(株)読売新聞社『読売新聞八十年史』(1955.12)

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参考資料 [読売カワラ(瓦)版] 写真、大坂安部之合戦之図(大坂夏の陣)、江戸時代の市中「読売」図 〔1-〕表見返
役員 社主 正力松太郎 昭和三十年九月撮影 写真 〔1-〕巻頭
売上 新聞戦国時代から現在に至る本紙大躍進の跡―読売新聞ならびに本社が経営する大阪読売・報知新聞の発行部数― 大正一三年~昭和三〇年 グラフ、昭和二五年から報知新聞追加、昭和二七年がらは大阪読売も追加 〔1-〕巻頭
従業員 本社職員総数 大正一三年~昭和二九年 グラフ 〔1-〕巻頭
価格 本紙購読料金の変遷(月極一カ月購読料金) 大正一三年~昭和二九年 グラフ 〔1-〕巻頭
役員 歴代社長 明治7年~大正13年 写真、初代社長 子安峻 明治7年~22年、二代目社長 本野盛亨 明治22年~42年、三代目社長 高柳豊三郎 明治43年~45年、四代目社長 本野英吉郎 明治45年~大正6年、五代目社長 秋月左都夫 大正6年~8年、六代目社長 松山忠二郎 大正8年~13年 〔2-〕1*
事業所 創刊当時の本社 写真、東京芝虎ノ門の日就社、上は日就社出版方担当 柴田昌吉 〔2-〕1*
商品 読売新聞創刊号(第一面) 明治七年十一月二月 写真、読売新聞は明治七年十一月二日、子安峻、本野盛亨、柴田昌吉によって創刊された日本最古の新聞である。 〔2-〕2*
商品 [読売新聞]創刊号(第二面) 明治七年十一月二月 写真、創刊当時は隔日発行、型は現在の新聞紙四ツ切りよりもやや小さく、大衆向きの新聞であったところから、世間では東京日日、郵便報知、朝野新聞などの大型で政論を主とした新聞を『大新聞』といい、本紙のような新聞を『小新聞』と呼んでいた。 〔2-〕2*
事業所;施設 日本最初の近代的印刷工場 写真、東京進出以前・横浜弁天町時代の日就社 〔2-〕4*
商品 日就社から発行された「英和字彙」 写真、田中平八、初代編集長 鈴木田正雄 明治7年―13年、子安・本野・柴田らは文明開化の新時代にふあさわしい完全な英和字書をつくりたいと思立ち、天下の糸平こと田中平八の援助を得て横浜弁天町に日就社をおこし、「英和字彙」を刊行したが、非常に世間から重用された。この日就社がのちに東京芝虎ノ門にうつり、読売新聞の発行所となったのである。 〔2-〕4*
商品 [「小学雑誌」「学び乃暁」] 写真、本社が発行したわが国最初の小学生新聞「小学雑誌」(隔日刊)と、月刊雑誌「学び乃暁」で、いずれも明治九年に創刊された。円内は初期の読売調を築いた高畠藍泉(右)と饗庭篁村(左)で、藍泉は江戸文学と明治文学の橋渡しをした人であり、篁村は校正から身をおこし。のちに文壇の大家となった。//明治十年大阪新出当時本紙に掲載された広告 〔2-〕5*
業界;事業所 (上)明治十年銀座の新聞街へ進出した本社//(下)成島島柳北の「拝賀のしるし」 明治十年五月十四日付本紙 写真、『小新聞』といわれた本紙は、堅実親切な編集方針によりたちまち世間の信用を博し、明治十年西南役の前後数年間は日本一の発行部数となり、同年五月芝虎ノ門から本社を銀座の新聞街へ移した。円内は、祝賀の文を寄せた朝野新聞社長成島柳北で、柳北は本社顧問として「濹上漁史」の筆名で本紙に麗筆をふるった。 〔2-〕6*
