(株)横河橋梁製作所『横河橋梁八十年史』(1987.11)

(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。

月日 事項 年表種別
昭和53年(1978) - 【竜門社】酒井杏之助が評議員会長に就任。 渋沢関係略年譜
3月22日 電電公社、光ファイバーによる海底ケーブル通信の実験に成功と発表(中継距離70km) 社外
元治元年(1864) 9月28日 播磨国加古郡二見村東二見(現兵庫県明石市二見町東二見)に、蘭法医横河安鼎(号「秋濤」の四男として生まれる。母は厚見氏、長男は規一、次男は震八郎、三男は夭折 横河民輔
- 池田屋騒動、禁門の変を経て、徳川幕府による第1回長州征伐おこなわれる 社会
明治12年(1879) - 15歳―郷里の小学校を卒業後、その学才を買われて母校の教織つく 横河民輔
- 東京府会開会(府県会の初め) 。 社会
- モース、大森貝塚を発見 社会
明治13年(1880) - 16歳―神戸で中学教育を終えてただちに上京し、以後3年間工部大学校予備校、三田英語学校に学び受験準備をする 横河民輔
- 片岡健吉ら国会開設上願書を提出 社会
明治16年(1883) 3月 19歳―工部大学校の入学試験に合格。20倍以上の競争率だったという。このころ、一時、増本姓を名のる 横河民輔
- 官報第1号発行。 社会
- 鹿鳴館(コンドル設計)開館式。 社会
- 天気予報開始 社会
明治18年(1885) - 21歳―工部大学校の専門課程進学にあたって同級生下田菊太郎と2人きりで造家学科を選ぶ 横河民輔
- 清国と朝鮮からの同時撤兵等を約する天津条約を締結。 社会
- 太政官制を廃止し内閣制度を発足 社会
明治19年(1886) - 22歳―工部大学校を改組して帝国大学工科大学となる。この年、病をえて1年休学 横河民輔
- 政府、兵庫造船所を川崎正蔵に払い下げる 社会
明治22年(1889) 5月 25歳―造家学会主催の「宮城正門内鉄橋際ノ櫓台上ニ設セラルヘキ巨大ナル銅器ノ懸賞問題」に応募して2等となる 横河民輔
- 石川島造船所が、会社組織となる 社会
明治23年(1890) - 【渋沢栄一】貴族院議員に任ぜられる。三本木渋沢農場開墾開始。〔50歳〕 渋沢関係略年譜
7月 26歳―帝国大学工科大学造家学科(現東京大学工学部建築工学科)を卒業。卒業設計は‘Tokyo City-Building'、卒業論文は‘Essay on Tokyo City-Building'。 横河民輔
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