| 事業所
| 日本製靴株式会社本社事務所 |
|
写真 |
〔8〕 |
| 設備
| 「靴業発祥の地」の碑。明治3年3月15日 西村勝三が伊勢勝造靴場を開設したのは、現在、築地電報電話局のある場所であった。 |
昭和60年(1985年)3月建碑 |
写真 |
p19 |
| 経営者
| 日本の靴産業の始祖・西村勝三(1836~1907)。日本製靴創立の中心人物の1人。 |
|
写真 |
p20 |
| 事業所
| 靴産業の創業と縁故の深い築地・銀座界隈。明治初期(廃藩置県前)明治~3年頃。伊勢勝造靴場創業の地。昭和後期。 |
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地図 |
p20 |
| 資料
| 日本製靴で最初の総会議事録 |
[明治35年(1902年)1月21日開催] |
議事録表紙の写真 |
〔22〕 |
| 役員;経営者
| 日本製靴創立当時からの実力者・大倉喜八郎。(1837~1928) |
|
写真 |
p23 |
| 資料;役員
| 総会議事録のその内容の一部 |
[明治37年(1904年)4月開催] |
議事録はじめの方の写真。役員の名前あり |
p23 |
| 事業所
| 靴産業発祥の地 当時の東京市京橋区入船町5丁目1番地 |
[明治40年(1907年)1月調] |
東京市京橋区全図 |
p24 |
| 服装;世相
| 明治の紳士(?)風俗。山高帽に羽織・袴・靴ばきといういでたちも珍しくなかった。 |
[明治時代初期] |
山高帽に和服・靴ばきの男性の絵 |
p29 |
| 役員;経営者
| 陸軍兵部大輔 大村益次郎(1824~69) |
|
絵の写真 |
p29 |
| 製品;商品
| 明治時代の陸軍軍靴の変遷 |
明治初年(1868年)~明治19年(1886年) |
写真(明治初年将校用短靴、明治8年半長靴、明治13年工兵靴、旧式の短靴、明治19年下士卒用厩靴) |
〔30〕 |
| 靴;風俗
| 「調練歩行の図」よし藤画 慶応3年幕府軍の歩兵によるフランス式訓練の情景。指揮官や軍楽隊は靴ばきだが、一般兵はほとんど草履ばきであった。(浅井収氏蔵) |
慶応3年(1867年) |
絵の写真 |
p31 |
| 設備
| 欧米の手製靴時代の工具 |
|
図(革切りナイフ、砥石、三角やすり、フレンチ・ハンマー、ハンマー、ニッパー、釘抜き、面取り具、金敷、指貫、木やすり、釘抜き、掬い錐、錐の柄、やすり、コバごて、コクリ棒、釣込みハンマー、大ばさみ) |
p33 |
| 広告宣伝
| 明治3年12月8日付「横浜毎日新聞」に西村勝三が出した求人広告 |
明治3年(1870年)12月8日 |
写真 |
p33 |
| 広告宣伝
| 日露戦争当時、朝日新聞に掲出された靴の広告 |
[明治37年(1904年)] |
写真 |
p34 |
| 事業所
| 明治15年、銀座尾張町2丁目15番地に開店した「レマルシャン靴店」。 |
明治15年(1882年) |
絵 |
p35 |
| 技術;経営者
| オランダ出身の靴師の先覚者 エフ・ジェ・レマルシャン |
|
写真 |
p35 |
| 商品;広告宣伝
| 伊勢勝造靴場の靴のカタログ。西村勝三の出身地である千葉県佐倉市で最近発見された日本で最初の靴のカタログ。 |
|
写真 |
p36 |
| 販売
| 桜組銀座店の製靴注文帳。(明治10年ごろ) |
明治10年(1877年)頃 |
写真 |
p36 |
| 靴;風俗
| 明治6年、米欧使節団一行、ワシントンで写す。皆、靴を履いている。正使の岩倉は、和服の正装で、これも靴を履いている。左から木戸孝充、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通。 |
明治6年(1873年) |
写真 |
p37 |
| 靴;生産
| 『明治七年府県物産表』における靴の算出額 |
明治7年(1874年) |
