(社)日本綿花協会『綿花百年. 上巻』(1969.06)

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業界 西洋古代の紡機 写真、(1)古代ギリシャ婦人が巻貝型のスピンドルと糸巻棒を使つて亜麻を紡いでいる図。懸垂法。(2)前史時代のペルーの壺。手撚り紡糸をあらわしている。(2A)アステカ人の母親が糸紡ぎの下手な娘をぶつている図。(3)前史時代のペルーの紡糸方法。(4)ヒンズー人の原始的な糸車。(5)植民地の婦人が東洋風の糸車を模した紡機と梳綿装置や篠綿用のバスケツトを使つて綿を紡いでいる図。(6)中国人がインド風の糸車を使つて綿を紡いでいる図。(7)1779年英国ボルトンでクロムプトンがミユール紡機を発明した家。//(出所)M.D.C. Crawford: The Heritage of Cotton, The Fibre of Two Worlds and Many Ages, 1924. 〔巻頭〕9
業界 近代紡機の原型 1452~1799年 写真、(1)レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519)が発明した紡機。ヨーロッパで最初の考案。(2)1738年ドイツのルイス・ポールが発明した最初の梳綿機。(3)1733年英国ランカシヤのブリイのジョン・ケイが発明したとびおさ。織機の生産を4倍にしたという。(4)1799年英国のボルトンでサムエル・クロムプトンが発明したミユール紡機。(5)とびおさが発明される以前の英国の織機。(6)1764年頃米国のジエームス・ハーグリーブスが発明したジエニー紡機。(7)1768年リチヤード・アークライトが発明した水力紡機。//(出所)M.D.C. Crawford: The Heritage of Cotton, The Fibre of Two Worlds and Many Ages, 1924. 〔巻頭〕10
業界 天保年間(1840年代)の日本の綿作 1840年代 写真、(出所)大蔵永常「綿圃要務」(天保四年刊)(1)蒔種(作付用種子)にする綿を繰つて俵に入れ貯える図。(2)麦の刈株を起して地慣らしして綿を播く図。(3)上 綿の根に手斧鍬にて溝を引き溝へ水肥を入れる図。下 小生(こおひ)の綿に底穴桶をもつて水をかける図。(4)摘みたる綿を家に持ちかえり目方をかけている図。(5)大和、河内、和泉の三カ国の田家にては女にかぎらず男子もみな糸を紡ぐなり。(6)大阪綿問屋にて諸国へ綿荷を積出す図。 〔巻頭〕11
業界 明治13年 写真、在英時代の山辺丈夫氏。近代紡績業の伝来者の一人。//明治13年開催の共進会で市岡新田の藤田惣右衛門がその産綿に対して受けた賞状。同氏は東洋紡績(株)常務取締役藤田武雄氏の祖父に当る。 〔巻頭〕17
業界 明治時代の紡績工場 明治18年頃~明治31年頃 写真、(上)明治18年頃の三重紡績所。政府輸入紡機の民間払下げによつて設立されたいわゆる「十基紡績」の一つ。三重県三重郡川島村に建設され、2000錘1基を備えた。//(下)明治31年頃の尼崎紡績本社工場。明治24年第1工場(写真右)が開業している。写真左が第3工場。第2工場はその後方で見えない。左の橋は辰己大橋。 〔巻頭〕18
業界 明治中期の大阪紡績(株)三軒屋工場 明治中期 写真、(上)外観。火力発電による動力、電灯を備えた当時の最大最新の紡績工場。//(下)内部。明治19年には3万1320錘の紡機を備えていた。 〔巻頭〕19
業界 明治期の綿花商社(内外綿) 明治20年創立~明治43年 写真、(上)明治20年創立の有限責任内外綿会社の本社。大阪市北区源蔵町27に所在した。(下)明治43年新築された内外綿株式会社の本社。大阪市北区堂島北町41(毎日新聞大阪本社向側、現XYZボーリング・センターの敷地)に所在した。いずれも当時の綿花商社の規模を偲ばせるものがある。 〔巻頭〕20
業界 昭和前期(1930年頃)のインドの繰上工場 1930年頃 写真、(上)内部。ローラー・ジンの一台毎に労務者がついている。その後30数年を経た今日でもこのような情景が見られる。//(下)繰綿工場の構内。実綿の集積場に農民が荷卸ししているところ。 〔巻頭〕21
業界 昭和前期(1930年頃)のインドの奥地 1930年頃 写真、(上)ペシヤワールでの綿花輸送の情景。//(下)ジヤルガオン駐在の日本綿花商の社宅。中央は江商の渋谷友三郎氏。 〔巻頭〕22
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