※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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安政4年(1857) | 10月10日 | 徳川幕府、長崎鎔鉄所建設に着手(文久元(1861)年3月長崎製鉄所として完成) | 当社事項 |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
12月9日 | 王政復古の宣言 | 一般事項 | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | (閏10.18)土佐藩の商業組織を継承した九十九商会を設立し、海運業を開始―三菱の創業 | 当社事項 | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 九十九商会を三川商会と改称 | 当社事項 | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 三川商会を三菱商会と改称、岩崎弥太郎が社主となる | 当社事項 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 佐賀の乱 | 一般事項 | |
4月1日 | 三菱商会本店を大阪から東京に移転、その後、三菱蒸汽船会社とも称した | 当社事項 | |
4月4日 | 台湾出兵始まる(~10月) | 一般事項 | |
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月3日 | 三菱商会、わが国初の外国定期航路(横浜―上海)を開設 | 当社事項 | |
5月1日 | 三菱商会を三菱汽船会社と改称 | 当社事項 | |
5月18日 | 大久保利通内務卿、海運3策を太政大臣に建議、民営補助に海運政策転換 | 一般事項 | |
9月15日 | 政府、三菱汽船会社に第一命令書を下付 | 一般事項 | |
9月18日 | 三菱汽船会社を郵便汽船三菱会社と改称 | 当社事項 | |
12月31日 | 横浜にボイド商会と共同で三菱製鉄所を設立(明12.2権利を買い取り、郵便汽船三菱会社の単独経営とする) | 当社事項 | |
明治12年(1879) | - | 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 汽艇「鷹号」を建造(7GT、三菱初の船舶)[三菱製鉄所〈横浜〉] | 当社事項 | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
11月5日 | 工場払下概則制定(明17廃止) | 一般事項 | |
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月11日 | 明治14年の政変、松方正義大蔵卿による紙幣整理開始で松方デフレ起こる | 一般事項 | |
明治17年(1884) | - | 【渋沢栄一】東京商業学校(前、商法講習所)校務商議委員。磐城炭礦社設立・会長。日本鉄道会社理事委員(後に日本鉄道株式会社取締役)。〔44歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月7日 | 郵便汽船三菱会社、官営長崎造船局の工場全部の借り受け許可を受け、長崎造船所と改称して事業を継承―当社創立 | 当社事項 | |
明治18年(1885) | - | 【渋沢栄一】ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッド設立(後に理事)。日本郵船会社創立(後に日本郵船株式会社取締役)。東京瓦斯会社創立・委員長(後に東京瓦斯株式会社取締役会長)。〔45歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月18日 | 三菱第2代社長に岩崎弥之助就任 | 当社事項 | |
9月29日 | 日本郵船会社の設立に伴い、郵便汽船三菱会社の海運事業を同社に移管 | 当社事項 |