※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和4年(1929) | - | 【渋沢栄一】アメリカン・ソサエティ・オブ・メカニカル・エンジニア名誉会員。中央盲人福祉協会創立・会長。〔89歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 羊毛工業界は空前の不況に直面し各社減配又は無配のもの多く中には原毛の値下り製品の暴落にて尠からざる損失を蒙り株価一斉に崩落す。 | ||
7月 | 深夜業廃止の実行期となり一日より全国工場一斉に女工手及び少年工手の深夜業廃止せらる当会社も亦午後十一時以後の女工手勤務を廃す。 | ||
7月 | 東洋モスリン東京モスリン及び合同毛織の三社はモスリンの共同販売を協定し販売価格の調節及び損益の共同計算を実行することとなる。 | ||
8月 | 経営難のために大倉組の門野重九郎氏等の手によりて整理さるゝこととなりたる東洋モスリン会社は負債と金融難のために整理難に陥り債権の回収不能となりたる原毛輸入業者の間に恐慌起る。 | ||
9月 | 合同毛織会社も業績振はず原毛代の支払不能に陥り業界の不安愈々甚だしくなる。 | ||
9月 | 整理行悩みの東洋モスリン会社に対し原毛輸入業者より破産を申請す。 | ||
9月 | 東洋モスリン会社の委任経営に就て門野氏等より当社の川西社長に相談あり当社は同社整理が可能であるか否かに就て其資産状態を調査することとなる。 | ||
10月 | 信用破綻のため遂に経営困難となりたる合同毛織会社は当会社に合併するの議起り門野重九郎大橋新太郎氏等を通じて当社に交渉ありたるが別に銀行団は債権擁護のために住友銀行の八代則彦氏を起たしめて正式に両社の間を斡旋することとなる。 | ||
10月 | 当社対合同毛織の合併談は合同毛織現株二株に対し当社第二新株一株を交付せんとする合併条件の下に折合はんとせるも合同毛織のバランス・シートに対する同社の重役の連帯保証の点に至りて行悩みとなる。 | ||
11月 | 当社合同合併談は当社親株一株に対し合同親株十株といふ条件に更正せられたるも合同毛織のバランス・シートに対する同社重役の連帯保証の件は依然意見纏まらざるを以て八代氏は一先づ其の斡旋を打切ることを声明し談は不調に了る。 | ||
11月 | モスリン共同販売組合は二社破綻のため自然消滅す。 | ||
11月 | 合同毛織工場は原料欠乏作業不能となりたるにより従業員救済の意味に於て当社は其のモスリン工場に対し原毛を供給してモスリンの賃織をなさしむることとなる。 | ||
11月 | 後藤毛織会社は社債償還不能のために破綻日本興業銀行は其処分を受托し工場は共同毛織会社の貸借経営に移る。 | ||
昭和5年(1930) | - | 【渋沢栄一】明治神宮外苑聖徳記念絵画館に壁画献納。財団法人楽翁公遺徳顕彰会会長。〔90歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 金の輸出解禁せられ為替相場回復せるため諸物価低落財界不景気愈々深刻となる。 | ||
1月 | 合同毛織会社の重役及有志は同社救済のために整理会社を起すこととなり河崎助太郎田村駒治郎大橋新太郎氏等の発企計画により資本金五百万円の新興毛織会社を設立す。 | ||
1月 | 当社日本羊毛工業会を脱退す。 | ||
1月 | 旧臘来不況を報ぜられたる濠洲羊毛相場は崩落に崩落を累ね遂に歴史的レコードの暴落を演じ手持原毛筋大打撃を蒙る。 | ||
2月 | 三井三菱大倉日棉兼松高島屋の原毛輸入業者は原毛取引信用不安の実状に鑑みて取引法改善の申合せをなし日本羊毛輸入同業会を組織す。 | ||
2月 | 川西社長の主唱により日銀に対し羊毛担保見返融資の運動を起し政府及び日銀に陳情す。 | ||
2月 | モスリン減産のため市価昂騰す。 |