(社)大日本蚕糸会『日本蚕糸業史. 第5巻』(1985.08)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
元弘3年(1333) - ○(此年)名和長年、伯耆国に於て、後醍醐帝を船上山に迎へ奉りし時、米二千石、真綿三千五百貫を運ばしむ。 後醍醐(96)
- ○(此年)北条氏を討滅し、政権を収め給ふや、諸国に詔して士卒を休め、農桑を課せしめらる(国史略引用野上文書) 後醍醐(96)
正平元年(1346) - (正平年間 1346-1368)○(此頃)大内義弘、京師の織工を周防国山口に招き、機業を起し、絹紬を織らしむ。 後村上(97)
元中2年(1385) - ○(此年)山名氏清、和泉国堺に機業を起し、錦綾を織出す。 後亀山(99)
応永11年(1404) - ○(此年)明と勘合貿易条約を締結す。 後小松(100)
応仁元年(1467) - ○(此年)京都の絹織工、居を白雲の原野に占む。 後御土門(103)
永禄元年(1558) - (永禄年間 1558-1569)○(此頃)越中婦負城主斎藤和信は、領民を上信地方に派し、養蚕を伝習せしめ、領内にすゝめて桑を植ゑしむ。 正親町(106)
天正元年(1573) - (備考)(天正年中 [1573-1591])泉州堺に於て、支那の織工、縮緬、金襴、緞子、繻子等を織りはじむ。 後陽成(107)
天正16年(1588) - ○(此年)秀吉は応仁以来の京師絹織物の荒廃を嘆じ、白雲村に引移れる織工を新庄家に移して、絹錦を織らしむ。 後陽成(107)
文禄元年(1592) - ○(此年)豊臣秀吉朱印状を富商に授けて、海外貿易の特許を与ふ。 後陽成(107)
文禄3年(1594) - ○(此年)内藤如安、明に使し、明より木棉実を得て大和に植う。 後陽成(107)
慶長元年(1596) - (備考)(慶長年間 [1596-1614])京都織工、綸子、天鵞絨等を製織す。 後陽成(107)
慶長2年(1597) - ○(此年)林逸著、慶長二年校訂本「節用集」に、当時の蚕糸国二十二を挙ぐ。即、上総、常陸、美濃、信濃、上野、越前、加賀、能登、越後、丹後、因幡、伯耆、出雲、播磨、備前、伊予、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅 後陽成(107)
慶長3年(1598) - ○(此年)朝鮮より還る者木綿の種を伝ふ。民稍々其の利を知り、作るに良田を以てす、既にして天下に遍し、民これを便とす(逸史) 後陽成(107)
慶長7年(1602) - ○(此年)長崎に入港したる葡萄牙の一商船多量の白糸を搭載し来る(長崎実記によれば慶長八卯年) 後陽成(107)
慶長9年(1604) 5月3日 ○徳川家康外国船舶載白糸の割符制度を定む。 後陽成(107)
元和3年(1617) 1月 ○始めて酒井河内守、上州前橋市場を開き、毎月四・九の日を以て定日となし、生糸の取引をなす(群馬県蚕業沿革調査書) 後水尾(108)
元和5年(1619) - (琉球国万歴四十七年)○(此年)越前国宗味入道琉球国久米島へ渡り、栽桑養蚕の業を伝ふ(久米島規模帳) 後水尾(108)
元和6年(1620) 9月 ○仙台藩は、封内に「桑の木植ゑ養蚕可仕候但御役被仰付間敷事(其他)」の制札を建て、桑を植ゑしめ、之に課税せざることを告ぐ。 後水尾(108)
寛永元年(1624) - (備考)(寛永年間 [1624-1643])柳沢吉保甲州に封ぜられ、大いに農蚕業を奨励す。寛永年間より京都西陣織物原料として、濃州、江州より生糸(和糸)を登せ(移入)始む。これ即ち「登糸《ノボセイト》」なり(永禄帳) 明正(109)
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