商品 本紙社説のはじめ「読売雑譚《よみうりざふだん》」第一回 明治十二年二月二十五日、明治十五年十月二十二日 写真、「読売雑譚」に健筆をふるった人々 〔右から〕加藤九郎、小野梓、杉浦重剛//(下)田島任天の連載漫画「博笑戯墨《たはれごと》」 〔2-〕7*
商品 文学新聞へ 明治二十二年十二月二十三日 写真、明治二十二年十二月二十三日発行停止解除の日を期して本紙は文学新聞へのスタートを切った。坪内逍遥・尾崎紅葉・幸田露伴の入社を社告するとともに「頓首再拝……斎戒沐浴」の社説を掲げてその意気を示した。//文学新聞の開拓者 主筆 高田早苗 明治20年―23年、文学新聞への提案者 客員 坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴、社会部長として「よみうり抄」を創設した 島村抱月 明治三一年―三三年、文芸主任 正宗白鳥 明治三六年―大正元年、編集長兼文芸部長 上司小剣 明治三〇年―大正五年 〔2-〕8*
商品 紅露二本建の小説欄 明治二十三年七月五日 写真、紅葉作「伽羅枕(きゃらまくら)」、露伴作「ひげ男」、本社が始めて[初めて]募集した懸賞歴史小説の入選作 「滝口入道」 円内は作者高山樗牛 明治二十七年四月十六日 〔2-〕8*
商品 尾崎紅葉が心血をそそいだ大作「金色夜叉」 明治三十五年四月一日 写真、紅葉は明治二十二年露伴とともに本社に入社以来「伽羅枕」「多情多恨」などの傑作をつぎつぎに発表したが明治三十年元日の紙上から長編「金色夜叉」を連載して読者の血をわかせた。「金色夜叉」は文学の鬼といわれた彼の真骨頂を示す雄編で連載六カ年ついに未完に終った日本文学史上不滅の一大叙情史である。〔写真〕上は「続々金色夜叉続篇」第一回(明治三十五年四月一日)で下左は苦心のあとを物語るその原稿。下右は若き日の鏑木清方が麗筆をふるった「お宮」である。 〔2-〕9*
商品 文学新聞全盛時代の三傑作 明治二十七年十一月一日、明治二十八年七月二十六日、明治三十六年二月二十五日 写真、泉鏡花 作 「義血侠血」(滝の白糸) 明治二十七年十一月一日 円内作者、斎藤緑雨 作 「門三味線(かどざみせん)」 明治二十八年七月二十六日 円内作者、小杉天外 作 「魔風恋風」 明治三十六年二月二十五日 円内作者 〔2-〕11*
商品 河竹黙阿弥の鼠小僧と逍遥の黙阿弥シェイクスピヤ比較論 明治二十一年一月三日から 写真、河竹黙阿弥の最も油の乗り切った時期の代表作の一つである鼠小僧が明治二十一年一月三日から本紙上に連載されたが、この年小説の筆を断ち演劇改良に乗り出した坪内逍遥は、春のや主人の筆名で同じ日の本紙に黙阿弥を紹介する長論を発表し「断じていふ河竹翁は我国の沙翁なり」といった。写真はその記念すべき論文(上)と黙阿弥作の鼠小僧(下)で、円内は珍しい洋服姿の黙阿弥である。 〔2-〕12*
商品 明治憲法の普及に大きな役割を果した高田早苗の「国会問答」 明治二十年十月一日 写真 〔2-〕13*
商品 明治十五年言論圧迫時代における出版物検閲を風刺した漫画 明治十五年 写真、―本紙から― 〔2-〕13*
商品 (上)本社が尾崎愕堂に一欄を提供して自由に書かせた「別天地」//(中)論壇を驚かした千山万水楼主人(河上肇)の「社会主義評論」//号外のさきがけ (上)明治三十八年四月十日、(中)明治三十八年十月一日、(下)明治八年十一月三十日 写真、(上)円内は愕堂、(中)円内は河上肇、(下)日刊新聞最初の号外と推定される明治八年十一月三十日付本紙にノリ付された号外、左は明治十年九月二十四日、西郷隆盛戦死の本社号外 〔2-〕14*
