※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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弘化4年(1847) | - | 【渋沢栄一】従兄尾高惇忠から漢籍を学ぶ。〔7歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | この年 文斎「弘化版長崎土産」(1冊、大和屋版)版行 | その他の動き(県内外) | |
嘉永元年(1848) | - | 【渋沢栄一】このころ実名を美雄とする。後に伯父渋沢誠室の命名で栄一と改める。〔8歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | この年 本木昌造が西洋印刷機一式、鉛活字をオランダから輸入 | 県内マスコミ関連 | |
- | この年 この年前後 各国軍艦来航相次ぎ、開国を迫る。国内に洋書需要の声も | その他の動き(県内外) | |
嘉永2年(1849) | - | この年 長崎の崇福寺山門再建、大和屋版「長崎八景」に描かれる | その他の動き(県内外) |
嘉永4年(1851) | - | この年 本木昌造が鉛の流し込み活字を製造、「蘭和通弁」の一部を試し刷り | 県内マスコミ関連 |
嘉永5年(1852) | - | この年 福地桜痴(11歳)が長崎で「皇朝二十四孝伝」を著し“福地の天童”と騒がれる | その他の動き(県内外) |
嘉永6年(1853) | - | 【渋沢栄一】家業の畑作、養蚕、藍葉の買入、藍玉製造販売に精励。〔13歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月9日 | ペリー提督浦賀に来航、通商求める | その他の動き(県内外) | |
7月18日 | ロシア使節プチャーチン長崎来航、通商求める | その他の動き(県内外) | |
安政元年(1854) | - | この年 オランダが「阿蘭陀風説書」の幕府献上をやめる | 県内マスコミ関連 |
- | この年 日露交渉など時局を取り入れた民謡「ぶらぶら節」(作者不詳)丸山を中心に流行、市街に広まる | その他の動き(県内外) | |
安政2年(1855) | 7月29日 | 幕府が長崎に海軍伝習所開設 | その他の動き(県内外) |
8月 | 長崎奉行荒尾石見守の蘭書摺立願で、西役所に活字判摺立所創設。官営印刷の始まり。本木昌造が同所掛となる | 県内マスコミ関連 | |
10月 | 安政大地震 | その他の動き(県内外) | |
12月23日 | 日蘭和親条約を長崎で調印 | その他の動き(県内外) | |
安政4年(1857) | 12月 | 活字判摺立所が西役所から江戸町に移転、のち出島部屋が設けられる | 県内マスコミ関連 |
- | この年 舎密研究所が大村町に開設され、上野彦馬入門 | その他の動き(県内外) | |
- | この年 福地桜痴(16歳)がオランダ稽古通詞となり、12月上京 | その他の動き(県内外) | |
安政5年(1858) | - | 【渋沢栄一】従妹尾高千代(ちよ、尾高惇忠の妹)と結婚。〔18歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | この年 出島印刷部屋に「阿蘭陀印刷所」設置、本木昌造が入所、取り締まる | 県内マスコミ関連 | |
- | この年 長崎での踏絵廃止 | その他の動き(県内外) | |
- | この年 出島のオランダ商館廃止、領事館となる | その他の動き(県内外) |