兼松(株)『兼松回顧六十年』(1950.05)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
弘化2年(1845) - 【渋沢栄一】この頃、父に三字教、蒙求、小学等を教わる。栄治郎と改名。〔5歳〕 渋沢関係略年譜
5月21日 〔誕生〕大阪江の子島に広間弥兵衛氏の長男として生れた。(p.44) 兼松房治郎氏
安政3年(1856) - 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 渋沢関係略年譜
- はじめて商家に奉公に出た。(p.44) 兼松房治郎氏
文久2年(1862) - 江戸に出て武家に勤め、次で武士となつた。(p.44) 兼松房治郎氏
- この頃親戚兼松家の姓を継いだ。(p.44) 兼松房治郎氏
元治元年(1864) - 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 渋沢関係略年譜
- 筑波の役に幕軍に従軍した。(p.44) 兼松房治郎氏
元治2年(1865) - 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 渋沢関係略年譜
- 武士を止めて大阪に帰った。(p.44) 兼松房治郎氏
明治3年(1870) - 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 渋沢関係略年譜
- かねて横浜に出て蚕卵紙の取引に従事中のところ普仏戦争勃発の影響を被り失敗した。(p.45,50)//その機に他日を期して英語を学修した。(p.45) 兼松房治郎氏
明治5年(1872) - 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 渋沢関係略年譜
- 帰阪し、適業を求めて奔走した。(p.45) 兼松房治郎氏
明治6年(1873) - 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 渋沢関係略年譜
- 旧師の勧めに従い三井組銀行部大阪分店に入店した。(p.45) 兼松房治郎氏
- 「勤労貸勘定主義」の信条を実践した。(p.45) 兼松房治郎氏
明治9年(1876) - 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 渋沢関係略年譜
- 一躍抜擢されて大阪分店役員となつた。(p.45) 兼松房治郎氏
- 米商会所の設立に参与し肝煎となつた。(p.45,47) 兼松房治郎氏
明治10年(1877) - 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 渋沢関係略年譜
- 先子夫人と結婚した。(p.46,91) 兼松房治郎氏
明治11年(1878) - 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 渋沢関係略年譜
- 商法会議所の設立に参画し役員となつた。(p.46) 兼松房治郎氏
明治14年(1881) - 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 渋沢関係略年譜
- 三井銀行(大阪分店取締八等)を辞した。(p.46,75) 兼松房治郎氏
明治15年(1882) - 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 渋沢関係略年譜
- 大阪商船会社の設立計画に参画した。(p.46,49) 兼松房治郎氏
明治17年(1884) - 【渋沢栄一】東京商業学校(前、商法講習所)校務商議委員。磐城炭礦社設立・会長。日本鉄道会社理事委員(後に日本鉄道株式会社取締役)。〔44歳〕 渋沢関係略年譜
- 大阪商船会社を創立、取締役となつた。(p.46) 兼松房治郎氏
明治19年(1886) - 【渋沢栄一】「竜門社」創立。東京電灯会社開業(後に委員)。〔46歳〕【竜門社】竜門社が東京・深川福住町の青淵先生邸内に創立する。機関誌『竜門雑誌』創刊号を刊行。 渋沢関係略年譜
- 大阪商船取締役を辞した。(p.46) 兼松房治郎氏
明治20年(1887) - 【渋沢栄一】東京製綱会社発起委員(後に取締役会長)。東京人造肥料会社創立委員(後に取締役会長)。京都織物会社創立、相談役。日本煉瓦製造会社創立・理事(後に日本煉瓦製造株式会社取締役会長)。東京ホテル創立・理事長(後に帝国ホテル株式会社取締役会長)。北海道製麻会社・相談役。〔47歳〕 渋沢関係略年譜
11月 〔第一次渡濠〕日濠直貿易を企図し、調査のため渡濠した。(p.47,66) 兼松房治郎氏
- この頃大阪日報を買収した。(p.46) 兼松房治郎氏
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