※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
10月 | 海軍軍需部より1800円の受注、以後軍需品専門に製造。製品の改良に努力し、実用新案5種を得る | ファスナーのあゆみ | |
- | 物資統制令公布 | 社会一般 | |
- | 米穀配給通帳制実施(主食配給基準2合3勺) | 社会一般 | |
- | 太平洋戦争勃発 | 社会一般 | |
昭和17年(1942) | - | 【渋沢敬三】日本銀行(以下、日銀)副総裁就任、これに伴い第一銀行など辞任。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 有限会社吉田工業所に改組(資本金8万5000円) | 吉田工業のあゆみ | |
3月 | 業務縮小のため大阪支店閉鎖。豊田大阪支店長に陸軍被服廠の下請縫製工場の建設を命ず(資本金7万5000円、大阪市生野区猪飼野土地200坪、工場150坪、ミシン50台) | 吉田工業のあゆみ | |
- | 衣料品点数切符制実施 | 社会一般 | |
- | 企業整備令公布 | 社会一般 | |
- | 食糧管理法公布 | 社会一般 | |
昭和18年(1943) | - | 【渋沢敬三】大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 | 渋沢関係略年譜 |
11月 | 吉田久政(吉田忠雄社長長兄)入社 | 吉田工業のあゆみ | |
11月 | 海軍監督工場に指定さる。海軍部所要量の100%を当社が納入 | ファスナーのあゆみ | |
昭和19年(1944) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』669号を発行、以後休刊する。岩波書店より『渋沢栄一伝記資料』第1巻が刊行される。【渋沢敬三】結城日銀総裁辞任につき、日銀総裁に就任。総裁時代一度も東京を離れず。 | 渋沢関係略年譜 |
11月 | 吉田忠雄社長召集のため吉田久松が社長を代行 | 吉田工業のあゆみ | |
11月 | 陸軍監督工場に指定さる。陸軍部所要量の35%を当社が納入 | ファスナーのあゆみ | |
- | 軍需会社第1次指定 | 社会一般 | |
- | 会社統制令改正公布 | 社会一般 | |
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 吉田社長、陸海軍監督工場責任者として召集解除 | 吉田工業のあゆみ | |
2月 | 陸軍被服廠の藤岡昇氏より工場疎開の忠告を受く。富山県魚津町に疎開準備 | 吉田工業のあゆみ | |
3月 | 東京大空襲により小松川工場全焼。全社員に手当(妻帯者500円、独身者100円)を支給し解散。工場再建を図るため魚津町の朝日湯を買収。焼けた機械および大阪から仕入れた機械を魚津町へ送る。衛生的見地から工場使用不許可 | 吉田工業のあゆみ | |
6月 | 富山県魚津町の株式会社魚津鉄工所(資本金7万5000円、設立昭和18年6月3日)を買収 | 吉田工業のあゆみ | |
8月 | 株式会社魚津鉄工所を吉田工業株式会社に社名変更(旧魚津鉄工所跡を上村木工場と呼称) | 吉田工業のあゆみ |