表、府県名{三府(東京府、京都府、大阪府)、近畿(兵庫県、飾磨県、豊岡県、堺県、和歌山県、奈良県、三重県)、関東・東北(千葉県、足柄県、山形県)、中部(新潟県、石川県、岐阜県、愛知県、静岡県)、中国(岡山県、小田県)、その他、総計}、靴と見られる品名、その数量、その金額、1足当り単価、履物各種及び鼻緒類[の]金額、備考 |
p37 |
| 靴;風俗
| 画家ワーグマンは、神戸で靴を履く日本人を観察してスケッチを明治13年11月発行の英国の大衆週刊誌に掲載した。「結果としてウオノ目がはやることは確実」と皮肉な注がつけられている。 |
明治13年(1880年)11月 |
絵 |
p38 |
| 事業所
| 「依田西村組造靴場本店」。『東京名家繁昌図録』に、その石版画が掲載された。その後、明治17年さらに「桜組」と改称した。 |
明治17年(1884年)頃 |
石版画の写真 |
p38 |
| 経営者;役員
| 大沢省三 のちに日本製靴の初代専務取締役となった。 |
[明治10年(1877年)頃?] |
写真 |
p39 |
| 経営者
| 若き日の渋沢栄一 |
[明治12年(1879年)頃?] |
写真 |
p40 |
| 投資
| 元佐倉藩主・堀田正倫 |
[明治12年(1879年)頃?] |
写真 |
p40 |
| 事業所
| 明治中期における桜組の全景。(築地) |
[明治中期(1889年)頃] |
絵の写真 |
p41 |
| 事業所
| 隅田川に面した向島に設けられた桜組の製革場。 |
[明治中期(1889年)頃] |
絵の写真 |
p41 |
| 事業所
| 「桜組」として西村勝三の製靴・製革事業は立て直しに成功した。その本店は、築地1丁目 ほぼ現在の中央区役所の地にあった。また、銀座3丁目には出張所を設け、往来する人々の目を引いた。 |
[明治14年(1881年)頃?] |
絵2点(東京築地壱丁目 櫻組造靴場本店、東京銀座三丁目 櫻組出張所) |
〔42〕 |
| 靴;風俗
| ワーグマン描く、西南戦争に向かう官軍の警ら隊。主として関東以北の旧士族が多く応募したが、心なしか軍靴の足音も堂々と聞こえたとぃう。 |
|
絵の写真 |
p44 |
| 商標
| 「桜組」の商標。サクラの花と葉に英文をあしらい、なかなか斬新なデザインである。 |
[明治17年(1884年)?] |
図 |
p44 |
| 経営
| 東京府統計表による明治前期における製靴工場の概要(明治9~14年) |
明治9年(1876年)~明治14年(1881年) |
地名、社名。社長人名、表(年次、役員数、男工数、女工数、建坪、資本金、給料、製作物価、所有物件ノ価) |
p44 |
| 経営者
| 弾 直樹 旧幕以来の伝統を活かしつつ、製革・製靴事業に洋式手法を取り入れることに意欲的だった。 |
[明治2年(1869年)頃] |
写真 |
p45 |
| 資料
| 革職教師チアレス・ヘンニンゲルの雇い入れ文書。 |
[明治4年(1871年)2月] |
写真 |
p46 |
| 事業所
| 「弾北岡組」の運営は実際上は、製靴場と製革場とに分かれていたらしい。浅草・亀岡町の靴製造所は、主として弾直樹の手で、また千住に近い地方町橋場の革製造所は、三井組の北岡文兵衛の手で運営されていたものとみられている。 |
[明治5年(1872年)?] |
絵の写真写真 |
p46 |
| 商品;風俗
| 明治期の靴のいろいろ(平出鏗二郎著『東京風俗史』より) |
[明治期中頃(1890年代)?] |
各種靴の絵の写真 |
p47 |
| 風俗
| 明治初期の官営鉄道の蒸気機関車。鉄道員の制服も文明開化のにおいがする。 |
明治初期(1870年頃) |
写真 |
p48 |
| 業界
| 札幌の老舗「イワイ靴店」は、もともと伊勢勝造靴場で製靴業を学んだ初代・岩井信六が、明治11年北海道に渡って始めたもの。北海道物産共進会で何度か入選している(イワイ靴店提供) |
[明治10年代(1880年代)] |
店の絵と賞状の写真 |
p48 |
| 事業所
