※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和13年(1938) | - | 【渋沢敬三】国民貯蓄奨励委員会委員。 | 渋沢関係略年譜 |
4月1日 | 国家総動員法公布(5・5施行) | ||
12月28日 | 東京府知事より、産業組合法に基づく「有限責任瀧野川区信用組合」の設立認可受ける | ||
昭和14年(1939) | - | 【竜門社】財団法人渋沢青淵翁記念会と共催で「青淵先生生誕百年記念祭」を挙行する。日本実業史博物館建設地鎮祭を挙行する。 | 渋沢関係略年譜 |
1月10日 | 設立発起人会を開催 | ||
2月20日 | 創立総会を開催 | ||
2月23日 | 設立登記完了。旧瀧野川区内一円を事業地区として、瀧野川医師会館(北区西ヶ原三丁目二番地、順天堂医院滝野川寮(当時は小峰病院の隣)の一室を借用、業務開始 | ||
2月23日 | 初代組合長に浅香銀治郎就任 | ||
7月8日 | 国民徴用令公布(7・15施行) | ||
昭和15年(1940) | - | 【竜門社】第100回会員総会並に記念展観を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 瀧野川区西ヶ原町八九八番地(現・北区西ヶ原二丁目四五番一二号)に移転(事業閉鎖の入山銀行の建物・借地権を買収) | ||
4月 | 浅香銀治郎組合長、東京市議会議員に立候補のため辞任 | ||
4月 | 第二代組合長に保坂巳三太就任 | ||
9月27日 | 日独伊三国同盟調印 | ||
11月10日 | 紀元二六〇〇年式典挙行 | ||
昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
12月8日 | 太平洋戦争開戦(米英に宣戦布告、ハワイ真珠湾攻撃) | ||
昭和17年(1942) | - | 【渋沢敬三】日本銀行(以下、日銀)副総裁就任、これに伴い第一銀行など辞任。 | 渋沢関係略年譜 |
4月18日 | 金融統制団体令公布 | ||
6月5日 | ミッドウェー海戦 戦局の転機となる | ||
昭和18年(1943) | - | 【渋沢敬三】大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 | 渋沢関係略年譜 |
3月11日 | 市街地信用組合法公布(4・1施行) | ||
7月1日 | 東京都制施行 | ||
昭和19年(1944) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 | 渋沢関係略年譜 |
8月4日 | 学童疎開はじまる | ||
10月24日 | レイテ沖海戦(日本連合艦隊の主力失う、神風特攻隊出撃) | ||
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
4月13日 | 東京空襲による戦禍を受け、建物ならびに事業書類の大半を焼失直ちに区役所(現・北区滝野川支所)下の都電通りに面する商家を借受け、仮営業所とする |