※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 長崎製鉄所官収され、長崎府判事統轄の下に経営製鉄所頭取、本木昌造・青木休七郎 | 当所の動き | |
7月4日 | 製鉄所頭取青木休七郎外14名連署をもって長崎府判事井上聞多宛、食禄返上の願書を提出 | 当所の動き | |
7月17日 | 江戸を東京とする | 社会の動き | |
8月1日 | 製鉄所、長崎府判事の命により、浜町~築町間の鉄橋架設、工費1万6千円(本邦鉄橋架設の嚆矢) | 当所の動き | |
9月9日 | 明治と改元 | 社会の動き | |
12月6日 | 小菅修船場成る | 当所の動き | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月 | 岩崎弥太郎、土佐大阪商会へ赴任 | 当所の動き | |
3月11日 | トーマス ブレーク グラバー管理の小菅船架を洋銀12万ドルを以て買収初代小菅造船長平野富次郎、製鉄所頭取本木昌造は上海の米人ガンフルに活版機械を注文し、本興善町唐通事会所跡に長崎製鉄所の付属として活版所設置(わが国活版術の濫觴) | 当所の動き | |
6月20日 | 長崎府を長崎県に改め | 社会の動き | |
11月17日 | スエズ運河開通 | 社会の動き | |
12月25日 | 東京―横浜間に電信開通 | 社会の動き | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月27日 | 商船規則制定 | 社会の動き | |
1月 | 国旗の寸法を制定 | 社会の動き | |
6月13日 | 長崎港外の伊王島灯台完成 | 社会の動き | |
9月 | 立神修船場繁栄策を企図し、平野富次郎、民部省に建議、民部大丞井上馨その議を容れ、立神浦に乾船渠築造を許可、ただちに着工を命ず | 当所の動き | |
10月9日 | 岩崎弥太郎、「土佐開成商社」を創設 | 当所の動き | |
10月18日 | 土佐開成商社、「九十九商社」と改称し、海運業を開始(三菱の創業) //平野富次郎、長崎県権大属を拝命、長崎製鉄所兼小菅造船所長立神新船渠開鑿主任を拝命 | 当所の動き | |
- | 太平海郵船(米国)が横浜・神戸・長崎・上海間の定期航路開設 | 社会の動き | |
- | 本木昌造がわが国最初の鉛活字を鋳造 | 社会の動き | |
明治4年(1871) | - | 【渋沢栄一】大蔵省紙幣頭となる。神田小川町裏神保小路(現在の東京都千代田区神田神保町)に転居。『立会略則』刊行。〔31歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月9日 | 長崎製鉄所、工部省の所管となり、「長崎造船所」と改称平野富次郎、本官を辞任 | 当所の動き |