| 東京府統計表による明治前期における製靴工場の概要(明治9~14年) |
明治9年(1876年)~明治14年(1881年) |
地名、社名。社長人名、表(年次、役員数、男工数、女工数、建坪、資本金、給料、製作物価、所有物件ノ価) |
p48 |
| 生産
| 文明開化(明治20年ごろまで)の靴の製造実績 |
明治9年(1876年)~明治20年(1887年) |
表、年次、区分、東京府実績(数量、金額、単価)、個別工場実績 金額(依田西村組 桜組、弾北岡組)、参考事項 |
p48 |
| 沿革
| 日本製靴(株)の創立系統図(桜組系、東京製皮系、大蔵組系、福島合名系) |
慶応(1860年代後半)~1910年(明治43年) |
4つの系統から日本製靴(株)・日本皮革(株)に至る沿革図。年表を添付 |
〔折込〕49 |
| 通貨
| 日銀券発行前の政府紙幣10円札 |
[明治10年代(1880年代)] |
写真 |
p59 |
| 金融機関
| 明治15年、日本銀行の開業当時の建物は永代橋際にあった。なお、のちに現在地の日本橋・本石町へ移転 |
明治15年(1882年) |
写真 |
p59 |
| 製造工程
| 明治の錦絵「靴製造場の図」静斎年一・画 |
[明治12年(1879年)頃] |
絵の写真 |
〔60〕 |
| 資料
| 『東京流行細見記』の中の靴師たち。(明治18年刊、告解図書館蔵) |
明治18年(1885年)刊 |
表紙の写真と靴屋皮造の番付 |
p61 |
| 靴;風俗
| 楊州周延「貴顕舞踏(きけんぶとう)の略図」。女性の夜会服は、襟元が広くあいたイブニング・ドレス調が普通だが、図のように襟元を包むのは、和服の習慣から肌をあらわにすることを慎んだからであろう(樋口弘氏蔵) |
[明治20年(1887年)頃?] |
絵の写真 |
p62 |
| 生産;業界
| 明治20年代東京各工場の靴の製造実績 |
明治20年(1887年)~明治31年(1898年) |
表、年次、[製造実績]{製出代価、製出数量}、工場名(桜組、弾北岡組改メ東京製皮、大蔵組、大塚商店)、備考その他参考事項 |
p62 |
| 風俗
| 明治22年、帝国憲法発布の式典のあと、青山練兵場での官兵式に向かう明治天皇の馬車行列。 |
明治22年(1889年) |
絵の写真 |
p63 |
| 風俗
| 鹿鳴館 明治16年に完成した欧化時代の体表的な建築。現在に千代田区内幸町にあった。 |
明治16年(1883年) |
写真 |
p63 |
| 風俗
| フランス人画家ビゴーの描いた鉄道列車の車内風景。靴をぬいで座席にすわる旦那衆。 |
[明治時代] |
絵の写真 |
p64 |
| 事業所
| 銀座・鎗屋町1番地の大蔵土木本社。日本製靴の創立総会はこの建物の一室で行われたものであろう。 |
[明治26年(1893年)] |
絵 |
p65 |
| 資料;経営者
| 明治22年ごろのパスポート。京橋の老舗「イトー靴店」の初代伊東金之助も製靴業修得のため渡米した1人だった(イトー靴店提供) |
明治22年(1889年) |
明治22年(1889年)9月18日付けパスポートの写真 |
p66 |
| 事業所
| 品川白煉瓦製造もまた、西村勝三が成功した事業のひとつであった |
[明治8年(1875年)創業] |
品川白煉瓦製造の事業所の写真 |
p66 |
| 軍隊;政治家
| 明治初期の軍人とドイツ商人。この写真の所有者ヘルムのメモによると、前列左から川村純義、勝安芳[(勝海舟)]、ヘルム、西郷従道とのこと。 |
明治初期(1870年頃) |
写真 |
p67 |
| 服装;軍隊
| 明治の軍装 |
明治時代 |
写真 |
〔68〕 |
| 服装;設備
| 下士兵卒の個人装備とその配置。『軍隊内務書』より。 |
[明治20年代(1890年代初期)] |
絵の写真 |
p69 |
| 製品;商品
| 明治時代の陸軍軍靴の変遷 |
明治時代 |
軍靴(三八式編上靴、明治19年騎兵長靴、三八式編上靴、三八式にして踵中鉄に変りし時丸鉄は丈にして亜鉛鍍のもの、四五式編上靴)の写真 |
