※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治23年(1890) | - | 【渋沢栄一】貴族院議員に任ぜられる。三本木渋沢農場開墾開始。〔50歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 笠井真三、ワグネルに従つて独逸留学の途に上る。//◎下関海峡金伏灯台、明石海峡平磯灯台工事用として多量のセメントを出荷す。 | ||
10月 | 天津、上海方面へ見本荷を送る。 | ||
明治24年(1891) | - | 【渋沢栄一】日本製帽会社相談役。東京交換所創立・委員長。東京商業会議所会頭。〔51歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 定款を改正し、有限責任小野田セメント製造株式会社と改称//◎マニラへ初めてセメント三百樽送荷◎濃尾の大地震、同復旧工事の為めセメントの需要増加す。◎浦塩方面へ始めて社員を出張せしめ販路を調査す。 | ||
明治25年(1892) | - | 【渋沢栄一】株式会社東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。元日本製帽を買収し東京帽子株式会社設立・取締役会長。〔52歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 同業各会社続々新設され、競争漸く激烈となり市価低落す。 | ||
明治26年(1893) | - | 【渋沢栄一】喜賓会創立・幹事長。東京人造肥料株式会社取締役会長。株式会社東京石川島造船所取締役会長。王子製紙株式会社取締役会長。帝国ホテル株式会社取締役会長。 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 佐世保に出張店開設、同時に赤間関用達所を出張店とす。 | ||
11月21日 | 商法施行に伴ひ社名を小野田セメント製造株式会社と改め、従来の資本金八万八千円を増資して十万円とす。 | ||
11月 | 神戸出張店開設。 | ||
明治27年(1894) | - | 【渋沢栄一】東京瓦斯株式会社取締役会長。東京海上保険株式会社取締役。北越鉄道株式会社創立発起人。札幌麦酒株式会社取締役会長。 | 渋沢関係略年譜 |
7月 | 日清戦役開始◎浦塩に出張店を開設す。 | ||
12月 | 豊後恒見に初めて原料山を買収す。 | ||
明治28年(1895) | - | 【渋沢栄一】東京統計協会終身会員。北越鉄道株式会社創業総会・監査役(後に相談役)。〔55歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 日清媾和条約締結。 | ||
12月 | 細石山買収。 | ||
明治29年(1896) | - | 【渋沢栄一】日本精糖株式会社創立・取締役。東京興信所創立、評議員。東京銀行集会所会長。東京印刷株式会社設立・相談役。東洋汽船株式会社創業、監査役。東京建物株式会社創立発起人。第一国立銀行が営業満期により株式会社第一銀行となる。引続き頭取。汽車製造合資会社設立・創立委員(後に監査役)。北越石油株式会社創業・相談役。日本勧業銀行設立委員。〔56歳〕【渋沢敬三】父・渋沢篤二、母・敦子の長男として都内深川に生まる。 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 笠井真三独逸より帰朝。 | ||
11月 | 臨時総会を開き工場拡張案を決議すると共に資本金十万円を六十万円とす。 | ||
- | ◎戦後の好景気に需要激増し、全国的に空前の荷不足を来した。 | ||
明治30年(1897) | - | 【渋沢栄一】澁澤倉庫部開業、営業主(後に澁澤倉庫株式会社発起人)。日本女子大学校創立委員会計監督(後に校長)。十勝開墾合資会社業務担当社員。広島水力電気株式会社創立、取締役会長。渋沢家洲崎養魚場開設。 〔57歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 製造間に合はざる為め需要者との間に紛擾を来し、明治紡績との間、遂に訴訟沙汰となり、二千三百円余の損害賠償を支払ふ。以て如何にセメント界が沸騰したかが判る。之が為め市価益々騰貴し、延いて外国セメントの輸入を誘発した。◎偶々第一次の反動来り銀行会社等の破綻続出す。 | ||
7月 | 新工場建設に著手(三十三年四月製造開始) | ||
8月 | 桂太郎公来社。 | ||
11月 | 原料山吉田山(5.6ヘクタール)を買収。 | ||
明治31年(1898) | - | 【渋沢栄一】浅野セメント合資会社監査役。韓国視察、韓国皇帝に謁見。王子製紙株式会社取締役会長を辞す(後に相談役)。〔58歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 臨時総会を開き、資本金六十万円を百万円に増資する決議をなし、五月登記完了。 | ||
5月 | 市況悪化せる為め同業者間共同販売会社設立の議起る。 |