※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和37年(1962) | - | 【竜門社】寄託中の日本実業史博物館準備室旧蔵資料を文部省史料館に寄贈する。 | 渋沢関係略年譜 |
11月25日 | (大日本紡績) 東京工場綿紡部門休止。 | ニチボー関係 | |
11月27日 | (大日本紡績) 傍系日本リネンサプライ創立。 | ニチボー関係 | |
12月20日 | 綿紡大手10社とナイジェリアの合弁紡設立、元常務取締役武田彰らにより仮調印。 | 業界ならびに内外情勢 | |
12月21日 | (大日本紡績) 田辺貞雄・嶋津孝次・塩塚忠美の3常務取締役は副社長に就任、前副社長森滋は相談役となる。 | ニチボー関係 | |
12月24日 | (大日本紡績) ニチボービニロン延縄(はえなわ)使用の東海大学練習船ジャワ沖より2ヵ月ぶりで焼津に成功裏に帰港。 | ニチボー関係 | |
昭和38年(1963) | - | 【渋沢敬三】昭和37年度「朝日賞」文化賞受賞、贈呈式に出席。10/25死去。その直前に勲一等瑞宝章を授与さる。 | 渋沢関係略年譜 |
1月13日 | (大日本紡績) 平野工場バスケットボールチームは日本女子総合に2連覇、4度目の皇后杯に輝く。 | ニチボー関係 | |
1月14日 | (大日本紡績) 副社長塩塚忠美、馬来亜新山紡織を視察。(~24) | ニチボー関係 | |
1月16日 | (大日本紡績) 坂越第2工場ビニロンフイラメント工場地鎮祭。 | ニチボー関係 | |
1月28日 | (大日本紡績) 東京営業所は日本橋富沢町5の11より日本橋堀留町1の9東繊ビル3階に移転。 | ニチボー関係 | |
1月30日 | (大日本紡績) 平野工場バスケットボールチーム訪韓。 | ニチボー関係 | |
1月31日 | 紡協委員長原吉平、日米綿製品交渉の問題で米国大使ライシャワーに抗議。 | 業界ならびに内外情勢 | |
2月14日 | 米国航空宇宙局は通信衛星シンコムを打上げる。 | 業界ならびに内外情勢 | |
2月23日 | ビルマ政府は国内・外国系とも全銀行を国有化。 | 業界ならびに内外情勢 | |
3月18日 | (大日本紡績) 傍系ニチボー不動産創立。 | ニチボー関係 | |
3月30日 | 東証ダウ平均株価は1,614円13銭と1年半ぶりに1,600円台を回復。 | 業界ならびに内外情勢 | |
4月20日 | 大蔵省は貿易為替の自由化に対応して通貨の対米ドル相場の変動幅を西欧なみに拡大。 | 業界ならびに内外情勢 | |
4月22日 | (大日本紡績) 社長原吉平は紡協委員長を辞任(34年4月23日より4年4期にわたる)して顧問となる。 | ニチボー関係 | |
5月7日 | 米国の通信衛星テルスター2号打上げ、米国と英仏間のテレビ中継放送に成功。 | 業界ならびに内外情勢 | |
5月13日 | (大日本紡績) 常務取締役飯尾冨雄、北京でビニロンプラント輸出問題を交渉。(~30) | ニチボー関係 | |
5月18日 | インドネシア国民協議会は大統領スカルノを終身国家元首とすることを議決。 | 業界ならびに内外情勢 |