山本鋼業(株)『山本家創業八十周年小史』(1952.06)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
昭和4年(1929) - 【渋沢栄一】アメリカン・ソサエティ・オブ・メカニカル・エンジニア名誉会員。中央盲人福祉協会創立・会長。〔89歳〕 渋沢関係略年譜
4月 山本隆三郎二代の長女琴枝と結婚す
昭和5年(1930) - 【渋沢栄一】明治神宮外苑聖徳記念絵画館に壁画献納。財団法人楽翁公遺徳顕彰会会長。〔90歳〕 渋沢関係略年譜
- 政府の緊縮政策により事業不振、諸物価崩落、鉄鋼界も大不況
- 二代目の徳を慕うて辱知諸彦から銅像建造の議起り、五月、二代目の最も関係深かりし帝塚山学院内に建設成る
昭和6年(1931) - 【渋沢栄一】癩予防協会会頭・理事。11月11日永眠。〔91歳〕【渋沢敬三】東京貯蓄銀行会長に就任。 渋沢関係略年譜
1月 山本繁蔵死去
1月 大野生太郎専務取締役就任
1月 山本隆三郎、山本汽船株式会社取締役就任
2月 山本元三取締役就任
9月 満洲事変起る
9月 これを契機に財界は俄然景気を盛り返えす
昭和7年(1932) - 【竜門社】第一次青淵先生伝記資料編纂事業を開始する。【渋沢敬三】第一銀行常務取締役就任。 渋沢関係略年譜
1月 上海事件突発、三月停戦となる
10月 清洲国承認
- 景気一段昂揚、鉄鋼市価も急騰す
昭和8年(1933) - 【竜門社】青淵先生の遺言により渋沢家から曖依村荘を受贈する。財団法人渋沢青淵翁記念会が東京・常盤橋公園に青淵先生の銅像を建てる。 渋沢関係略年譜
- 財界は年末を頂上として疾くも反動の兆現わる
- 大阪鋼材商会解散す
昭和9年(1934) - 【渋沢敬三】日本民族学会理事就任。 渋沢関係略年譜
6月 プレス作業所を改組してプレス工業株式会社設立、社長山本藤助、専務取締役毛利繁三
昭和10年(1935) - 【渋沢敬三】日本女子大学評議員就任。 渋沢関係略年譜
- 諸物価の急激なる落潮と共に鉄鋼相場底抜けの安値に陥る
昭和11年(1936) - 【竜門社】第二次青淵先生伝記資料編纂事業を開始する。 渋沢関係略年譜
2月 岸本、岡谷、津田及当社は無益の競争を避くるため業務統合、大阪鋼材株式会社を創立す、当社より取締役に山本藤助、山本元三、監査役に大野生太郎就任し、同時に社員高岡亀二以下十六名転勤す、従って当社営業品目の内普通鋼材の販売を同社に移譲す
3月 株式会社山本源助商店とは別に株式会社山本商会を設立 前者は線材製品の販売を目的とし、後者は線村、鋼半製品及特殊鋼の取扱をなし、取締役(代表)山本藤助、大野生太郎、山本元三、田中己之吉、監査役山本隆三郎、西恒彦次郎就任す
3月 曩に津田勝五郎氏等と設立せし、大阪製鉄株式会社は日本製鉄株式会社に包含合併す
8月 山本藤助、日本鋼材株式会社取締役に就任
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