※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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弘化3年(1846) | 3月4日 | 初代八十吉は成田山新勝寺の門前町に生まれ、幼いころ両親を亡くし、旅籠「吉野屋」を営む叔父夫婦のもとで育てられ、成田詣の常連である徳川家御用漆師古満休意のもとに弟子入りした。 | ザ・ヒストリー |
安政元年(1854) | - | 渋塗職町田辰五郎、神奈川宿本覚寺内の交易談判所を洋式ペンキを用いて塗装。わが国における洋式塗装のはじまりである。 | ザ・ヒストリー |
安政6年(1859) | - | 町田辰五郎、各国公使館からペンキ材料買い入れの免許を受ける。 | ザ・ヒストリー |
慶応2年(1866) | - | 【渋沢栄一】徳川慶喜、徳川宗家を相続(後に征夷大将軍)し、栄一は幕臣となる。〔26歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 英国人リス、ペンキ塗請負業を、レンクフォール商会がペンキ販売業をはじめる。横須賀造船所に塗師所(今の塗装工場)を設置。 | ザ・ヒストリー | |
明治3年(1870) | - | 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 初代八十吉は慶応末期には、現在の港区西新橋付近(塩釜神社の近く)で床板、家具、馬車、人力車等のウルシ塗りの仕事をしていたが、明治時代になり徳川家の仕事が少なくなったので鉄道雇となった。これが洋式塗装を手がけた最初である。これをもって中村塗装店の創業とした。(小畑千之助氏著「口伝岩手塗装史」にも、初代中村八十吉、明治3年に塗装業を開業するとの記述がある) | ザ・ヒストリー | |
- | 工事経歴●鉄道雇(明治3年~明治5年)及び鉄道寮御用(明治5年~)として汽車塗装●田中久重氏の工場において鉄製工作物・電気機器の塗装(~明治14年) | ザ・ヒストリー | |
- | 平民に苗字を許可 | [一般] | |
- | 兵制を統一 | [一般] | |
- | 岩崎弥太郎、九十九商会(三菱商会の前身)創立 | [一般] | |
明治4年(1871) | - | 【渋沢栄一】大蔵省紙幣頭となる。神田小川町裏神保小路(現在の東京都千代田区神田神保町)に転居。『立会略則』刊行。〔31歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 洋式塗料を「ペンキ」と名づける。(横浜毎日新聞8月3日) | ザ・ヒストリー | |
- | 戸籍法公布 | [一般] | |
- | 廃藩置県 | [一般] | |
- | 新貨条令公布 | [一般] | |
- | 東京・大阪間に郵便実施 | [一般] | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 三井組ハウス(後の第一国立銀行)竣工。 | ザ・ヒストリー | |
10月14日 | 鉄道創業の日、初代中村八十吉は、新橋駅において鉄道関係者として天皇の御嘉賞を受けた。 | ザ・ヒストリー | |
- | 横浜村に中国人のペンキ屋が増加、各国領事館、日本館などの建築塗装に従事。 | ザ・ヒストリー | |
- | 新橋~横浜間鉄道開通 | [一般] | |
- | 太陽暦採用 | [一般] | |
明治6年(1873) | - | 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 初代八十吉、田中久重氏(現東芝の創始者)に仕事を認められ、同氏の工場に出入りを許される。 | ザ・ヒストリー |