日本製靴(株)『Steps : 日本製靴の歩み 1902~1989』(1990.01)

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目次項目 ページ
STEPS NP
日本製靴の歩み NP
新世紀へのステップとして。 横内敬一 NP
目次 p9
プロローグ p16
明治35年の日本製靴創立に参加した有力4社とは......。 p19
創業総会は銀座の一角の洋館でその席にタイムスリップしてご案内。 p19
第1回株主定時総会も順調にすべりだし早くもドイツに製靴機械を発注。 p21
明治40年1月調査「東京市京橋区全図」 p24
第一章 靴産業の芽ばえ p26
タイムマシーンは速度をあげて黒船襲来から文明開化へ。 p29
「近代式兵制の確立には、靴の自給が必要」と熱っぽく西村に説く大村益次郎。 p29
東京靴同業組合による「靴の記念日」の決定は、史実に照らしての根拠がある。 p31
「夏になっても秋が過ぎても1足の軍靴の注文もありませんでした」 p32
伊勢勝は日本ではじめて新聞に靴の広告を掲載した。 p33
陸軍省による軍靴大量発注とその身勝手な取り消し。 p34
明治7年の東京では靴は1足1円30銭前後だった。 p35
明治6~7年ごろ東京の街は唐物店など新しい活気に満ちていた。 p36
西村の危機乗り切りを渋沢栄一の友情の深さが助けた。 p39
新生「桜組」の名に秘められたのは郷土・佐倉と国花への想い。 p40
旧幕以来の皮革取り締まり役・弾直樹も洋式化の到来を予感した。 p44
弾直樹の双肩には、旧幕以来の配下の人たちの生活がかかっていた。 p45
二転三転ののち浅草亀岡町に靴・革の製造工場を経営。 p46
つぎつぎと鉄道が伸び、銀行も設立される。 p48
日本製靴(株)の創立系統図 p49
第二章 近代化への歩み p56
交通上、金融上の基盤が整備され、軽工業国への道を開く。 p59
明治18年『東京流行細見記』にみる在京の靴屋さんたち。 p59
『東京府統計書』に見る靴工場の組織・規模と製造者。 p61
憲法発布の奉祝行事を機として、官員間に洋服や靴が普及する。 p63
「人の三井」「組織の三菱」の違いは商法施行のころから始まる。 p63
伝統型皮革業の代表・弾直樹には、生前の功により、銀盃を下賜される。 p64
実業界の傑物・大倉喜八郎による製靴事業が東京に進出。 p65
西村勝三は、少し遅れて「桜組」を合資会社に改組する。 p66
開明的実業家・西村による靴工の組織化とその舵取り。 p67
日清戦争がアジアの日本に残したものは......。 p69
日清戦争の好影響で地歩を確立し、靴産業は輸出へ全力を注ぐ。 p69
当時“重要輸入品”とされた靴底革にも、国内自給への努力が続けられた。 p69
力をつけた日本の靴産業は、さらに製靴機械の輸入に目を向ける。 p71
第三章 日本製靴の誕生 p72
“八甲田山”死の雪中行軍や日英同盟は、日露戦争のまえぶれだった。 p75
日本製靴の設立に参加した有力4社、その経歴をまとめてみると......。 p75
渋沢栄一を縁結びの神として西村と大倉の両巨頭が手を握る。 p78
株主の総会出席状況を手がかりに会社運営への関心度を測る。 p79
着々と操業の準備は進み1年半後に初注文を受ける。 p80
日露戦争の開始も終幕も列強環視の中で行われた。 p83
増産につぐ増産にもかかわらず軍靴はまだまだ不足ぎみだった。 p84
財界のムードは無賠償講和には沈滞し、投機熱に浮かれたりした。 p85
西村勝三の死後、皮革事業は大倉喜八郎が指導力を発揮する。 p87
早くも20世紀初頭、日本靴産業は連続して輸出超過。 p87
在京の靴業者900人をまとめ、「東京靴同業組合」が結成された。 p90
ヨーロッパに大戦が勃発して日本の貿易は難問に直面した。 p92
ロシアから軍靴の大量発注100万足。日本製靴は55万足の受注に活気づく。 p95
大正4年、日本の靴の輸出量は前年の10倍にふくれあがった。 p95
おでん爛酒屋の店頭は人の山。安値洋食店が、これまた“人の山”の毎日。 p97
ロシア革命の混乱でロシアへの“輸出代金未回収”が続出する。 p101