役員 日清・日露戦争前後の主筆 明治二四年~明治四〇年 写真、市島謙吉 明治二四年―二六年、中井喜太郎 明治二六年―三四年、松平康圀 明治三四年―三五年、石井勇 明治三五年―三六年、足立荒人 明治三六年―三九年、竹越与三郎 明治三九年―四〇年 〔2-〕15*
商品 日比谷焼打事件を生々しく報道した当時の本紙 明治三十九年九月六日付 写真 〔2-〕15*
商品 本紙に連載された自然主義文学の三代表作 明治四十一年~大正四年 写真、田山花袋作 「生」 明治四十一年四月十三日 円内は作者、島崎藤村作 「家」 明治四十三年一月一日 円内は作者、徳田秋声作 「あらくれ」 大正四年一月十二日 円内は作者 〔2-〕16*
事業所 銀座街頭に三層楼の威容を誇った新社屋 明治四十二年三月完工 写真、回廊の長さ三十三間・時計台の先頂まで高さ十六間四尺・まさに当時銀座街頭の一偉観であった。 円内は社主(外相)本野一郎 明治43年―大正6年(上)と理事石黒景文 大正2年―8年(下) 〔2-〕17*
沿革 桂内閣の議会再停会で暴徒本社を襲撃 大正二年二月十一日付 写真、大正二年二月十日桂内閣の議会再停会に激高した群衆はついに暴徒化し、桂内閣支持と目された新聞社は暴徒の襲撃を受けたが、本社もまたその災厄を被った。写真は当日の状況を物語る本紙 〔2-〕18*
商品 わが国最初の婦人欄「よみうり婦人附録」 大正三年四月創刊 写真、主筆 五来欣造、婦人部長 前田晁、編集主任 小橋三四子、水野仙子、生田花世、恩田和、望月百合子、女子雑誌 ムラサキ 明治三十八年七月創刊、月刊 とくしよのとも 明治四十五年五月創刊 〔2-〕19*
商品 関東大震災で全壊後十二日ぶりに発行された四ページの本紙 大正十二年九月十二日付 写真、大正十二年九月一日は本社新社屋の落成式当日であったが、この日の大震災で本社の諸設備は全滅的打撃を受け、社運は重大危機に直面、その立直りは他社におくれた。しかし社員の努力で九月十二日から漸く四ページ新聞を発行することができた。 〔2-〕20*
役員 大正時代の編集首脳 大正2年~13年 写真、編集長 田村全宣 大正2年―3年、主筆 金崎賢 大正6年―7年、主筆 伊達源一郎 大正7年―8年、主筆 大庭柯公 大正8年―10年、編集長 宮部敬治 大正9年―13年 〔2-〕20*
沿革 美談に芽生え感謝に実を結んだ「大読売」 昭和十四年十一月、昭和十六年十一月 写真、関東大震災以後社勢日に傾いた本社は七代目社長正力松太郎によって力強い再建のスタートを切った。正力は本社の経営に当るに際し後藤新平伯から十万円の融通を受けたが、この金は相識ることいまだ日の浅かった正力のために伯が自己の土地を抵当にしてつくってくれたものだった。しかし伯は秘して語らず、正力は伯の没後はじめて事情を聞いて報恩感謝の念やみがたく、昭和十六年十一月、故伯の生地岩手県水沢に後藤伯記念公民館を建設寄贈してその厚恩にむくいた。今日の大読売の基礎はこの二人の美しい人情によって築かれたのである。〔写真〕右上は後藤伯。左上は昭和十四年十一月新社屋落成式に際し全社員から正力社長に贈った中村不折筆の肖像画。下は岩手県水沢市の後藤伯記念公民館の全景。 〔2-〕21*
商品 日本新聞界最初の「よみうりラヂオ版」 大正十四年十一月十五日創刊 写真、本社が大正十四年十一月十五日創刊したラジオ版は読者の絶大な歓迎を受け、各社も相次いで追随、今日のラジオ欄の先駆となった。写真はその記念すべき創刊号である。 〔2-〕22*