〔70〕 |
| 軍隊;事業所
| 陸軍省の新庁舎(明治11年9月、永田町に完成) |
明治11年(1878年)9月 |
写真 |
p71 |
| 軍隊
| 陸軍兵力変遷概見表(地上部隊) その1 |
明治4年(1871年)~明治37年(1904年) |
表、年次、人員数、備考 |
p71 |
| 軍隊
| 『八甲田山・死の彷徨』は、新田次郎の小説と映画化で再び有名となったが、日露戦争直前の当時もショッキングな出来事だった。 |
|
写真 |
p75 |
| 経営者;役員
| 若き日の西村勝三[(伊勢勝造靴場の創始者)] |
[明治10年(1877年)頃?] |
写真? |
p75 |
| 設備
| 明治時代の靴製造機械 HEEL BREASTING MC 革踵の腮(あご)を製断する機械。ALLIANZ 靴の表紙を縫い付ける機械。HEEL SCOURING MC 踵面をサンドペーパーで平滑にする機械。SINGER MC 八方縫いミシン。足踏み縫い、手動縫いの供用のもので、送り装置が自在に方向を変えられるもの。SOLE LEVELLING MC アリアンズで表底を縫い付けた後、縫い糸と底面を兵担にするためにロールをかける機械。 |
明治時代[1800年代後半] |
写真 |
〔76〕 |
| 経営者
| 若き日の大倉喜八郎 |
明治26年(1893年)頃 |
写真 |
p77 |
| 事業所
| 大倉組皮革製造所(大阪)。『明治工業史』によると、東京の桜組と共に「東西における双璧」とまでにうたわれた製靴・製革の有力工場であった。(国会図書館所蔵『日本商工大家集』より |
[明治26年(1893年)] |
写真 |
p77 |
| 軍隊;戦争
| 官軍と彰義隊 |
[明治元年(1868年)] |
絵の写真 |
p78 |
| 製品;価格
| 福島合名の軍納品単価 |
明治36年(1903年) |
表、サイズ(七文、七文半、八文、八文半、九文、九文半、十文、十文半、十一文、十一文半)、短靴、編上靴、防寒兼用) |
p78 |
| 電力
| 東京電灯会社の発起人の1人でもある大倉喜八郎は、明治15年、銀座の大倉組本社前に「電気灯(アーク灯)」2,000燭光(しょっこう)を設置し、衆目を集めた。 |
明治15年(1882年) |
銀座の絵の写真 |
p79 |
| 経営者
| 若き日の渋沢栄一。 |
|
写真 |
p79 |
| 資料
| 日本製靴の本社を京橋区鎗屋町から東京府南足立郡千住町へ移転する決議を報告した総会議事録 |
[明治36年(1903年)4月] |
総会議事録の写真 |
p80 |
| 経営者
| 賀田金三郎。もと大倉組の社員であったが、独立して台湾にあって、駅伝事業などで活躍し、弾直樹の残した東京製皮の事業をも継続した。日本製靴の成立にも、早くから参画していた模様である。 |
[明治33年(1900年)頃?] |
写真 |
p81 |
| 株式
| 発起人ほか[日本製靴]創業時株主の氏名、株数、住所 |
[明治34年(1901年)] |
表、創業期株主氏名(桜組系、大倉組系、東京製皮系、福島合名系)、持株数、株主氏名、備考 |
p81 |
| 経営;株式
| 創業時株主等の総会出席表 |
明治35年(1902年)~明治37年(1904年) |
表、開催日{明治35年(1-21 創業記念、4-21 第一回、5-5 臨時、10-27第二回)、明治36年(1-26 臨時、2-13 臨時、4-25 第三回、10-28 第四回)、明治37年(1-25 臨時、4-25 第五回、10-10臨時)、株主氏名、持株数} *総会出席は、出・・・本人出席、○・・・委任状代理出席、×・・・欠席 |
p81 |
| 風俗
| エビ茶の袴に靴履で、自転車を乗り回す明治の女子学生の新スタイルは、小栗風葉作『魔風恋風』の新聞小説で、一段と有名になった。 |
明治時代 |
写真 |
p82 |
| 資料
| 東京靴工倶楽部の『製靴図集』は、明治32年刊行。久しく靴工の実務的教科書として愛用された。(国会図書館所蔵) |
