(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

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月日 事項 年表種別
大正7年(1918) 3月 山川均、〈民本主義の煩悶〉で吉野作造を批判。 内外事情
大正8年(1919) 4月21日 堺利彦・山川均らにより《社会主義研究》(平民大学、のち社会主義研究社)創刊。(1923年4月《無産階級》と合して《赤旗》と改題)。 出版界
大正11年(1922) 1月1日 山川均らにより《前衛》創刊。東京社《コドモノクニ》創刊。 出版界
8月 山川均、《前衛》に〈無産階級運動の方向転換〉を発表、大衆の中へと提唱。 内外事情
大正15年(1926) 2月 福本和夫《マルクス主義》誌上で山川均の方向転換論を批判、福本イズム擡頭。 内外事情
昭和2年(1927) 12月6日 《労農》創刊、主幹山川均、荒畑・大森・猪俣ら参加し労農派を形成。 内外事情
昭和3年(1928) 2月 日本共産党、山川均ら労農派を除名。 内外事情
昭和7年(1932) 5月20日 《日本資本主義発達史講座》刊行開始―全7巻。編集:大塚金之助・野呂栄太郎・平野義太郎・山田盛太郎。明治維新による日本の近代国家の成立を、ブルジョア革命と規定するか、封建制最後の段階としての絶対主義の確立と規定するかは、この当時、無産階級運動を二つの陣営に大別するような見解の対立であった。この講座の執筆者は共通して後者の立場に立ち、その立場から明治維新とその後の日本資本主義の発達を解明し、〈講座派〉の名をもって呼ばれるに至った。これと対立する山川均氏等は雑誌《労農》を中心としてその主張を展開していたので〈労農派〉と呼ばれ、〈講座派〉対〈労農派〉の対立は、これ以後長く学界に論争の尾を引き太平洋戦争後に及んだ。平野義太郎氏の《日本資本主義社会の機構》(1934.4.20刊)や山田盛太郎氏の《日本資本主義分析》(1934.2.21刊)は、この講座の論文を増補して成った著作である。この講座の中心は野呂栄太郎氏であった。編集者を中心に執筆者が約半年にわたって討論をした後執筆にかかったことは、この講座ではじめて行われた異例のことであった。はじめの3巻までは検閲を無事通過したがそれ以後はほとんど全部発売禁止処分にあい、その改訂版が漸く読者の手にわたるという、はげしい干渉をうけた出版であった。(1933.8.26完結)。 岩波書店
昭和12年(1937) 12月15日 山川均・鈴木茂三郎・大森義太郎ら労農派検挙(第1次人民戦線事件)。22日、日本無産党・日本労働組合全国評議会に結社禁止。社大党、人民戦線事件関係者を除名。 内外事情
昭和21年(1946) 1月15日 山川均、人民戦線を提唱。 内外事情
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