会社創立後、20年の歳月が流れ、経営陣の顔ぶれも変化する。 p103
第四章 軍需を中心として p104
国内不況打開の道を大陸進出に求め、結局は太平洋戦争での破局に向かう。 p107
大正12年春、大沢亨が専務に就任して所信表明の中で新時代への対応を説く。 p107
関東大震災が9月1日正午近く襲い京浜の経済中枢機能はマヒ状態に陥る。 p109
千住町大字中組の日本製靴の損失は工場4棟と社宅の倒壊で計50万円。 p110
帝都復興を掛け声とした震災景気もバラック建築に似た底の浅さであった。 p111
震災後は機械靴の質的向上が見直され、グッドイヤー式機械の導入が広まる。 p113
震災特別損失は決算上わずか1期で、資産再評価により補てんされた。 p114
伊藤琢磨の会長就任で再建に意欲、大倉喜八郎は米寿引退、大正から昭和へ。 p115
女性の洋装が大震災を機に普及して婦人靴にも市場開拓の夢がふくらむ。 p116
童謡『赤い靴』『靴が鳴る』の歌詞で都会の子どもに靴が身近となった。 p117
取締役会長となった伊藤琢磨、そのプロフィールと経営戦略とは......。 p118
日本製靴史上ただ一度の減資は会社の堅実化を期したもの。 p119
昭和初期の恐慌や政治不安に耐え、靴業界は前向きに健闘を続けていく。 p120
会社百年の計として人材の確保と養成を心がける。 p121
平和期とみられる昭和初期までの日本製靴の軍靴生産の規模をさぐる。 p123
陸海軍部内の抗争と革新官僚の登場で国民生活に戦時色ますます濃厚。 p125
日本製靴も「軍管理工場」に指定され、華南の海南島へ修理班を派遣した。 p127
太平洋戦争突入と前後して社内機構の簡素化と整備をはかる。 p131
靴の大増産は2交替制と人海戦術で。無鉄軍靴やタクトシステムの名案も。 p132
軍の要請でアジア各地に靴工場建設。比島では現地派遣員の悲劇も。 p135
上海製靴の目標は日産2,000足。現在も中国でこの工場を生かし靴を生産。 p137
本土決戦態勢の一環として士気振興の新制度を導入。 p139
往年の少年勤労動員学徒が語る戦時下の靴の現場こぼれ話。 p143
空襲下に働き生きぬいた人々も玉音放送に涙した。 p144
第五章 復興への槌音 p146
敗戦の虚脱の中で文化国家待望の声が靴産業再建に希望の曙光を投げかけた。 p149
占領政策は日本経済に対し、また日本製靴に対し、どんな影響を与えたか。 p149
日本経済の民主化と称して「財閥解体」は持株会社整理委員会の手で進められる。 p151
持株会社・大倉鉱業の系列としで日本製靴も「制限会社」に指定される。 p152
日本経済を計数的に把握するためGHQは次々に報告書を提出させた。 p155
制限会社ゆえに、退職金支払や役員報酬増額も許可を要した。 p155
特別経理会社として新旧勘定を区分し、戦時補償の打切りに備える。 p157
特別管理人として4人を選任したが、適用除外申請は見送った。 p158
再建整備計画とともに、戦後インフレの進行が思いがけない効果を生む。 p159
昭和24年、再建整備計画の実行完了。占領政策から完全に解放される。 p160
戦後日本の労働運動の消長も占領政策によって大きく規定された。 p161
日本労働運動の胎動期のエピソードに城常太郎らの「職工義勇会」があった。 p161
敗戦の廃虚のなかに早くも日本製靴労働組合が結成された。 p163
生産管理から経営管理へと闘争戦術を転換させた背景と過程を追跡する。 p164
GHQの解釈も揺れ動いたあと、生産管理は非合法と判定された。 p165
占領行政下、自由経済復活を目ざす日本の靴業界には問題が山積。 p166
日本製靴の労働協約に盛られた労資双方の言い分を分析する。 p167
ドッジ・ラインの超均衡予算以後、労資交渉に新局面が展開する。 p169
労働組合の分裂から再建への足どり。法廷闘争も「和解」で収束へ。 p171
朝鮮動乱の勃発は日本戦後史の意外な転換点と位置づけられる。 p173
国連軍の派遣と中共義勇軍の介入から“老兵”マッカーサーが消え去るまで。 p174
米ソの冷戦を背景に日本占領政策は左から右へ公職追放180度の転換。 p175
「経済白書」にみる動乱開始の年は、「特需」の経済効果が大きかった。 p176
