(株)町田糸店『町田百年略史』(1965.04)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
元治元年(1864) - 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 渋沢関係略年譜
12月24日 初代町田徳之助は二十四才で当時浅草黒舟町と言った現在の場所に糸商を始めた。主な商品は絹糸で、商標には〓[○+十一]を用い藤田屋を名乗る。 町田百年略史
慶応2年(1866) - 【渋沢栄一】徳川慶喜、徳川宗家を相続(後に征夷大将軍)し、栄一は幕臣となる。〔26歳〕 渋沢関係略年譜
- 二代徳之助が四月四日に生まる。幼名は正之助。母はしげ氏で本所大野氏の女。 町田百年略史
- 火災のため店舗焼ける。 町田百年略史
慶応3年(1867) - 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 渋沢関係略年譜
- 大政奉還。 社会事情
- 初代はこの頃栃木・群馬方面への行商、又横浜へも生糸の商いに往復した。 町田百年略史
慶応4年(1868) - 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 渋沢関係略年譜
- 江戸は東京と改まった。 社会事情
明治元年(1868) - 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 渋沢関係略年譜
- 店舗の新築。 町田百年略史
明治3年(1870) - 【渋沢栄一】大蔵少丞となる。官営富岡製糸場設置に向けて、事務主任となる。〔30歳〕 渋沢関係略年譜
12月 再び火災に罹る。 町田百年略史
- 初代(三十才)生糸買付の縁により渋沢栄一(後子爵)と相知る。 町田百年略史
明治6年(1873) - 【渋沢栄一】抄紙会社創立(後に王子製紙株式会社取締役会長)。大蔵省を辞める。海運橋兜町(現在の東京都中央区日本橋兜町)に転居。第一国立銀行創立・総監役。〔33歳〕 渋沢関係略年譜
- 初代は引続き糸行商に努めた。 町田百年略史
- 二代は八才となり本所菊川町若林七五郎氏宅(父の弟、材木商を営み、現在は若林保全株式会社)より寺小屋文知堂に学んだ。 町田百年略史
明治7年(1874) - 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 渋沢関係略年譜
- 店舗の新築が出来たので二代は若林家より戻る。 町田百年略史
- 弟信之助(後年の藤掛与左エ門氏で、通油町に藤掛糸店を経営)出生。 町田百年略史
- 二代は十一才で戸田小学校四級生となり、又漢詩・書道を樋口逸斎翁に学んだ。 町田百年略史
明治10年(1877) - 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 渋沢関係略年譜
- 西南の役 社会事情
- 初代(三十七才)昼は営業に忙しく夜は子弟を訓育した。六月には群馬県富岡製糸所に行き調査をした。 町田百年略史
- 二代徳之助(十三才)はこの春から京都四条の寺村助右衛門氏方へ住込で奉公することになる。傍ら漢詩を西谷淇水氏に学び号を睡鴨という。晩年まで寺村氏を主人と仰ぎ報恩の念が深い。 町田百年略史
- 明治十年二月の糸物類栄(東京)には東の大関として浅草黒舟町藤田屋徳之助と載せられている。 町田百年略史
明治12年(1879) - 【渋沢栄一】東京海上保険会社創立。北豊島郡西ケ原村(現在の東京都北区西ケ原)に別荘(飛鳥山邸、翌年曖依村荘と命名)を構える。グラント将軍(元アメリカ大統領)歓迎会(東京接待委員総代)。養育院院長。〔39歳〕 渋沢関係略年譜
12月 横浜正金銀行が設立された。(開業は翌年) 社会事情
- 東京に大火あり店舗又も焼ける。二代徳之助は感ずることあって北野天満宮に毎月参詣する。 町田百年略史
PAGE TOP