※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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嘉永元年(1848) | - | 【渋沢栄一】このころ実名を美雄とする。後に伯父渋沢誠室の命名で栄一と改める。〔8歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月10日 | 初代浅野総一郎、富山県氷見郡藪田村村医浅野泰順長子として生まる。幼名泰治郎 | 当社 | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 工部省設置 | 業界 | |
明治4年(1871) | - | 【渋沢栄一】大蔵省紙幣頭となる。神田小川町裏神保小路(現在の東京都千代田区神田神保町)に転居。『立会略則』刊行。〔31歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 横須賀製鉄所船渠完成(この工事を契機として国産セメント製造所建設の機運動く) | 政治・経済・社会 | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 浅野総一郎、故郷より上京 | 当社 | |
9月 | はじめて鉄道開通(新橋~横浜間) | 政治・経済・社会 | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 浅野総一郎、横浜住吉町に大塚屋大熊良三の看板を掲げて石炭・薪炭の販売を開始 | 当社 | |
11月 | 宇都宮三郎、平岡通義とともに赤坂溜池工部省製作寮製煉所内にてセメント製造の研究に着手 | 業界 | |
- | (秋ごろか)大蔵省土木寮建築局の手により、深川清住町一番地に摂綿篤製造所を創設 | 業界 | |
- | イギリス人ランサム、回転窯を発明 | 業界 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 製煉所廃止され、大蔵省土木寮深川摂綿篤製造所は官制の改革により内務省へ移管さる。 | 業界 | |
2月 | 深川摂綿篤製造所、内務省より工部省に移管され、深川製作寮出張所と改称、宇都宮三郎同所監督となる | 業界 | |
4月 | 宇都宮三郎、英仏流湿式焼成法を採用し、従来の深川製作寮出張所設備の根本的改造工事に着手 | 業界 | |
- | 浅野総一郎、石炭商専業となる。 | 当社 | |
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月19日 | 深川製作寮出張所の根本的改造工事完成、英仏流製造設備の工場として再発足、はじめてクリンカ製造さる | 業界 | |
明治9年(1876) | - | 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 浅野総一郎、横浜瓦斯局よりコークスの払下げを受け、深川製作寮出張所に納入開始 | 当社 | |
明治10年(1877) | - | 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 深川製作寮出張所、官制改革により深川工作分局と改称 | 業界 | |
2月 | 西南戦争起く(鎮定9月) | 政治・経済・社会 | |
6月 | イギリス人トーマス・ラッセル・クランプトン、回転窯を完成、セメントの焼成を試験し、特許を獲得 | 業界 | |
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 深川工作分局、セメント生産高倍加の計画をたて、窯二基増設に着工 | 業界 | |
明治12年(1879) | - | 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 深川工作分局に窯二基増設完成 | 業界 |