日本製靴の経営陣はすでに戦前から民需・国際化時代の到来を予測。 p176
日本製靴に「特需」の恩恵―その推移を計数中心に追う。 p178
第六章 新しい服飾文化へ p180
戦前から海外に目を向けて先端技術の導入を熱心に先取りした。 p183
戦後統制から朝鮮特需へ。実質的な民需は昭和27年から。 p183
統制解除後から民需靴拡販までの努力と苦労。 p185
米軍の靴を韓国向け特需に。サイズの縮小に苦心した“改造靴”。 p187
西ドイツ・モエナス社などから新鋭製靴機械を輸入。 p187
有名タレントの出演でTBSラジオにクイズ番組を提供。 p189
日本製靴も参加して両国国技館で見本市を開催。 p189
「日本製靴業生産性視察団」がもたらした大きなメリット。 p190
かわぐつJIS問題はファッションによって解決。 p192
安全作業靴の画期的製造法とDV式設備の導入。 p192
日本製靴労組の代表が第1回世界労連産別会議に参加。 p193
フリーマン・シューと技術提携、本格的な民需靴生産体制に役立つ。 p194
生活文化の変化が靴などの消費を押し上げていく。 p194
「リーガル」ブランドの生産・販売を開始。 p195
VANヂャケットとの提携でVAN-REGALが衝撃的にデビュー。 p198
東京駅八重洲口に直営第1号リーガル専門店をオープン。 p199
フランチャイズ・チェーンの展開、ここに始まる。 p200
マイクロシューズの開発で軽くて丈夫な靴の先鞭をつける。 p201
「ショーカー」と「ショールーム」営業活動に新形式が登場。 p201
人工皮革の登場は東京オリンピックの年。 p202
チヨダシューズとの共同出資で全国規模の販売会社を設立。 p202
海外技術の導入を続けながら自社ブランド「クララ」「レニカ」を発表。 p203
レディス・リーガルが大ヒット、イブ・サンローランとの提携商品も発売。 p205
日本万国博覧会記念にタイム・カプセル収納の靴を製作。 p205
製靴業百年祭を開く。チヨダシューズ、経営権の委譲。 p206
本社中枢機構を新宿・市ケ谷へ。リーガル・スニーカーが爆発的なヒット。 p207
ラルフ・ローレンなどブランド政策展開の推移。 p209
会社創立80周年を迎えて諌早社長がTQC活動の導入を宣言。 p211
新ブランドの生産・販売のライセンシー契約の締結があいつぐ。 p213
日本靴科学研究所を設立して産学連携の推進をはかる。 p214
多様化時代に即してブランド群に一層の広がりをめざす。 p215
科学的な経営とシステム化への変遷。 p217
タイのSAHAグループと「リーガル」ブランドのライセンス契約。 p219
結章 国際化に向かって p220
社是「団結・創意工夫」のこころを「お客様第一」に生かそう。 p223
TQCとCI、そして「戦略的情報システム」。 p223
足もとから美と健康を創造するトータルファッション・クリエイター。 p225
シューズ市場の国際化と自由化に向けた対応を進める。 p226
より社会性のある企業として、文化活動に貢献する。 p226
夢のある拡がりへ。多角化の可能性を求めて...。 p227
社是 p228
日本製靴(株) 役員 p229
日本製靴(株) 定款 p230
日本製靴(株) 取締役・監査役一覧表 p231
靴とファッション史 Shoes Fashion & Advertisements p237
靴の起源 p238
明治・大正 p242
1950年代(昭和25年~34年) p247
1960年代(昭和35年~44年) p252
1970年代(昭和45年~54年) p258
1980年代(昭和55年~平成元年) p268
日本製靴 広告受賞作品記録 p278
資料・年表 p279
日本製靴(株)会社概要 資本金の推移 p280
売上高・従業員の推移 p281
組織図 p282
リーガルシューズ・フランチャイズチェーンおよび関連ショップ p283
日本製靴グループのネットワーク p284
年表 p286
文献一覧 p297
写真資料提供一覧 p298
編集を終えて。 島田勝治 p299
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