役員 正力社長時代初期の首脳者 大正一三年~昭和四年 写真、編集局長 千葉亀雄 大正一三年―一五年、編集局長 半沢玉城 大正一四年、営業局長 矢野正世 大正一五年―昭和四年 〔2-〕22*
商品 大評判となった本社の「日曜夕刊」 大正十五年一月十一日創刊 写真、大正十四年本社は日本最初のラジオ版を創設して大成功をおさめたがついに各社の追随するところとなって本紙の特色は奪われようとした。この時本社が企画したのが「日曜夕刊」で大正十五年一月十一日付をもってその創刊号を発行した。ちょうど武林無想庵の妻文子が痴情のはてフランスの旅館でピストルで射れた事件を第一面全面をついやして報道して大評判となった。当時各社は日曜夕刊を発行していなかったので本社の試みは非常な歓迎を受け、やがて昭和六年満州事変に際して本格的な朝夕刊紙へ飛躍する一つの基礎となったのである。写真はその生々しい創刊号第一面である。 〔2-〕23*
催し 空前の盛観「日本名宝展覧会」 昭和四年三月十九日から一カ月間 写真、昭和四年三月十九日から一カ月間上野の東京府美術館で開催された日本名宝展は、門外不出の逸品二百余点に満都の人気を集め、空前の壮挙となった。写真はその開会式の盛況を報ずる本紙で、左端は令旨を朗読する閑院総裁宮殿下。 〔2-〕24*
催し 棋界の一大快挙 大正十五年九月二十七日 写真、実現不可能とされていた名人本因坊秀哉と七段雁金準一との大手合が、正力社長のあっせんによって大正十五九月二十七日その火ぶたを切り、囲碁ファンの血をわかせた。写真はその歴史的対局で、右が本因坊、左が雁金。観戦者は右から高部六段、村松梢風、河東碧梧桐。 〔2-〕24*
商品 正力社長の英断で発刊された夕刊第一号 昭和六年十一月二十六日付 写真、昭和六年九月満州事変突発するや正力社長は熟慮の結果断固として夕刊発行を決意し、ここに本紙は本格的な朝夕刊紙としてやがて大発展を遂ぐべき契機をつかんだ。この時本社はルビコンを渡ったのである。写真はその記念すべき創刊号である。 〔2-〕25*
商品 決死の三原山噴火口探検 昭和八年五月二十九日 写真、鳴動をつづける三原山は御神火を呼ばれ自殺者が続出して「死の三原山」と恐れられた。岩田社会部次長はゴンドラに乗って火口内深く降下、一千二百五十尺の地底でよう(妖)幻な地軸内の爆発状況を観察、火口降下の世界記録を作った。ついで真柄写真部長は七百尺を降下して千古の神秘境を撮影したが、学界人も多数参加し希有の試みとして大反響を呼んだ。写真は噴煙の地底に降下しつつあるゴンドラ。 〔2-〕26*
商品 海底探検に取材の新境地をひらく 昭和八年七月 写真、十九名の探検隊は七月二十二日伊豆伊東沖三カイリ、ついで真鶴沖、房州小湊沖、熱海線根府川駅下などの海底をさぐり、先人未踏の記事と写真報道に読者の絶賛を博し取材活動に新境地をひらいた。〔写真〕上は伊東沖手石島付近五十尺の海底で水中写真のシャッターを切る瞬間。写真右側の円形はせん光電球四十五万しょく光を装置した反射鏡。下は石倉、石原漁潜水士が撮影したよう(妖)美な海底のお花畑。 〔2-〕27*
商品 浅間山の大爆発をとらえる 昭和十年五月 写真、昭和十年五月、藤沢写真部次長は決死の難行をつづけること三日、ついに浅間山大噴火のせつ那の壮観をとらえることができた。 〔2-〕28*
