※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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寛文10年(1670) | 2月25日 | 深良用水竣工 | 明治11年以前 関連事項 |
元文元年(1736) | - | (元文元年)地獄山(大涌谷)から仙石原に引湯、後湯口破損したため廃止(約6年間)(1740年まで) | 明治11年以前 主要事項 |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 仙石原関所廃止 | 明治11年以前 関連事項 | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 再び地獄山(大涌谷)から仙石原元湯場(現仙郷楼)に引湯、湯治宿開業 | 明治11年以前 主要事項 | |
- | 芦の湖で渡船業始まる | 明治11年以前 関連事項 | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 上湯場(現冠峰楼)、下湯場(現万岳楼)に湯治宿開業 | 明治11年以前 主要事項 | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 仙石学校、長安寺にて開校 | 明治11年以前 関連事項 | |
- | 大地獄(地獄山)大涌谷と改名 | 明治11年以前 主要事項 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
12月16日 | 宮ノ下郵便局開設 | 明治11年以前 関連事項 | |
明治9年(1876) | - | 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月18日 | 足柄県が廃され箱根、小田原など神奈川県に編入 | 明治11年以前 関連事項 | |
6月7日 | ベルツ博士、東京医学校教授として来日 | 明治11年以前 主要事項 | |
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月15日 | 宮ノ下に外人専門の富士屋ホテル開業 | 明治11年以前 関連事項 | |
明治12年(1879) | - | 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 須永伝蔵実習のため三里塚牧羊場へ出向 | 前史 当社事項 | |
10月30日 | 渋沢栄一等仙石原を視察 | 前史 当社事項 | |
- | 益田孝初めて仙石原を訪れる | 前史 当社事項 | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 耕牧舎、仙石原の開拓に着手 | 前史 当社事項 | |
- | ベルツ博士『日本鉱泉論』を著す | 前史 当社事項 | |
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 耕牧舎、宮ノ下・箱根に支店を設け牛乳の販売を開始 | 前史 当社事項 | |
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 耕牧舎、東京に支店を設け牛乳の販売を開始 | 前史 当社事項 | |
明治19年(1886) | - | 【渋沢栄一】「竜門社」創立。東京電灯会社開業(後に委員)。〔46歳〕【竜門社】竜門社が東京・深川福住町の青淵先生邸内に創立する。機関誌『竜門雑誌』創刊号を刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 箱根離宮竣工 | 前史 関連事項 |