※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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安政6年(1859) | - | この年 福地桜痴、外国奉行に採用 | その他の動き(県内外) |
- | この年 長崎、神奈川、函館が開港 | その他の動き(県内外) | |
万延元年(1860) | - | この年 幕府、活字判摺立所の廃止令を出す | 県内マスコミ関連 |
- | この年 本木昌造、飽ノ浦製鉄所掛となる | その他の動き(県内外) | |
- | この年 長崎で外人居留地協定成立 | その他の動き(県内外) | |
- | この年 上野彦馬がオランダ商人から写真機を購入、江戸に出て撮影 | その他の動き(県内外) | |
文久元年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月3日 | ロシア艦が対馬に来航、滞泊の許可を求める(対馬事件) | その他の動き(県内外) | |
6月22日 | 日本最初の外字新聞「The Nagasaki Shipping-list and Advertiser」(英国人A.W.ハンサード、週2回刊)創刊 | 県内マスコミ関連 | |
10月1日 | 「The Nagasaki Shipping-list and Advertiser」廃刊 | 県内マスコミ関連 | |
11月23日 | 英国人A.W.ハンサード横浜に移住「Japan Herald」と改題して復刊 | その他の動き(県内外) | |
12月22日 | 福地桜痴、欧州使節団の一員として渡欧 | その他の動き(県内外) | |
文久2年(1862) | 1月 | 「阿蘭陀風説書」に代わる「官板バタビヤ新聞」(幕府の蕃書調所=オランダ政庁機関紙翻訳版)発刊、8月刊行の第3回以後「官板海外新聞」と改題 | 県内マスコミ関連 |
11月1日 | 上野彦馬が「舎密局必携」を著して帰郷、中島川畔に写真館を創設(下岡蓮杖と並び日本写真の祖となる) | その他の動き(県内外) | |
- | この年 活字判摺立所、印刷施設の大半が江戸に送られ事実上閉鎖 | 県内マスコミ関連 | |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月2日 | 薩英戦争(3日まで) | その他の動き(県内外) | |
- | この年 西道仙が長崎酒屋町で医を開業 | その他の動き(県内外) | |
- | この年 グラバーがグラバー邸を建立 | その他の動き(県内外) | |
慶応元年(1865) | - | 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月24日 | 大浦天主堂完工 | その他の動き(県内外) | |
5月1日 | 坂本竜馬が同志と「亀山社中」つくる | その他の動き(県内外) | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | この年 「ジャパン・ヘラルド」発行禁止となる | その他の動き(県内外) |