商品 朝鮮金剛山の冬姿 昭和八年十二月 写真、真柄写真部長は昭和八年十二月、白雪とざす山道を踏みわけ、この天下の奇勝の冬姿を世人に紹介した。左方にそびえるは鬼面岩、右方にうずくまるは天柱峯。 〔2-〕28*
催し アメリカ野球王ベーブ・ルース来る 昭和九年十一月 写真、アメリカの野球王ベーブ・ルースは、昭和九年十一月二日本社の招きではじめて日本を訪問した。写真はその爆発的な入京ぶりで、右は花輪につつまれたベーブ・ルース。左は一行を迎える正力社長。中央はゲーリッグ。下は神宮球場における日米両国チームの記念撮影。 〔2-〕29*
役員 正力社長時代の首脳部 大正13年~昭和22年 写真、顧問 小野瀬不二人 大正14年―昭和13年、総務部長 庄田良 大正13年―昭和13年、常務取締役業務局長 稲葉輪一 昭和17年―20年、取締役主幹 宮崎光男 昭和17年―19年、取締役編集局長 中満義親 昭和17年―20年、主筆 山崎光次郎 昭和5年―8年、編集局長 柴田勝衛 昭和3年―16年、(本社工務局長)長崎新聞社長 武藤具三 昭和16年―20年、企画局長 小野猇雄 昭和17年―18年、大阪新聞取締役 編集局長 平野善之助 昭和17年―18年、西日本新聞副社長 佐々政徳 昭和17年-22年、樺太新聞常務取締役 編集局長 星野龍猪 昭和17年-20年、セラム新聞社長 村上正雄 昭和17年-18年 〔2-〕30*
商品 日華事変の速報戦――本社が発行した「第一夕刊」「第二夕刊」―― 昭和十二年八月十七日 写真、昭和十二年七月日華事変起るや、本社は同年八月十七日から八ページ夕刊を分割して夕刊随時二回発行を断行し、事変ニュースの速報につとめた。写真はその第一日。 〔2-〕31*
従業員 日華事変における本社特派員決死の活躍 昭和十二年十月~昭和十二年十二月 写真、上海陸戦隊大西部隊の斥候佐々木一等兵が敵弾に倒れた。それ佐々木を救えと五名の決死隊が敵前へ飛び出した。たちまち発煙筒の煙幕!本社の宮川特派員は血を浴びて決死隊の突入を撮影した。 昭和十二年十月//上海南方戦線でわが軍が敵弾下煙幕を展開してクリーク畔を突進する一瞬、二宮特派員は勇敢にもごう(壕)内から半身を乗出してこの写真を撮影した。 昭和十二年十一月//弾雨の下に鉄条網を切る藤田部隊の勇士 劉家行戦線にて(藤沢写真部次長撮影) 昭和十二年十月//無錫総攻撃=桑畑にひれ伏してジリジリと敵陣に肉薄する。本社の渡辺特派員が戦死したのもこの一戦であった。(佐々木特派員撮影) 昭和十二年十二月 〔2-〕32*
施設 満都の人気を集めた多摩川畔の二大施設 昭和十四年四月下旬、昭和十五年十一月完工 写真、(上)読売パラシュート塔 昭和十五年十一月完工 戦後は神奈川県江ノ島に移され読売平和塔として江ノ島新名所となった。(下)二子多摩川読売遊園地、満開のチューリップ 昭和十四年四月下旬 〔2-〕34*
沿革 ついに太平洋戦争に突入 昭和十六年十二月九日付夕刊 写真 〔2-〕35*
商品;合併 報知を合併「読売報知」と改題 昭和十七年八月五日 写真、写真はその改題第一号 〔2-〕35*
商品 本社が南方で発行した国策新聞 昭和十八年~昭和十九年 写真、(上)「ビルマ新聞」 昭和十八年一月一日創刊、(下)マライ語の「バリ新聞」 昭和十九年三月三日創刊 〔2-〕36*
