※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治43年(1910) | - | 【渋沢栄一】政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。社団法人東京銀行集会所会長。〔70歳〕【竜門社】青淵先生の七十寿祝賀会を開催する。 | 渋沢関係略年譜 |
8月 | 大阪市北区若松町二十三番地に大阪出張所を開設す | ||
9月5日 | 曩きに出願せる逗子の味の素工場正式に許可せらる、敷地一、四五〇坪、建物三七五坪 | ||
明治44年(1911) | - | 【渋沢栄一】日露協会評議員。維新史料編纂会委員。財団法人済生会設立、顧問・評議員。勲一等に叙され瑞宝章を授与される。〔71歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月1日 | 合資会社鈴木製薬所の資本金を金五万円に増加す | ||
7月24日 | 逗子及び葉山工場暴風雨に襲われ一部倒壊及び流失し損害を蒙る | ||
- | この年鐘淵紡績株式会社へ糊用として小麦澱粉の売り込みに成功す | ||
明治45年(1912) | - | 【渋沢栄一】日本鋼管株式会社発起人。日仏銀行相談役。帰一協会創立・幹事。ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。〔72歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月30日 | 米国政府より蛋白質加水分解物電解分離の特許(第一〇一五八九一号)を得 | ||
2月 | 大阪出張所より初めて高野山各寺院へ味の素宣伝に赴く | ||
3月25日 | 池田博士硫酸法によるグルタミン酸ソーダ製造法の特許(第二一八七一号)を得 | ||
4月1日 | 合資会社鈴木製薬所の資本金を金六万円に増加、商号を合資会社鈴木商店と改む | ||
7月 | 始めて味の素進物用化粧函を発売す | ||
8月12日 | 米国政府より調味料製造法の特許(第一〇三五五九一号)を得 | ||
大正2年(1913) | - | 【渋沢栄一】伯剌西爾拓植株式会社創立準備委員。日本結核予防協会創立・副会頭(後に会頭)。中国興業株式会社(後の中日実業)創立、相談役。日本実業協会創立・会長。帝国飛行協会成立、評議員。〔73歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
4月 | 神奈川県川崎町多摩川畔に土地を買収し、工場の建築に着手す | ||
- | 年初より逗子工場にて硫酸法による味の素の製造を研究す | ||
大正3年(1914) | - | 【渋沢栄一】東北九州災害救済会創立、副総裁。合資会社国際通信社設立、相談役。日中経済界の提携のため中国訪問。財団法人国産奨励会設立準備委員総代、顧問。〔74歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
6月 | 大阪出張所を北区鳴尾町二十五番地に移転す | ||
7月 | 川崎工場にて硫酸法による味の素の製造に着手す | ||
8月21日 | 川崎工場汽缶火入式を挙ぐ | ||
8月23日 | 対独宣戦発せらる(第一次世界大戦) | ||
9月1日 | 川崎工場落成し正式作業を開始す | ||
9月 | 鈴木三郎初めて台湾を経て上海に赴き、北支、満鮮を巡歴して十二月帰京、これを以って味の素中国発展の端緒とす | ||
11月 | 前月中に硫酸法の非を認めてこれを停止し、塩酸分解の装置施設を開始す、この間塩酸塩製造までの工程を逗子工場にて行う(川崎工場) |