明治32年(1899年)刊行 |
表紙の写真 |
p82 |
| 販売
| 日本製靴の初期の状況 注文受高表 |
明治36年(1903年)6月~明治37年(1904年)3月 |
表、期間{明治36年6月~同年9月(員数、金額)、明治36年10月~37年3月(員数、金額)}、皮革属品工科特注文高(短靴、要塞砲兵短靴、半長靴、工兵靴、長靴、編上靴、計)、属品工科特注文高(短靴、工兵靴、長靴、編上靴、計) |
p82 |
| 生産
| 日本製靴の初期の状況 靴製品製造高調べ |
明治36年(1903年)6月~明治37年(1904年)3月 |
表、期間{明治36年6月~同年9月(数量、金額)、明治36年10月~37年3月(数量、金額)}、[製品別](短靴、要塞短靴、工兵靴、半長靴、長靴、編上靴、計) |
p82 |
| 売上
| 日本製靴の初期の状況 靴製品売上高調べ |
明治36年(1903年)6月~明治37年(1904年)3月 |
表、期間{明治36年6月~同年9月(数量、金額)、明治36年10月~37年3月(数量、金額)}、[製品別](短靴、要塞短靴、工兵靴、半長靴、長靴、編上靴、靴函代運搬費等差引、計) |
p82 |
| 生産
| 日本製靴の初期の状況 原料仕入高調べ |
明治36年(1903年)6月~明治37年(1904年)3月 |
表、期間{明治36年6月~同年9月(数量、金額)、明治36年10月~37年3月(数量、金額)}、[原料別]{皮革(薄牛革、厚牛革、雑種革)、材料(鋲釘、糸、尾錠鳩目靴底鉄、真田靴紐類、蝋湖油其他雑品)、計} |
p83 |
| 生産
| 日本製靴の初期の状況 原料使用高調べ |
明治36年(1903年)6月~明治37年(1904年)3月 |
表、期間{明治36年6月~同年9月(数量、金額)、明治36年10月~37年3月(数量、金額)}、[原料別]{皮革(薄牛革、厚牛革、雑種革)、材料(鋲釘、糸、尾錠鳩目靴底鉄、真田靴紐類、蝋湖油其他雑品)、計} |
p83 |
| 靴;風俗
| 旅順口陥落を前に陸軍の乃木希典将軍を訪れた東郷平八郎連合艦隊司令長官。みんな長靴を履いていることが、注目される。 |
[明治38年(1905年)] |
写真 |
p83 |
| 売上
| 陸軍第8師団司令部の発注に対し、桜組(西村勝三社長)から出された請け書 |
明治37年(1904年)1月 |
請け書の写真 |
p84 |
| 風俗
| 日露戦争を反映した新しい髪型の名は「203高地まげ」。 |
[明治38年(1905年)頃?] |
写真 |
p85 |
| 鉄道;国有化
| 鉄道の国有化(明治39年)は、日本の鉄道製造技術を飛躍的に進歩させた。明治末年には、国産の蒸気機関車を中国の山東鉄道に輸出するまでになっている。 |
明治39年(1906年) |
写真 |
p85 |
| 事業所
| 空から見た日本製靴・日本皮革の本社工場一帯。(大正初年頃) |
大正初年(1912年)頃 |
写真 |
〔86〕 |
| 施設
| 銅像堀公園由来 |
明治39年(1906年)12月建立 |
銅像の写真と由来の文章 |
p87 |
| 商品;広告宣伝
| 明治中頃の桜組の靴カタログ |
明治中頃(1890年頃) |
23種の靴の図と欄外に価格 |
p88 |
| 経営者
| 高橋誠治 |
[明治42年(1909年)頃?] |
写真と高橋誠治に関する説明 |
p90 |
| 貿易;生産
| 靴底革の輸入状況とその相手地域 19世紀における靴底革の輸入状況と相手地域 |
明治16年(1883年)~明治33年(1900年) |
表、年次、総計(数量、金額)、アメリカ合衆国(金額、構成比)、英領インド(金額)、その他諸国(金額)、備考 |
p90 |
| 貿易
| 靴底革の輸入状況とその相手地域 20世紀初期における靴底革の輸入状況と相手地域 |
明治34年(1901年)~大正10年(1921年) |
