(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

"明石照男"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
大正14年(1925) 9月 会計に複式簿記制を採用―岩波茂雄の友人第一銀行頭取明石照男氏と相談、同じく第一銀行の曽志崎誠二氏を煩わして従来の帳簿組織を改め、複式簿記を採用、新たな会計制度を作った。曽志崎氏は出版業というものの複雑さをこのとき知って驚いたという。岩波書店は開業以来13年にして始めて大福帳式の旧経営から脱しようとしたが、この折にはまだ帳簿の組織の改革だけに止まった。 岩波書店
昭和15年(1940) 11月2日 風樹会設立―岩波茂雄は、かねて国家の政策および社会の風潮が共に基礎科学の研究を重要視せず、その奨励のおくれていることを憂えていたが、とくに日華事変が始まって以来、世をあげて目前の時務にのみ没頭し、この傾向がいっそう激しくなったことに対して、深い遺憾の念を抱いていた。事変に伴う各種の寄付の要請に対しては、これを峻拒しつづけて来たが、このときに至って、独力で基礎科学の奨励に力を致そうと決意し、自己の所持金の殆んど全額にあたる100万円を投じて財団法人風樹会を設立した。財団の目的は哲学・物理・数学等基礎科学の研究に従事する有為な若い学者の生活を助けることにあった。風樹会と名づけたのは、岩波が早く父母を失い、年を追って風樹の嘆きを深くしていたことによる。役員は理事長:西田幾多郎、理事:岡田武松・高木貞治・田辺元・小泉信三、監事:明石照男の諸氏であった。その運営については、事が学問に関するからといって、岩波はいっさいこれに関与しないことを方針とした。この財団は、戦時中に多くの学者に生活費を支給し研究に専念する便宜を提供することができたが、戦争によって財政上の大打撃を受け、従前の機能を発揮することが困難となった。岩波茂雄の死後、岩波家および岩波書店はこの財団の復興をはかり、現在は再び多くの学者に援助することができるようになった。なお設立にあたり、11月2日全店員にも臨時給与を支出し、祝賀の会を催した。 岩波書店
昭和17年(1942) 12月5日 《図書》12月号、終刊号として発行―各出版社の月報類は日本出版文化協会発行の月報に吸収されることになったためである。やむをえぬ《図書》の廃刊を惜しむ読者の要望に対しては、希望者に毎月の発刊書目をはがきに印刷して知らせることになった。(翌年3月より実施)。//〔12月号内容〕表紙:ミレー〈種まき〉、解説:児島喜久雄。里見弴〈読書について〉、西田幾多郎〈明治二十四五年頃の東京文科大学選科〉、高村光太郎〈三十年〉(朗読のためのことば)。//特集〈回顧三十年感謝晩餐会記録〉内容〈回顧三十年感謝晩餐会の記〉〈あいさつ:岩波茂雄〉〈来賓あいさつ:三宅雪嶺・牧野伸顕・小泉信三・幸田露伴・明石照男・高村光太郎(詩朗読)・天野貞祐・安井てつ・藤原咲平〉〈来会者芳名〉〈付録・杉浦重剛先生に奉る書:岩波茂雄〉。 岩波書店
昭和45年(1970) 10月29日 曽志崎誠二氏逝去―元第一銀行取締役・第一信託銀行社長・朝日銀行頭取。岩波茂雄の友人明石照男氏の推薦によって、氏は大正15年から岩波書店の財政経理の相談役となり、会社設立後は監査役に就任されていた。 岩波書店
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