※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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文政12年(1829) | 3月 | 小坂//陸中国鹿角郡小坂村農民多左衛門〔熊谷〕、同村杉原で鉛鉱と思われるものを発見し、杉原鉛鉱と命名 | |
天保12年(1841) | 5月15日 | 藤田伝三郎、長州萩に出生 | |
文久元年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月15日 | 小坂//陸中国鹿角郡小坂村岩沢農民与作〔小林〕、同村薔薇森ノ沢付近で銀鉱を発見 | ||
文久2年(1862) | 12月 | 小坂//発見者与作、同村上小坂農民甚左衛門〔小笠原〕その他とともに銀山試掘を南部藩へ出願〔翌年3月許可〕 | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月17日 | 小坂//南部藩、大島高任を銀山御用掛に任命し、小坂鉱山の本格的開発・製錬所建設に着手させたが、維新動乱のため中絶 | ||
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月7日 | 藤田伝三郎の長子平太郎出生 | ||
11月24日 | 小坂//官営となる | ||
- | 藤田伝三郎、大阪高麗橋通二丁目に兵部省用達を開業 | ||
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 小坂//再開起業を始め、製錬場完成 | ||
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 小坂//英式分銀炉設置 | ||
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 藤田伝三郎の長兄藤田鹿太郎・次兄久原庄三郎、上阪して事業に参加、土建業を兼営 | ||
- | 小坂//ドイツ人技師クルト・ネットーの指導で新製錬法への転換に着手〔10年完了〕 | ||
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 複式簿記を採用 | ||
明治9年(1876) | - | 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 店舗を高麗橋通四丁目へ移転 | ||
- | 元山口県令〔知事〕中野梧一、事業に参加〔13年に退社〕 | ||
明治10年(1877) | - | 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 小坂//政府より南部利恭〔旧領主〕へ貸下げ | ||
9月 | 規則を制定、藤田伝三郎商社と称する | ||
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月 | 店舗を高麗橋通一丁目へ移転 | ||
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 小坂//再び官営 | ||
12月2日 | 藤田伝三郎の次子徳次郎出生 |