※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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昭和15年(1940) | - | 【竜門社】第100回会員総会並に記念展観を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 資本金150万円の株式会社に改組、「株式会社島野鉄工所」に。庄三郎、初代社長就任 | 経営関連 | |
昭和16年(1941) | - | 【渋沢敬三】全国貯蓄銀行協会会長に就任。第一銀行副頭取に就任。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 太平洋戦争突入 | 社会一般 | |
昭和18年(1943) | - | 【渋沢敬三】大東亜会議に来日のスバス・チャンドラ・ボース、約4週間綱町邸に逗留。 | 渋沢関係略年譜 |
- | この頃、軍需生産一色に染まる | 経営関連 | |
- | 国内自転車生産台数、年間7万台に激減 | 社会一般 | |
昭和20年(1945) | - | 【竜門社】曖依村荘を政府に寄贈する。空襲により曖依村荘内の建物の多くを焼失する。【渋沢敬三】幣原喜重郎より組閣本部に招かる。新木、山際正道と相談、大蔵大臣受諾。親任。 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 空襲により工場設備の30%(600m2)を焼失 | 経営関連 | |
8月 | 終戦にともない一時的に解散 | 経営関連 | |
11月 | 生産再開 | 経営関連 | |
昭和21年(1946) | - | 【竜門社】財団法人竜門社、財団法人渋沢青淵翁記念会が合同して渋沢青淵記念財団竜門社となる。【渋沢敬三】公職を追放さる。本邸は大蔵省に官邸として貸与、のち財産税にて敷地とともに物納。 | 渋沢関係略年譜 |
12月 | 「島野自転車株式会社」設立(資本金2,300万円) | 経営関連 | |
12月 | 完成車の製造を開始(月産2,500~3,000台) | ||
- | 国民体育大会で自転車競技が実施 | 社会一般 | |
- | 自転車の国内生産台数10万5,000台 | 社会一般 | |
昭和22年(1947) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』670号を復刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | GHQ(駐留軍総司令部)より賠償工場指定→人手不足・原料不足もあり打撃! | 経営関連 | |
昭和23年(1948) | - | 【竜門社】機関誌『竜門雑誌』677号をもって廃刊する。 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | 賠償工場指定解除 | 経営関連 | |
11月 | 資本金600万円に増資(株式会社島野鉄工所) | 経営関連 | |
昭和24年(1949) | - | 【竜門社】政府より曖依村荘が無償返還されることになる。財団法人社会教育協会に依頼して、機関誌『竜門雑誌』を継承する機関誌『青淵』を創刊する。曖依村荘全敷地の約3分の2を売却する。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 戦中・戦後の減産期からフリーホイール月産3万個まで回復 | 自転車関連 | |
- | 単一為替レートを設定。1ドル=360円に決定 | 社会一般 | |
昭和25年(1950) | - | 【渋沢敬三】ユニバーサル広告社社員(~1951年)。 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 島野自転車(株)と合併 | 経営関連 | |
- | 高松宮殿下、視察 | 経営関連 | |
- | コスト低減策として、鍛造の改良、フリーホイール焼き入れ新方式の導入をはかる | ||
- | 生産品目にスポークとフレームを追加 | 自転車関連 |