※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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大正4年(1915) | - | 【渋沢栄一】帝国蚕糸株式会社相談役。渋沢同族株式会社設立、社長は敬三。パナマ・太平洋万国博覧会視察のため渡米。ウイルソン大統領と会見。〔75歳〕【渋沢敬三】渋沢同族株式会社設立、同社長就任。 | 渋沢関係略年譜 |
12月6日 | 12月6日資本金50万円を第1回125,000円払込をして12月21日会社を創立 | ||
- | 飯田連庫氏は小林・玉水・根岸・島津4氏と東亜ペイント製造株式会社設立案をまとめた | ||
- | 欧州大戦景気来る | 参考事項 | |
大正5年(1916) | - | 【渋沢栄一】海外植民学校顧問。日米関係委員会創立・常務委員。第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。理化学研究所創立委員長。喜寿記念として第一銀行が玉川清和園に記念館誠之堂建設。渋沢栄一述『論語と算盤』(東亜堂書房)刊行。〔76歳〕【竜門社】青淵先生の喜寿祝賀会開催し、記念品として林泰輔編『論語年譜』を青淵先生に贈呈する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 東亜ペイント製造株式会社創立総会を東京で開く | ||
- | 飯田連庫氏取締役社長に就任 | ||
- | 大阪府西成郡稗島村赤須に土地1,275坪、木造平家等買収し本社とす | ||
- | 操業開始、海軍工廠・鉄道省の指定をうけ、入札に参加す | ||
大正6年(1917) | - | 【渋沢栄一】日米協会創立・名誉副会長。飛鳥山邸(曖依村荘)に晩香廬落成、喜寿の祝いに合資会社清水組より贈られる。〔77歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 第2回払込、7円50銭を徴収し20万円払込済とす、初配当年1割を行う | ||
- | 物価調整令発令 | 参考事項 | |
- | 金輸出禁止 | 参考事項 | |
- | 東京古河銀行設立 | 参考事項 | |
- | 横浜護謨製造株式会社創立 | 参考事項 | |
- | ロシヤに革命おこる | 参考事項 | |
大正8年(1919) | - | 【渋沢栄一】アメリカ合衆国政府より日米船鉄交換争議の仲裁人を委嘱される。財団法人協調会創立・副会長。〔79歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 古河鉱業株式会社への譲渡契約成る。役員全員退社 | ||
- | 山口喜三郎氏を社長に、近藤和作氏を常務取締役に選任、10月10日登記、古河経営の事業開始 | ||
- | 飯田連庫氏経営の尾張屋閉店 | 参考事項 | |
- | 戦後の業界混乱 | 参考事項 | |
大正9年(1920) | - | 【渋沢栄一】社団法人国際聯盟協会創立・会長。日華実業協会創立、会長。子爵を授けられる。〔80歳〕【竜門社】青淵先生八十寿及び子爵へ陞爵の祝賀会を開催し、記念として青淵文庫を青淵先生に贈呈する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 古河系の事業組織変更のため当社の経営は古河電気工業株式会社に移り近藤和作氏辞任し吉武吉雄氏を常務取締役に選任 | ||
- | 第一次資産整理、資本金15万円に減資 | ||
- | 東亜ペイント商報創刊 |