婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)

"羽仁もと子"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
明治34年(1901) 4月 △日刊新聞の婦人記者は従来「報知」の松岡もと子(後の羽仁もと子)「大阪毎日」の岸本柳子の二氏なりしが今回「社会新報」は鈴木げん氏を「時事」は大沢豊子氏を入社せしむ
明治44年(1911) 12月 △嘉悦孝子羽仁もと子両女史の間に家計簿に対する紛争あり
大正7年(1918) 9月 △東京に於ける主なる女学校同窓会の聯合会組織せられ生活改善の実際運動に着手する事とす井上秀子羽仁もと子氏等の肝煎なり
大正9年(1920) 12月1日 △井上秀子羽仁もと子女史等婦人平和協会設立相談会を目賀田男邸に開く
大正10年(1921) 5月 △目賀田逸子、井上秀子、羽仁もと子、尾崎英子、塚本はま子、外五十余名の婦人の発起にて日本帰人平和協会創立
大正12年(1923) 9月 △久布白落実、守屋東、羽仁もと子氏等東京市の牛乳配給を手伝ひ其必要上婦人団体の聯絡に尽力、それが後に東京聯合婦人会となる
10月 △二十余の婦人団体に依て成立したる東京聯合婦人会は、羽仁もと子女史を委員長として罹災者の家族救護、托児所、配給品の手伝等各方面に大活動
昭和7年(1932) 5月2日 △自由学園の羽仁もと子女史世界自由教育協会大会に日本代表として出発
12月16日 △十六日羽仁もと子女史帰朝
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