兼松(株)『兼松六十年の歩み』(1955.04)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
弘化2年(1845) - 【渋沢栄一】この頃、父に三字教、蒙求、小学等を教わる。栄治郎と改名。〔5歳〕 渋沢関係略年譜
5月21日 誕生 大阪江の子島で広間弥兵衛氏の長男として生れた。(p.3) 兼松房治郎氏
安政3年(1856) - 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 渋沢関係略年譜
- はじめて商家へ奉公に出た。(p.4) 兼松房治郎氏
文久2年(1862) - 江戸に出て武家に勤め、次いで武士となつた。(p.4) 兼松房治郎氏
- この頃親戚兼松家の姓を継いだ。(p.5) 兼松房治郎氏
元治元年(1864) - 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 渋沢関係略年譜
- 筑波の役に幕軍に従事した。(p.5) 兼松房治郎氏
元治2年(1865) - 【渋沢栄一】一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡廻。〔25歳〕 渋沢関係略年譜
- 武士をやめて大阪に帰つた。(p.5) 兼松房治郎氏
明治3年(1870) - 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 渋沢関係略年譜
- かねて横浜に出て蚕卵紙の取引に従事中、普仏戦争勃発の影響を受けて失敗した。(p.6)//その機に他日を期して英語を学修した。(p.6) 兼松房治郎氏
明治5年(1872) - 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 渋沢関係略年譜
- 帰阪し、適業を求めて奔走した。(p.7) 兼松房治郎氏
明治6年(1873) - 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 渋沢関係略年譜
- 旧師の勧めに従い、三井組銀行部大阪分店に入店した。(p.7) 兼松房治郎氏
- 「勤労貸勘定主義」の信条を実践した。(p.8) 兼松房治郎氏
明治9年(1876) - 【渋沢栄一】東京府瓦斯局事務長。養育院事務長。深川福住町(現在の東京都江東区永代)に転居。〔36歳〕 渋沢関係略年譜
- 一躍抜擢されて大阪分店役付となつた。(p.8) 兼松房治郎氏
- 米商会所の設立に参与し肝煎となつた。(p.9) 兼松房治郎氏
明治10年(1877) - 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 渋沢関係略年譜
- 先子夫人と結婚した。(p.9) 兼松房治郎氏
明治11年(1878) - 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 渋沢関係略年譜
- 商法会議所の設立に参画し役員となつた。(p.9) 兼松房治郎氏
明治14年(1881) - 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 渋沢関係略年譜
- 三井銀行(大阪分店取締八等)を辞した。(p.8,9)[原本では西暦1381とあり] 兼松房治郎氏
明治15年(1882) - 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 渋沢関係略年譜
- 大阪商船会社の設立計画に参画した。(p.10) 兼松房治郎氏
明治17年(1884) - 【渋沢栄一】東京商業学校(前、商法講習所)校務商議委員。磐城炭礦社設立・会長。日本鉄道会社理事委員(後に日本鉄道株式会社取締役)。〔44歳〕 渋沢関係略年譜
- 大阪商船会社を創立、取締役となつた。(p.11) 兼松房治郎氏
明治19年(1886) - 【渋沢栄一】「竜門社」創立。東京電灯会社開業(後に委員)。〔46歳〕【竜門社】竜門社が東京・深川福住町の青淵先生邸内に創立する。機関誌『竜門雑誌』創刊号を刊行。 渋沢関係略年譜
- 大阪商船取締役を辞した。(p.11) 兼松房治郎氏
明治20年(1887) - 【渋沢栄一】東京製綱会社発起委員(後に取締役会長)。東京人造肥料会社創立委員(後に取締役会長)。京都織物会社創立、相談役。日本煉瓦製造会社創立・理事(後に日本煉瓦製造株式会社取締役会長)。東京ホテル創立・理事長(後に帝国ホテル株式会社取締役会長)。北海道製麻会社・相談役。〔47歳〕 渋沢関係略年譜
11月 第1次渡豪 日豪直貿易を企図し、調査のため渡豪した。(p.11,15,52) 兼松房治郎氏
- この頃大阪日報を買収した。(p.11) 兼松房治郎氏
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