| 口絵 |
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写真、古代エジプトやメソポタミアの遺跡からは、当時のビールづくりを偲ばせる壁画などが数多く発見されている |
巻頭 |
| 口絵 |
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写真、バイヘンシュテファン醸造所(現・ミュンヘン工科大学醸造学科)、聖ミヒャエル教会(ドイツ・バンベルク)、今なおビールづくりが行われているベルギーのオルパル修道院(1070年創設) |
巻頭 |
| 口絵 |
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写真、アインベックの街並み、中世の面影を残すベルギーのカフェ(アントワープ)、ドイツビールの品質安定に寄与した「ビール純粋令」(1516年) |
巻頭 |
| 口絵 |
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写真、メイフラワーII(復元船)、タンカード(ジョッキ)と航海日誌、アメリカのビール醸造歴史書、アメリカ最古の歴史をもつリージョナルブルワリー、イェングリング醸造所 |
巻頭 |
沿革
| 口絵 |
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写真、アメリカにおける大量生産・大量輸送風景(19世紀後半)、パスツールが使用した実験器具類 |
巻頭 |
| 口絵 |
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写真、アンハイザー・ブッシュ社セントルイス本社工場、工場内部、鉄道引込線、アメリカ東海岸には歴史あるパブが多い |
巻頭 |
沿革
| スプリングバレー・ブルワリー初期の陶製びん、ラベル変更に関するジャパン・ブルワリー重役会議事録(1889年1月) |
1889年 |
写真 |
〔3〕 |
沿革
| スプリングバレー・ブルワリーの経営書簡と創業者W・コープランド、ジャパン・ブルワリーの株主総会記録(1886年)、山手工場全景(1900年代初頭)、ジャパン・ブルワリー買収契約合意書、日露戦争凱旋ビール、山手工場跡地に建立した麒麟麦酒開源記念碑、山手工場で使用した井戸跡(現・横浜市立北方小学校内)、荷物判取帳、JBCは商標に麒麟を採用、「キリンビール」が誕生した |
1886年~1900年代初頭 |
写真 |
〔4〕 |
沿革;広告宣伝
| 石版ポスター(1903年)と明治30年代の横浜 |
1903年 |
写真 |
〔6〕 |
沿革;広告宣伝
| 明治屋による一手販売制時代に使用された宣伝配達車と印半纏、販促用の金属製小皿とマッチ |
1935年 |
写真 |
〔21〕 |
沿革;定款
| 麒麟麦酒株式会社第1回発起人会議事録と定款 |
1907年 |
写真 |
〔22〕 |
沿革
| 横浜工場仕上場の作業風景(1920年代後半)//関東大震災後、生麦に建設された横浜新工場(1926年)//工場見学用パンフレット(1935年ごろ)//東洋醸造(株)で製造されていた「フジビール」//当時製麦作業に使用していた道具//醸造マニュアルと横浜工場図面。設備・技術の輸入により生産力向上を図った//建設中の神崎工場と上棟式//買収直後の仙台工場(1923年)//濾過器//ホップ煮沸器//唐箕(とうみ) |
1920年代~1935年頃 |
写真 |
〔24〕 |
沿革
| 1927年に明治屋との一手販売契約を解消、営業部を設置した。写真右下は仙台支店新築披露//横浜清涼飲料工場内部(1935年ごろ)//キリンレモン発売は1928年//家庭用ビール配給券(1940年ごろ)//旧中華民国の商標登録証と満洲麦酒第二工場。日本の大陸進出とともに積極的に海外事業を展開した//敗戦後の再建期には醤油・ビタミン剤などの製造・販売を行った//統制時代・進駐軍用 |
1927年~1950年 |
写真 |
〔26〕 |
販売;広告宣伝
| 営業部設置から統制前まで当社は積極的販売活動を展開した。街にビヤホールの灯りが戻ったのは1949年 |
1949年 |
写真 |
〔28〕 |
沿革;製品
| 商標復活なった1949年以降の製品//1957年以降の製品//東京工場缶製品ラインと建設中の名古屋工場 |
1949年~1957年 |
写真 |
〔61〕 |
沿革
| 自由販売再開から5年後の1954年、当時の販売量は業界トップとなった//生産能力拡充の一方で事務の機械化・合理化が推進された//アメリカ視察旅行報告(1961年)とアメリカ製醸造機械のカタログ//増設を重ねて11列となった名古屋工場びん詰ライン。当時わが国最大のビール工場であった//当時の作業風景。次々と新鋭設備が導入された//東京・高崎・福岡・京都の各工場絵はがき//大麦・ホップの収穫風景 |
1954年~1961年 |
写真 |
〔62〕 |
沿革;物流
| 1967年、東京でも桟箱からP箱への切替えを実施(東京・銀座みゆき通り) |
