※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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安政5年(1858) | - | 【渋沢栄一】従妹尾高千代(ちよ、尾高惇忠の妹)と結婚。〔18歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 土州藩築地藩邸に於て蒸気船模型の製作に成功 | 参考事項 | |
- | 宇和島藩 兵学者村田蔵六(後大村益次郎)設計の洋式軍艦模型を藩地に於て試作せしむ | 参考事項 | |
安政6年(1859) | 1月 | 奥岸寒風沢に於て「開成丸」(スクーナー木製 長一八間二尺 幅四間一尺)建造 | 参考事項 |
2月 | 長崎海軍伝習所中止決定 | 参考事項 | |
6月 | 姫路に於て「金花丸」(スクーナー木製 長八間 幅一間四尺 一〇〇石)建造 | 参考事項 | |
6月 | 五国条約により神奈川、長崎、函館の三港を開く | 参考事項 | |
11月4日 | 長崎海軍伝習所教師一行蘭船ポストルロン号により長崎を去り帰国す//カツター船は長崎鎮台の管轄に属せしむ(軍医ポンペ・フオン・メーヤデルフオール 機械方士官ハルデス外下士数名は滞留) | 参考事項 | |
万延元年(1860) | 1月13日 | 遣米使「咸臨丸」により品川を出港(二月二五日桑港着 五月五日浦賀へ帰国) | 参考事項 |
12月2日 | 長崎奉行岡部駿河守はハルデス等とともに長崎鎔鉄所の上棟式を行い「長崎製鉄所」と改称 | 重要事項 | |
12月 | ハルデス解雇帰国 | 重要事項 | |
文久元年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月28日 | 長崎奉行臨場の上長崎製鉄所の落成式を挙行//これが「飽ノ浦造機工場」の起源である | 重要事項 | |
6月 | 鎖国令の一部を撤廃し「庶民大船所有」を許可 | 参考事項 | |
文久2年(1862) | 4月24日 | 幕府は摂州神戸村に海軍造艦所を建設 | 参考事項 |
5月 | 幕府石川島に於て邦人のみの手により我国最初の軍艦「千代田形」(長一〇四尺 幅一五尺 六〇馬力 砲二門)起工 | 参考事項 | |
- | 幕府海外渡航を解禁し又鎖国令を撤廃 | 参考事項 | |
文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 備後鞆津に於て「順風丸」(スクーナー木製 長一八間五尺 幅四間一尺 深四間 八〇〇石)建造 | 参考事項 | |
5月16日 | 「大阪船手組」廃止 | 参考事項 | |
5月22日 | 長崎製鉄所は神戸操練局の附属となる | 重要事項 | |
6月10日 | 和蘭へ註文の軍艦(開揚)建造臨監のため榎本益次郎以下五名蘭船テルナート号にて和蘭へ到着 | 参考事項 | |
6月 | 姫路に於て「神護丸」(スクーナー木製 長一八間 幅四間 一、二〇〇石)建造 | 参考事項 |