片倉工業(株)『片倉工業株式会社三十年誌』(1951.03)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
明治6年(1873) - 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 渋沢関係略年譜
- 片倉市助は本家の邸前に十人取の座繰製糸を創め、片倉光治がこれを主宰した。翌7年片倉光治は分家すると共にこれを新家の倉前に移転した。 片倉組時代
- 片倉俊太郎は生糸改会社生糸売買免許鑑札の下附を受けた。(第二万二千六百二十六号) 片倉組時代
明治7年(1874) - 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 渋沢関係略年譜
8月8日 片倉光治は分家し新家と称した 片倉組時代
明治9年(1876) - 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 渋沢関係略年譜
7月 片倉俊太郎、横内亀三郎、横内万右衛門、片倉林右衛門、横内源右衛門等は共同で村内市之沢に製糸業を創立、これを一之沢社と言つた。 片倉組時代
明治11年(1878) - 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 渋沢関係略年譜
6月5日 初代片倉兼太郎は新家片倉光治と相謀り、長野県諏訪郡川岸村三沢区字垣外に三十二人繰の洋式機械製糸を新設し垣外製糸所と称した。 片倉組時代
7月20日 垣外製糸所、一之沢社連中、横内嘉左衛門、横内伝兵衛、三睦舎等九人で垣外製練所構内に生糸共同出荷組合深沢社を設立し共同販売をした。 片倉組時代
明治12年(1879) - 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 渋沢関係略年譜
7月 片倉兼太郎、尾沢金左衛門、林倉太郎外十二名は相諮り、共同出荷組合開明社を組織した。 片倉組時代
明治27年(1894) - 【渋沢栄一】東京瓦斯株式会社取締役会長。東京海上保険株式会社取締役。北越鉄道株式会社創立発起人。札幌麦酒株式会社取締役会長。 渋沢関係略年譜
10月6日 長野県諏訪郡川岸村に川岸製糸所(三百六十釜)を新設し三全社と称した。 片倉組時代
明治28年(1895) - 【渋沢栄一】東京統計協会終身会員。北越鉄道株式会社創業総会・監査役(後に相談役)。〔55歳〕 渋沢関係略年譜
- 片倉組を組織した。片倉組本部を三全社に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せしめた。 片倉組時代
- 東京市京橋区和泉町に東京支店を設置した。 片倉組時代
明治29年(1896) - 【渋沢栄一】日本精糖株式会社創立・取締役。東京興信所創立、評議員。東京銀行集会所会長。東京印刷株式会社設立・相談役。東洋汽船株式会社創業、監査役。東京建物株式会社創立発起人。第一国立銀行が営業満期により株式会社第一銀行となる。引続き頭取。汽車製造合資会社設立・創立委員(後に監査役)。北越石油株式会社創業・相談役。日本勧業銀行設立委員。〔56歳〕【渋沢敬三】父・渋沢篤二、母・敦子の長男として都内深川に生まる。 渋沢関係略年譜
11月 台湾台北市に台北支店を設置した。 片倉組時代
明治37年(1904) - 【渋沢栄一】風邪をこじらせ長期に静養。韓国興業株式会社設立、監督。〔64歳〕 渋沢関係略年譜
10月 朝鮮平壌府に平壌支店を設置した。 片倉組時代
明治39年(1906) - 【渋沢栄一】大日本麦酒株式会社設立、取締役。南満州鉄道株式会社設立委員。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。大日本製糖株式会社設立、相談役。名古屋電力株式会社創立・相談役。東海倉庫株式会社創立・相談役。明治製糖創立・相談役。〔66歳〕 渋沢関係略年譜
12月27日 片倉合名会社を創立した(資本金一万円) 片倉組時代
明治43年(1910) - 【渋沢栄一】政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。社団法人東京銀行集会所会長。〔70歳〕【竜門社】青淵先生の七十寿祝賀会を開催する。 渋沢関係略年譜
1月 垣外製糸所構内に片倉組川岸事務所を開所し片倉組本部を移転した。 片倉組時代
大正3年(1914) - 【渋沢栄一】東北九州災害救済会創立、副総裁。合資会社国際通信社設立、相談役。日中経済界の提携のため中国訪問。財団法人国産奨励会設立準備委員総代、顧問。〔74歳〕 渋沢関係略年譜
10月24日 松本市に大日本一代交配蚕種普及団を組織し、片倉組は合資会社交進社の名称で加入した。 片倉組時代
大正4年(1915) - 【渋沢栄一】帝国蚕糸株式会社相談役。渋沢同族株式会社設立、社長は敬三。パナマ・太平洋万国博覧会視察のため渡米。ウイルソン大統領と会見。〔75歳〕【渋沢敬三】渋沢同族株式会社設立、同社長就任。 渋沢関係略年譜
4月 福島県郡山町所在郡山電気株式会社兼営の岩代紡績工場を買収し岩代絹糸紡績所を設置した。 片倉組時代
11月2日 大日本一代交配蚕種晋及団は解散し、事業一切を継承して同団は片倉組経営下に入つた。 片倉組時代
大正8年(1919) - 【渋沢栄一】アメリカ合衆国政府より日米船鉄交換争議の仲裁人を委嘱される。財団法人協調会創立・副会長。〔79歳〕 渋沢関係略年譜
2月12日 今井五介は蚕糸業同業組合中央会派遣第一回米国絹業視察団々長として渡米した。 片倉組時代
4月 朝鮮大邱府に大邱製糸所(二百四十釜)を新設し、蚕種製造部をも兼営した。 片倉組時代
大正9年(1920) - 【渋沢栄一】社団法人国際聯盟協会創立・会長。日華実業協会創立、会長。子爵を授けられる。〔80歳〕【竜門社】青淵先生八十寿及び子爵へ陞爵の祝賀会を開催し、記念として青淵文庫を青淵先生に贈呈する。 渋沢関係略年譜
3月23日 片倉組の事業を継承し片倉製糸紡績株式会社創立(資本金五千万円)、本社を東京市京橋区畳町八番地に置いた。製糸所数十八ヵ所(川岸、平野、下諏訪、松本、飯田、八王子、大宮、石原、仙台、両羽、岩代、愛知、上井、姫路、宇佐、大分、鳥栖、大邱)釜数一万一千九百三十七釜、事務所(川岸)、絹糸紡績所(郡山)、本社事務組織を総務、商務、工務の三部制とし各部の下に課を置いた。 片倉製糸紡績株式会社
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