※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | ・大蔵省土木寮建築局は東京深川清住町に摂綿篤≪せめんと≫製造所を創設 | 関連事項 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | ・摂綿篤製造所は大蔵省より内務省へ、さらに工部省に移管され、深川製作寮出張所と改称 | 関連事項 | |
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | ・笠井順八初めてセメントを見る(山口県亀山平蓮寺に新築された協同会社倉庫に使用されたもの) | 当社事項 | |
5月 | ・わが国最初のセメント製造される | 関連事項 | |
9月 | ・金禄公債発行条例公布(いわゆる秩禄処分) | 関連事項 | |
明治10年(1877) | - | 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | ・深川製作寮出張所は深川工作分局と改称 | 関連事項 | |
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
11月 | ・山口に国立第百十銀行創立 | 関連事項 | |
11月 | ・工場払下げ規則制定 | 関連事項 | |
- | ・就産資金貸付開始 | 関連事項 | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | ・笠井順八、同志荒川佐兵衛とともに、工部省深川工作分局を訪ね、セメント製造に関する実地指導を受く | 当社事項 | |
2月 | ・会社創立準備に着手し、賛同者37名を得る | 当社事項 | |
5月 | ・発起人以下金禄公債を担保とし6万1600円の就産金借入れを政府に出願(8月、内2万5000円の貸下げ許可) | 当社事項 | |
9月 | ・荒川佐兵衛ほか5名、深川工作分局にてセメント製造を実習 | 当社事項 | |
10月 | ・政府貸下金交付 | 当社事項 | |
10月 | ・工場敷地を山口県厚狭郡西須恵村大字小野田新開作31の割(現本社所在地)に定めるとともに、工場敷地の東北(現山手クラブ付近)にて煉瓦の製造を開始 | 当社事項 | |
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | ・出資者総会開催、会社規則を制定、社名を「セメント製造会社」とし会社設立認可申請 | 当社事項 | |
3月 | ・笠井順八、社長に選任 | 当社事項 | |
5月 | ・会社設立を認可され、この日(明治14年5月3日)をもって当社創立日とす | 当社事項 | |
6月 | ・深川工作分局のセメント工場増設工事完了 | 関連事項 | |
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | ・愛知県渥美郡田原町二ツ坂に東洋組セメント工場建設(⇒明21・11) | 関連事項 |