事業所 空襲に被災・築地本願寺に仮事務所開設 昭和二十年五月二十六日 写真、被災の翌日直ちに本社が仮事務所を開設して新聞発行の本拠となった築地本願寺の全景//仮事務所大講堂において本社幹部、地方支局長会議席上訓示する正力社長//仮事務所内臨時編集局の執務ぶり 〔2-〕37*
業界;商品 空襲激化・東京五社(朝日・東京・日経・毎日・読売)の共同新聞発行 昭和二十年五月二十七日 写真 〔2-〕38*
沿革 終戦の詔書下る 昭和二十年八月十五日付本紙 写真 〔2-〕38*
催し 天皇皇后両陛下マチス展を御鑑賞 昭和二十六年四月九日 写真、昭和二十六年四月九日天皇皇后両陛下は国立博物館表慶館で開催中の本社と国立博物館共催のアンリ・マチス展にお成り、熱心に御鑑賞になった。ついで十三日には皇太子殿下も鑑賞された。〔写真〕御鑑賞中の両陛下(上)と皇太子殿下(下) 〔2-〕39*
事業所 東京本社の復旧成る 昭和二十二年十一月完成 写真、昭和二十年五月の大空襲で被災した本社社屋は、昭和二十二年十一月完成、同月十六日から全機能が移転して業務は三年ぶりで被災前の状態に復した。写真は復旧完成したその全景である。 〔2-〕40*
事業所;役員 東京本社第一別館(千代田区有楽町)読売ホール//東京本社第二別館(中央区銀座西) 昭和17年~昭和30年 写真、東京本社第一別館(千代田区有楽町)読売ホール//東京本社第二別館(中央区銀座西)//八代目社長 馬場恒吾 昭和20年―26年、専務取締役 小林光政 昭和17年―22年、常務取締役 武藤三徳 昭和23年―26年、取締役 四方田義茂 昭和21年―26年、代表取締役副社長(大阪読売新聞社取締役会長) 安田庄司 昭和26年―30年  〔2-〕41*
役員 八十年の伝統を担う東京本社の現役員 写真、代表取締役副社長・主幹 高橋雄豺、代表取締役・専務取締役(大阪読売新聞社代表取締役) 務台光雄、取締役 小島文夫、取締役 岡野敏成、取締役 前田末広、取締役 山崎重孝、取締役(大阪読売監査役) 品川主計、取締役 橋本道淳、監査役 清水与七郎、監査役 真柄秋徳 〔2-〕42*
事業所;施設 東京本社工務局印刷工場の一部 写真、超高速度輪転機で印刷された本紙ベルトによつて階上の発送部へ奔流のように送り出される。 〔2-〕43*
事業所 東京本社編集局 写真 〔2-〕44*
事業所 東京本社業務局 写真 〔2-〕44*
事業所;役員 大阪本社の全景と大阪在勤役員 写真、〔上右から〕専務取締役(読売新聞社取締役) 八反田角一郎、常務取締役(読売新聞社取締役) 栗山利男、取締役 堀口憲、〔下右から〕取締役 高津啓一、取締役 三浦薫雄、監査役 岡田達三郎 〔2-〕46*
商品 「大阪読売新聞」創刊さる 昭和二十七年十一月二十五日 写真、本社は三十年来の宿願を実現すべく昭和二十七年十一月二十五日大阪読売を創刊した。苦闘一年ののちについに朝日、毎日とともに三紙がん(雁)行の体制を関西に確立した。写真はその記念すべき創刊号(第一面)である。 〔2-〕47*
事業所 大阪本社編集局 写真 〔2-〕48*
事業所 大阪本社営業局 写真 〔2-〕48*
事業所;施設 大阪本社工務局印刷工場 写真 〔2-〕49*
施設 大阪本社前に勢ぞろいした発送トラック 写真 〔2-〕49*