1967年 |
写真 |
〔64〕 |
広告宣伝;商品
| 「どういうわけか」が話題を呼んだ宣伝広告(1970年)//1970年代半ば以降の代表的商品。独自性のある商品で総需要拡大を図った |
1970年代 |
写真 |
〔89〕 |
沿革;物流
| 1970年代以降、当社は原料調達の安定化を図り国際化を進めた//KBBモルティング(現キリン・オーストラリア社)//取手・栃木・滋賀・岡山の各工場絵はがき//1970年代以降、立体自動倉庫の導入など物流合理化が推進された//寡占問題と低成長時代への対応を示す当時の経営資料 |
1970年代 |
写真 |
〔90〕 |
事業所;製品
| キリン・シーグラム御殿場工場//シーグラム社との契約書類とウイスキー「ロバートブラウン」//キリン・シーグラム御殿場工場内部//岩手山麓に広がる小岩井農場//小岩井工場の製造ライン//小岩井製品//松本平のトマト畑//トマトジュースの缶フィラー//キリントマトジュース |
1968-1982(昭和43年-昭和57年) |
写真 |
〔92〕 |
広報;製品
| CI導入は1984年//キリンびん生 キリン缶生 |
1984年 |
写真 |
〔121〕 |
沿革;事業所
| 千歳工場 ブルワリーツアーコース入口//新技術の導入と積極的なコンピュータ化で効率化をすすめた(写真は千歳工場仕込室)//千歳工場内にキリンガーデンを設置。レストランと熱帯植物園「トロピカルドーム」//移転した新仙台工場//キリンシティ1号店(東京・六本木)//ビアホールハートランド「つた館」 |
1983-1987(昭和58年-昭和62年) |
写真 |
〔122〕 |
技術
| 開発化学研究所無菌作業室//原料育種技術を基盤としてアグリバイオ事業に進出 |
1983-1987(昭和58年-昭和62年) |
写真 |
〔124〕 |
商品;経営
| 定番となった一番搾り//外食事業は業態開発を推進 |
1988-1991(昭和63年-平成3年) |
写真 |
〔195〕 |
施設;商品
| 横浜ビアビレッジ外観//リニューアルなった横浜工場//びん詰めライン//洗びん機//濾過機//缶詰機(フィラー)//樽詰めライン//空びん検査機//1991年キリンビバレッジ社を設立 設立日の新聞広告 午後の紅茶・ジャイブはヒット商品に コニカルタンク群 |
1988-1991(昭和63年-平成3年) |
写真 |
〔196〕 |
経営;技術
| 医薬事業はビール・清涼飲料に続く第3の柱に成長 高崎医薬工場と製造ライン、エスポー グラン、医薬研究開発風景 |
1988-1991(昭和63年-平成3年) |
写真 |
〔198〕 |
営業;物流
| 酒販店店頭での営業活動//北陸工場トラックバース |
1992-1994(平成4年-平成6年) |
写真 |
〔253〕 |
経営;物流
| 開かれた工場をめざして―横浜工場内のパブレストラン「スプリングバレー」//京都工場内レストラン「KARAHANA」とミニブルワリー//地域のお客様に親しまれているキリンフェスティバル。工場見学者は延べ2000万人を突破//地域社会との交流を―社員による清掃活動//日本海側初のビール工場となった北陸工場 中央コントロール室 びん詰め機//サービス水準向上と効率化をめざし物流体制を整備 東京北部物流センター 東京東部物流センター//基盤技術研究所の完成により基礎研究体制も一層充実//オランダ フィデス社の温室 |
1992-1994(平成4年-平成6年) |
写真 |
〔254〕 |
事業所
| 大阪・ミナミのシンボルとなったキリンプラザ大阪(1987年完成)。キリンコンテンポラリーアワードの受賞作品展 |
1987年 |
写真 |
〔256〕 |
事業所;商品
| 新川本社ビル(1995年完成)//海外で生産されるキリンブランドのビール |
1995年 |
写真 |
〔323〕 |
海外事業
| 一段とすすんだ国際化―ニューヨークのスーパーマーケットでも一番搾りを大量陳列//ニューヨークの日本食レストランとスーパーマーケット//珠海麒麟統一啤酒有限公司//広州市街地に掲げられた看板 |
1995-1997(平成7年-平成9年) |
写真 |
〔324〕 |
社会貢献
| キリンオープンゴルフ//経営理念は「健康・楽しさ・快適さに貢献」 キリンカップサッカーの歴史は20年に及ぶ//オフィシャルスポンサーとして長野オリンピックを支援 |
1995-1997(平成7年-平成9年) |
写真 |
〔326〕 |
事業所;経営
| 最新鋭の神戸工場には環境に配慮したビオトープを設置//リニューアルした名古屋工場外観//旧工場を利用した名古屋工場内レストラン//医薬事業は自社販売体制を整備//「お客様本位」「品質本位」を貫く―キリンドラフトマスターズスクールの講習会 |
1995-1997(平成7年-平成9年) |
写真 |
〔328〕 |
| 索引 |
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〔377〕 |