※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
---|---|---|---|
享保12年(1727) | - | 阿部友之進(将翁、南部藩山田・豊間根の出身)、陸中仙人峠で磁鉄鉱石を発見 | 所内 |
文政9年(1826) | 5月11日 | 大島高任、南部藩侍医大島周意の子として盛岡の仁王小路に生まれる | 所内 |
嘉永3年(1850) | 8月 | 薩摩藩、「製煉所」開設 | 社内および業界・一般 |
12月 | 佐賀藩、多布施に反射炉を建設し操業開始(嘉永5年までに4炉築造) | 社内および業界・一般 | |
嘉永5年(1852) | - | 薩摩藩、集成館に高炉と反射炉1基の建設に着工(高炉は安政元年に完成。3,300斤の出銑をもって操業中止) | 社内および業界・一般 |
安政3年(1856) | - | 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 大島高任、大槌通御給人貫洞瀬左衛門とともに南部藩主南部利剛に高炉の築造を願い出る | 所内 | |
安政4年(1857) | 11月 | 大島高任、大橋に洋式高炉建設。12月1日、高炉法によるわが国初の鉱石製錬に成功 | 所内 |
安政5年(1858) | - | 【渋沢栄一】従妹尾高千代(ちよ、尾高惇忠の妹)と結婚。〔18歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 安政の大獄始まる | 社内および業界・一般 | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月20日 | 工部省開設 | 社内および業界・一般 | |
明治4年(1871) | - | 【渋沢栄一】大蔵省紙幣頭となる。神田小川町裏神保小路(現在の東京都千代田区神田神保町)に転居。『立会略則』刊行。〔31歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
11月12日 | 岩倉渡欧使節団派遣(大島高任も随行) | 社内および業界・一般 | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月 | 鉱山寮傭鉱山師長ゴットフレー、閉伊鉱山が良坑であることを報告 | 所内 | |
- | 岩手県調査でこの年の洋式高炉(大橋、橋野など)の生産高は72万6,000貫(約2,722t) | 社内および業界・一般 | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月22日 | 鉱山権頭吉井亨、釜石に官坑設置を建議 | 所内 | |
11月 | 橋野、佐比内、栗橋、大橋の4鉱山を官行として一般への借区を停止。鉱山寮で大島高任、狛林之助を派遣、開発の衝に当たらせる | 所内 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 釜石鉱山、「官掘場」に指定 | 所内 | |
3月 | ドイツ人技師ルイス・ビヤンヒー、釜石に赴任 | 所内 | |
5月21日 | 工部省釜石支庁開設 | 所内 | |
6月 | 大島高任とビヤンヒーとの間で官営製鉄所の建設地をめぐって論争。高任は大唯(只)越、ビヤンヒーは鈴子を主張し、政府は外国傭技師の意見を尊重し鈴子に決定 | 所内 | |
8月10日 | 官営製鉄所起工式 | 所内 | |
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 工事着工 | 所内 |