催し アメリカ原子力平和利用使節団を招く 昭和三十年五月九日、十日、十三日 写真、日本における原子力平和利用のためアメリカ使節団の招待は正力社主が三年も前から考えていたことだが、原子力平和利用の立証者であるゼネラルダイナミックス社会長兼社長ホプキンス。同副社長ヴァーノン・ウェルシュ。サイクロトリンの発明でノーベル賞を受けたカリフォルニア大学放射線研究所ローレンス博士。原子力工業化の権威チェース・マンハンッタン銀行原子力部長ハフスタッド博士等四名のアメリカ民間使節団は本社の招きで昭和三五年五月日本を訪れ、原子力平和利用懇談会の財界人をはじめ鳩山首相以下の政界人、また学界人など各方面の有力者と懇談する一方、一般国民への知識普及のため日比谷公会堂で大講演会を開いたが、わが国原子力利用促進の気運は一行の来日によって俄かに高められ、日米原子力協定の締結・実験用原子炉の建設へと日本もいよいよ原子力時代へ入ることになった。 〔下段写真〕五月十三日日比谷公会堂での大講演会の実況で、開場の六時間も前からつめかけた聴衆は定員の二千六百名を超えること五百名、その上場外に取残された千人近い人々はテレビで視聴するという盛況であった。壇上は敗戦日本の貧苦と病苦を救うため原子力による産業革命・農業革命を力説する正力社主の開会のあいさつ。//羽田空港着の米使節団の一行(昭和三十年五月九日) 右からウェルシュ ホプキンス ローレンス ハフスタツド四氏と出迎えの正力社主//鳩山首相と和やかに原子力問答(昭和三十年五月十日 院内大臣室にて) 左からハフスタッド ローレンス ウェルシュ ホプキンス 一人おいて鳩山首相 正力社主 〔2-〕50*
商品 東西両本社で発行される地方版 写真、(上)東京本社発行の地方版 (下)大阪本社発行の地方版 〔2-〕52*
施設 戦後における機械化報道陣の躍進 写真、簡易移動無線局と東京本社の航空機 〔右下〕現地から送稿中のウォーキー・トーキー(簡易移動無線局) 〔左上から〕よみうり107号JA5014。よみうり105号ヘリコプター・ベル47D1型。よみうり101号セスナ195型。よみうり102号パイパー・ペーサー135型。国産機よみうりタチヒ号 〔2-〕53*
商品 本社の定期刊行物 写真、読売年鑑、読売スポーツ年鑑、読売報道写真集、読売グラフ、読売グラフ別冊、読売新生活、読売写真ニュース、週刊GIANTS、週刊読売、科学読売、読売スポーツ 〔2-〕54*
業界;売上 明治10年より同22年における東京各紙の発売部数とその順位ならびに売上金高 明治10年~明治22年 表、新聞紙名、部数、金額、順位、東京府統計表による 〔1-〕735
業界;売上 明治14年より同26年における大阪各紙の発売部数とその順位 明治14年~明治26年 表、新聞紙名、部数、順位、大阪府統計表(書)による 〔1-〕738
業界;売上 明治27年より同31年における全国各紙の発行部数とその順位 明治27年~明治31年 表、新聞紙名、部数、順位、内閣省統計報告による 〔1-〕741
組織 読売新聞社機構一覧表 図、(東京)、(大阪) 〔1-〕巻末
役員 役員・幹部 表、(東京)社主 正力松太郎、代表取締役副社長・主幹 新聞監査委員会委員長 高橋雄豺、代表取締役 専務取締役 業務局長 務台光雄、取締役 編集局長 小島文夫、取締役 審議室長 社史編纂室長 岡野敏成、取締役 工務局長 前田末広、取締役 総務局長 山岡重孝、取締役 八反田角一郎、取締役 栗山利男、取締役 品川主計、[以下略] 〔1-〕巻末
参考資料 [読売カワラ(瓦)版] 写真、大坂卯年図(大坂夏の陣)、本社のチリンチリン箱 〔1-〕裏見返
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