表、年次、総計(数量、金額)、アメリカ合衆国(金額、構成比)、豪州(金額)、その他諸国(金額)、備考 |
p90 |
| 団体;催し
| 「日本靴工同盟会」の創立10周年を記念して、役員たち多数が日比谷公園に参集する。 |
[明治42年(1909年)] |
写真 |
p91 |
| 靴;貿易
| 明治期後半・外国貿易年表に見る靴の輸出入の推移 |
明治26年(1893年)頃~明治45年(1912年) |
表、年次、輸出 靴(数量、金額、単価)、輸入 長靴及短靴(数量、金額、単価)、輸出入超 |
p91 |
| 災害
| 明治43年の大洪水は、東京の下町一帯に大きな被害をもたらしたが、北千住駅前の出水を記録した当時のニュース絵葉書が、最近発見された。(鈴木保氏蔵) |
明治43年(1910年) |
写真 |
p92 |
| 災害
| 当時、出水を知らせるため、日本製靴の町田豊千代取締役から八十島親徳氏にあてた電報 |
明治43年(1910年) |
写真 |
p92 |
| 戦争;映画
| 第一次大戦を描いたトーキー初期の名作「ビッグパレード」での出征の場面。米国の巨匠キング・ビダーがニューマニズムの立場から戦争を描いたため」、戦前の日本では帆船的との理由で大幅にカットされたという。 |
[大正14年(1925年)公開] |
スチール写真 |
p93 |
| 貿易
| [第一次]大戦勃発後まもなく、帝政ロシアから日本に予想外に大量の軍靴や革具の注文がもたらされ、業界は総動員で受注をこなすべく沸き立った。ロシア陸軍からの調達官が、日本製靴や日本皮革に派遣されて、製品の収納や検査にあたった。 |
[大正3年(1914年)頃] |
写真 |
〔94〕 |
| 貿易
| 欧州大戦中の露領アジア向け靴の輸出実績 |
大正4年(1915年)~大正7年(1918年) |
表、年次、[輸出実績]、数量 足、金額、単位 |
p95 |
| 貿易
| 欧州大戦前後の靴輸出額の主要地域別実績 |
大正1年(1912年)~大正15年(1926年) |
表、年次、総計 輸出金額、内訳輸出先別(露領アジア、同・構成比、中華民国、関東州、その他)、備考 |
p96 |
| 生産;貿易
| 欧州大戦後の靴の生産と輸出の比較 |
明治42年(1909年)、大正3年(1914年)~大正15年(1926年) |
表、年次、数量の比較(生産A、輸出B、 B/A)、金額の比較(生産A、輸出B、B/A) |
p96 |
| 事業所
| そのころの千住風景。現在の足立区南千住7丁目あたりに、明治20年ごろ軍用被服地をつくる羅紗工場が設立された。 |
明治20年(1887年)頃 |
絵 |
p97 |
| 生産
| 靴の寸法の測り方を図解したもの |
明治20年(1887年)頃? |
図と説明文 |
p97 |
| 生産
| 日本製靴・製甲工場での作業風景。 |
明治末年(1912年)~大正初期 |
写真 |
〔98〕 |
| 世相
| 大正中期の千住大橋。その上を人や荷馬車が行きかい、その下を舟が人や荷を運ぶ。それに近い荒川堤も庶民の遊楽の地として、行楽日には人出で賑わった。 |
大正時代(1920年前後) |
写真 |
p100 |
| 通貨;世相
| 帝政ロシアの500ルーブル紙幣で、円内の人像は、ピョートル大帝といわれる。革命後、その価値は暴落して紙くず同然となり、さまざまな悲喜劇を生んだことでも有名である。 |
1800年代? |
500ルーブル紙幣の写真 |
p101 |
| 政治
| 広場に集まって革命演説を聞くロシア民衆 |
20世紀初頭 |
写真 |
p101 |
| 役員;従業員
| 日本製靴の千住工場玄関前にて。 |
大正12年(1923年)ごろ |
写真(写っている人物名あり) |
p102 |
| 広告宣伝
| 大正末年ごろの市電(東京市営電車)が発行した路線図入り乗換え切符の裏面に印刷された靴店の広告 |
大正末年(1926年)頃 |
切符両面の写真 |
p103 |
| 世相
| ロシアの女性と日本の兵士たち。シベリア出兵にもこんな平和な一幕もあった。 |
