※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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文久3年(1863) | - | 【渋沢栄一】高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが、計画を中止し京都に出奔。〔23歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 幕命により長崎奉行服部長門守は浦上村淵字立神郷に「七十馬力蒸汽軍艦打建所」を新設することになり、立神海岸の埋立 岩石掘崩地均しを小島藤助、山田清五郎などに請負せ着工 約一二、〇〇〇余坪の工揚地を開拓す//これが「立神造船工場」の起源である | 重要事項 | |
- | 招聘蘭人一四名前後して着任 | 重要事項 | |
元治元年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 立神の軍艦打建所を「立神造船場」と改称 | 重要事項 | |
1月 | 長崎奉行服部長門守は蘭人造船師カール・レーマン、造管師シャルレス・ミレーの上申に基き造船工場用器械類その他を和蘭から購入 | 重要事項 | |
11月10日 | 幕府は仏国公使レオンロセス斡旋の下に相州横須賀村に船厰を、武州横浜本村に工厰の建設を諮詢せしむ | 参考事項 | |
慶応元年(1865) | - | 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 横浜製鉄所起工 | 参考事項 | |
8月 | 長崎製鉄所の経営困窮につき本木昌造改革意見書を提出 | 重要事項 | |
9月 | 横須賀造船所起工 | 参考事項 | |
10月 | 佐賀に於て「凌風丸」(蒸汽外車 木製 一〇馬力)竣工 | 参考事項 | |
12月 | 江戸石川島に於て「千代田形」竣工 | 参考事項 | |
- | フジヤマ号(蒸汽内車 砲一二間[門] 三五〇馬力 長三一間 幅五間三尺 一、〇〇〇噸)を米国から購入 | 参考事項 | |
- | 長崎に於て建造の「先登丸」(蒸汽内車船)解船 | 参考事項 | |
慶応2年(1866) | - | 【渋沢栄一】徳川慶喜、徳川宗家を相続(後に征夷大将軍)し、栄一は幕臣となる。〔26歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 奥州青森に於て「安済丸」(パーク木製 長二一間四尺 幅五間二尺 六六〇石)竣工 | 参考事項 | |
1月 | 紀州新宮に於て建造の「弘済丸」(パーク木製 長一七間半 幅三間四尺 深三間)破却 | 参考事項 | |
1月 | 「鳳凰丸」石川島に於て改造 「豊島形」と称す | 参考事項 | |
3月 | 幕府は戸町村小菅浦に修船場を設くることになり、薩藩士五代友厚、岩瀬公圃に命じ同藩援助の下に工事を開始 | 重要事項 | |
5月 | 製鉄所の縦覧を一般公衆に許す | 重要事項 | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 製鉄所を外国人へ貸渡すとの風説に関し和蘭公使より照会あり | 重要事項 | |
明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月1日 | 幕府の造兵造艦機構を官収、横須賀製鉄所及び横浜製鉄所は神奈川府裁判所管轄となる//石川島造船所は駅逓局主管となり 浦賀造船所は閉鎖さる | 参考事項 | |
6月19日 | 長崎製鉄所官収され長崎府判事統轄の下に経営さる 明治初期の長崎製鉄所の勤務者は次の通り//製鉄所頭取 本木昌造 他助役 六名//同[製鉄所頭取] 青木休七郎 元締役 二名//勘定役 三名//機械方 五名//附役 三名//計 二一名 | 重要事項 |