※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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大正7年(1918) | - | 【渋沢栄一】渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。〔78歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 大戦終結とともに一転して不況となる | 社会・一般 | |
大正11年(1922) | - | 【渋沢栄一】小畑久五郎翻訳、栄一序文『アンドルー・カーネギー自伝』冨山房より刊行。日仏協会会頭。アルメニア難民救済委員会委員長。〔82歳〕【渋沢敬三】横浜正金銀行ロンドン支店転任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 上期初の無配決算 | 当社 | |
- | 不況進み銀行取付け騒ぎ起こる | 社会・一般 | |
大正12年(1923) | - | 【渋沢栄一】日本無線電信株式会社創立委員。大震災善後会創立・副会長、帝都復興審議会委員。〔83歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 関東大震災起こる | 社会・一般 | |
- | 下期初の大幅赤字決算 | 当社 | |
大正13年(1924) | - | 【渋沢栄一】財団法人日仏会館創立・理事長。東京女学館・館長。〔84歳〕【竜門社】財団法人竜門社となる。 | 渋沢関係略年譜 |
5月1日 | 本社 大阪市東区久宝寺町4丁目7番地へ移転 | 当社 | |
12月 | 小倉工場 電解槽8槽増設。計74槽 | 当社 | |
- | 小倉工場 水素ガスを隣接の山桝硬化油製造所〔後 日華油脂(株)〕へ供給開始 | 当社 | |
- | 震災復興用資材輸入のため、空前の入超が続き、在外正貨激減 | 社会・一般 | |
大正14年(1925) | - | 【渋沢栄一】製鉄鋼調査会委員。史籍協会評議員。浅草寺臨時営繕局顧問。日本無線電信株式会社設立委員長。飛鳥山邸(曖依村荘)に青淵文庫竣工、傘寿と子爵昇格の祝いを兼ねて竜門社より贈られる。〔85歳〕【渋沢敬三】横浜正金銀行退職。 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 小倉工場 18槽増設。計92槽 | 当社 | |
- | 小倉工場 解汞板をカーボンに変更 | 当社 | |
大正15年(1926) | - | 【渋沢栄一】太平洋問題調査会創立・評議員会会長。社団法人日本放送協会創立・顧問。〔86歳〕【渋沢敬三】澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行取締役に就任。東京貯蓄銀行取締役に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 小倉工場 電解槽10槽増設。計102槽 | 当社 | |
昭和2年(1927) | - | 【渋沢栄一】日本国際児童親善会創立・会長。日米親善人形歓迎会を主催。航空輸送会社設立準備調査委員会会長。〔87歳〕【渋沢敬三】東洋生命取締役に就任。理化学興業監査役に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 小倉工場 次亜塩素酸ソーダ(電気漂白液)製造開始(有効塩素12%)。本邦創始。帝国人造絹糸(株)〔現 帝人(株)〕へ供給 | 当社 | |
- | 震災手形の未整理で不安が起こり、また台湾銀行から鈴木商店への不良貸出が表面化して金融恐慌が起こる | 社会・一般 | |
昭和3年(1928) | - | 【渋沢栄一】日本女子高等商業学校建設後援会発起人。日本航空輸送株式会社創立・創立委員長。〔88歳〕【竜門社】青淵先生米寿祝賀会を開催し、斯文会編訳『国訳論語』等を記念品として青淵先生に贈呈する。 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 尼崎伊三郎監査役(4代社長)、仏国よりジュバリジュ・ドラゴン・ダンナン勲章を贈られる | 当社 | |
9月22日 | 小倉工場 塩素ガスを隣接の帝国染料(株)〔現 日本化薬(株)〕へ供給開始 | 当社 | |
昭和4年(1929) | - | 【渋沢栄一】アメリカン・ソサエティ・オブ・メカニカル・エンジニア名誉会員。中央盲人福祉協会創立・会長。〔89歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 小倉工場 さらし粉室を鉛室に改造 10室設置 | 当社 | |
6月 | 小倉工場 合成塩酸サーマル式竣工。能力:10t/日 | 当社 | |
9月 | 小倉工場 消石灰とソーダ灰による塩水2段精製法採用 | 当社 | |
10月 | 小倉工場 回転変流機設置 | 当社 |