[大正9年(1920年)頃] |
写真 |
p107 |
| 米;世相
| 大正7年夏、米騒動が全国に広がり、巻頭近県の町役場にも町や村の人たちが押しかけた。 |
大正7年(1918年)夏 |
写真 |
p107 |
| 経営政策
| 大沢亨専務取締役の所信表明をコピーして、写真に配ったもの。末尾に花押が捺してある。 |
[大正12年(1923年)4月] |
写真 |
〔108〕 |
| 経営者;役員
| 大沢亨専務取締役 |
[大正12年(1923年)4月就任] |
写真 |
p109 |
| 災害
| 関東大震災でポッキリ折れた“浅草十二階”の無惨な姿。 |
[大正12年(1923年)9月1日] |
写真 |
p110 |
| 災害;統計
| 関東大震災による国富被害(東京市編「震災に因る日本の損失」(大正14年刊))から作成 |
[大正12年(1923年)9月] |
表、地域別(東京府、内東京市、神奈川県、千葉県、その他、合計)、被害(建物、家財什器、工場、商品 在庫品を含む、電気事業、上下水道、道路、橋梁、堤防、河港、船舶、合計) |
p110 |
| 災害
| [関東大]震災では、千住町付近の被害も大きかった。(『足立区史』より) |
[大正12年(1923年)9月] |
写真 |
p111 |
| 災害;統計
| [関東大]震災のニュースは、世界各地に報道されて各国から大量の見舞い品が、贈られてきた。 |
[大正12年(1923年)9月] |
写真 |
p111 |
| 設備
| グッドイヤー式製靴機械(20世紀初頭)GOOD YEAR WELT SEWING M/C グッドイヤー式すくい縫い機、GOOD YEAR SOLE SEWING M/C グッドイヤー式出し縫い機 『THE MODERN BOOT AND SHOE MAKER』より |
20世紀初頭 |
写真 |
p112 |
| 災害
| [関東大]震災の被害から復興する東京。銀座大通リから月島、深川方面を望む。日比谷公園のバラック街で、「靴」の店は品不足のため繁盛した。 |
[大正12年(1923年)9月] |
写真 |
p113 |
| 業界;設備
| グッドイヤー式製靴機械の設備会社 「靴産業百年史」による。 |
大正3年(1914年)1月~大正13年(1924年)10月 |
表、設備年月、会社名、代表者、所在地 |
p113 |
| 国際交流
| 大正14年6月17日、日本製靴千住工場を訪れたボーエンとチャートランドの2人を囲んで。 |
大正14年(1925年)6月 |
写真 |
p114 |
| 事業所;電力
| 千住の象徴ともいうべき東電の4本煙突。敗戦後、映画『煙突の見える場所』の舞台となって話題を呼んだ。 |
|
写真 |
p114 |
| 財務・業績
| 第44回・第45回(大正12年度上半期・下半期)営業報告書 |
大正12年度(1923年度) |
営業報告書表紙の写真 |
p115 |
| 役員
| 伊藤琢磨 取締役会長 |
大正6年(1917年)ごろ |
写真 |
p115 |
| 建築
| 昭和2年、完成したばかりの千住大橋。 |
昭和2年(1927年) |
写真 |
p116 |
| 世相
| 山脇高女(山脇学園の前身)では大正8年、校長・山脇房子のデザインで制服をはじめて洋服に。 |
大正8年(1919年) |
写真 |
p116 |
| 博物館
| 「リン ヒストリカル ソサイエティ」博物館。昭和初期、アメリカの製靴学校に学んだ社員がいた。 |
昭和初期(1920年代後半) |
博物館看板の写真 |
p117 |
| 建築
| 昭和初頭、帝都復興の象徴でもあった東京ステーションの威容。 |
昭和初頭(1927年頃) |
東京駅[丸の内側建物]の写真 |
p117 |
| 役員
| 取締役会長 伊藤琢磨 |
昭和13年(1938年)ごろ |
写真 |
p118 |
| 世相
| 昭和初頭、隅田川の千住渡船場。 |
昭和初頭(1927年頃) |
写真 |
