※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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1804年 | - | (1817年まで)大野源蔵(大助の父)越後国刈羽郡比角村に出生か | 有隣堂関係 |
嘉永5年(1852) | 4月20日 | 松信ユキ(大助の母)常睦国新治郡上大津村神立に生まれる | 有隣堂関係 |
嘉永7年(1854) | 3月3日 | ペリー、横浜村で日米和親条約を締結調印 | 参考事項 |
11月 | 大野源蔵、江戸呉服問屋と縮布販売についての取り決めに名を連ねる | 有隣堂関係 | |
安政3年(1856) | - | 【渋沢栄一】父の代理で領主安部摂津守の岡部の陣屋で用金の命を受ける。代官が傲慢で栄一を侮蔑、圧制に痛憤し封建の弊に強烈な反感を持つ。〔16歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月10日 | 松信セイ(大助の養母)出生 | 有隣堂関係 | |
安政6年(1859) | 4月 | 東屋新吉、横浜町2丁目に開業(横浜最初の書店) | 参考事項 |
6月2日 | 横浜開港 | 参考事項 | |
文久元年(1861) | - | 【渋沢栄一】春、江戸に出て、海保漁村塾・千葉栄次郎道場に学ぶ。〔21歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月 | 錦港堂師岡屋伊兵衛、弁天通に開業 | 参考事項 | |
元治元年(1864) | - | 【渋沢栄一】一橋家に仕える。篤太夫と改名。〔24歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 茂木保平、野沢屋を弁天通に開店 | 参考事項 | |
慶応3年(1867) | - | 【渋沢栄一】将軍名代・徳川昭武に従ってフランスへ出立、パリ万国博覧会などを視察。〔27歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
3月 | 焼失した港崎遊郭の代地として、吉田新田沼地を埋め立てた吉原町に遊郭を移転、大門の外を姿見町(現末広町)と名づける | 参考事項 | |
明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 早矢仕有的、丸善を新港町(現尾上町)に開業 | 参考事項 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 古屋徳兵衛、鶴屋呉服店(松屋の前身)を亀ノ橋端に開店 | 参考事項 | |
明治5年(1872) | - | 【渋沢栄一】大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。〔32歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月 | 新橋・横浜間に鉄道が開通 | 参考事項 | |
明治7年(1874) | - | 【渋沢栄一】東京府知事より東京会議所共有金取締を嘱託される(後に東京会議所会頭)。〔34歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
5月20日 | 吉田新田の内に伊勢佐木町が新設される | 参考事項 | |
7月4日 | 大野源蔵、(松信)ユキの長女ロク(のち前沢鐘太郎と婚姻、第二有隣堂を開業)出生 | 有隣堂関係 | |
明治10年(1877) | - | 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 大野源蔵、ユキの長男貞造(のち第一有隣堂開業)出生 | 有隣堂関係 | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
7月 | 伊勢佐木町が神奈川県布達により、観世物興行場に指定される | 参考事項 | |
12月15日 | 大野源蔵、ユキの次男辰蔵(のち第三有隣堂開業)出生 | 有隣堂関係 | |
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 大野源蔵、ユキの三男正造、出生 | 有隣堂関係 | |
明治17年(1884) | - | 【渋沢栄一】東京商業学校(前、商法講習所)校務商議委員。磐城炭礦社設立・会長。日本鉄道会社理事委員(後に日本鉄道株式会社取締役)。〔44歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
10月27日 | 大野源蔵の四男大助、横浜区尾上町3丁目43に出生 | 有隣堂関係 |