主な事業 |
p141 |
役員
| IV 役員一覧 |
明治35年(1902年)~平成13年(2001年) |
図、年、氏名、役職名(会長、社長、副社長、専務取締役、常務取締役、取締役、常任監査役、監査役、取締役相談役、相談役)を色で分け、それぞれの就任年月と退任年月を添える |
p142 |
財務・業績;売上
| V 統計 |
明治36年度(1903年度)~平成12年度(2000年度) |
表、年度、新契約高、保有契約高、総資産、支払保険金 |
p146 |
沿革
| VI 年表 |
慶応元年(1865年)~平成14年(2002年) |
年表、年、当社事項、業界・一般事項 |
p147 |