※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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嘉永5年(1852) | 10月29日 | 浅沼藤吉安房国長尾村滝口に生る。幼名藤之助。 | |
- | 小林友十氏(後の二見朝隈氏)信州神林村に小林安吉四男として生る。 | [関係事項?] | |
安政2年(1855) | - | 舎弟勝之助生る(後吉田家の養子となる) | |
元治元年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月15日 | 江戸に出て薬種商米田屋に奉公。時に十三歳。 | ||
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
8月16日 | 山下友治郎氏大阪島の内に生る。 | [関係事項?] | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 医者を志し、長崎へ行き蘭学を修めるため主家を出奔したが果たさず。 | ||
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月20日 | 米田屋を退き、稲葉町に独立、名を藤吉と改め、薬品行商を営む。 | ||
- | 市岡太治郎氏岐阜に生る。 | [関係事項?] | |
明治4年(1871) | - | 【渋沢栄一】大蔵省紙幣頭となる。神田小川町裏神保小路(現在の東京都千代田区神田神保町)に転居。『立会略則』刊行。〔31歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 関西に赴き、神戸の写真師市田左右太氏と親交を結ぶ。 | ||
- | 日本橋呉服町に、写真材料専門の浅沼商店を開業す。時に二十歳。 | ||
- | 松浦隆助氏愛知県東春日井郡信岡村の農家の長男に生る。後に多治見の加藤周助氏の養子となる。 | [関係事項?] | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 四月、日本橋本町に移り、十日にして本石町二丁目より出火類焼の厄にあう。 | ||
- | 富留宮紋六長女けい(十五才)と結婚。 | ||
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 深沢要橘、北庭筑波両氏と謀り〔脱影夜話〕を発行。 | ||
- | 三井高福氏に写真術を説く。 | ||
- | 山内容堂公より写真薬品調合納入を下命さる。 | ||
- | 玉村康三郎氏浅草に開業。 | [関係事項?] | |
明治8年(1875) | - | 【渋沢栄一】第一国立銀行頭取(後に株式会社第一銀行頭取)。商法講習所創立を支援。〔35歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 日本橋本町二丁目十六番地(式亭三馬の遺居)に移転。 | ||
- | 初めて国産台紙を製造販売す。 | ||
- | 徳川慶喜公より写真機の鑑定を需めらる。 |