p118 |
| 従業員
| 明治31年、英国ロンドンで若き同窓生集う。伊藤琢磨、八代則彦、井上準之助、武内金平の諸氏 |
明治31年(1898年) |
写真 |
p119 |
| 経済
| 昭和2年春に始まった金融恐慌のため日本銀行の玄関から、次々と大量の通貨が運び出された。また、急場に間に合わせるため少量ながら裏白の二百円札も発行された。 |
昭和2年(1927年) |
日本銀行玄関と二百円札の写真 |
p120 |
| 販売;売上
| 昭和4~5年販売実績比較表 |
昭和4年度(1929年度)~昭和5年度(1930年度) |
表、年度、増減、増減率、販売所別{本店(数量、金額)、銀座(数量、金額)、大阪(数量、金額)、合計(数量、金額)}、月別{10月(数量、金額)、11月(数量、金額)、12月(数量、金額)、1月(数量、金額)、2月(数量、金額)、3月(数量、金額)} |
p120 |
| 経済
| 昭和4年(1929)の秋、ニューヨークのウォール街から始まった世界恐慌は、あっという間に全世界を不況の渦に巻き込んだ。 |
昭和4年(1929年) |
[ニューヨーク証券取引所の]写真 |
p121 |
| 人事;資料
| 大正から昭和にかけての辞令書の一部。 |
[大正14年(1925年)~昭和10年(1935年)] |
「辞令書」の写真 |
p121 |
| 業界;賃金
| 大正11年、東京靴同業組合は、メートル尺2,000本を組合員に配布した。 |
大正11年(1922年) |
写真 |
p121 |
| 催し;役員
| 伊藤琢磨翁ブロンズ像の除幕式に三代の集い。初代琢磨、2代勇二、3代伸一(現ニッピ社長、日本製靴取締役)。昭和14年帝国ホテルにて。 |
昭和14年(1939年) |
写真 |
p122 |
| 建築
| 東京赤坂葵町にあった大倉高等商業学校。(東京経済大学の前身) |
[昭和10年代(1920年代前半)] |
写真 |
p122 |
| 販売;事業所
| アメリカ式ショーウインドウもモダンな東京・銀座のワシントン靴店(昭和8年創業時)。 |
昭和8年(1933年) |
写真 |
p123 |
| 世相;事業所
| オリムピックや森永も懐かしい銀座通り。ワシントン靴店は創業時より間口が広くなった。 |
昭和14年(1939年) |
写真 |
p123 |
| 広告宣伝;カタログ
| 昭和10年代初めの日本製靴英文カタログの抜粋。当時、銀座や京城にも支店があった。 |
昭和10年代はじめ(1930年代前半) |
写真 |
p123 |
| 販売
| 大正8~昭和10年における海軍半靴の受注量の推移 |
大正8年(1919年)~昭和10年(1935年) |
表、受注量{日本製靴(受注量、同比率)、大塚商店(受注量、同比率)、総受注量} |
p123 |
| 催し
| 昭和12年ごろ、防護団の結成式か。日本製靴千住工場にて。 |
昭和12年(1937年)頃 |
写真 |
p124 |
| 軍隊
| 陸軍兵力変遷概見表(地上部隊) その2 |
明治35年(1902年)~昭和20年(1945年) |
表、年次、人員数、備考 |
p125 |
| 軍隊
| 夜間演習を巡察する陸軍管理官 |
昭和11年(1936年)11月 |
写真 |
p125 |
| 軍隊
| 昭和11年11月13日午後8時30分、千住工場において陸軍軍需動員演習が実施される。左から陸軍管理官、山本桂太郎常務、和田式製造部長、島田勝治技師。 |
昭和11年(1936年)11月13日 |
写真 |
p125 |
| 軍隊;事件
| 昭和11年二・二六事件当時の戒厳辞令部。反乱軍の降服を促す「下士官兵ニ告グ」のビラは、わかりやすい一種の名文だった。 |
昭和11年(1936年)[2月26日] |
写真 |
p126 |
| 名誉
| 昭和14年1月23日、朝香宮殿下、日本製靴本社工場にご台臨。 |
昭和14年(1939年)1月23日 |
写真 |
p126 |
| 広告宣伝
| 「日本製靴株式会社案内」 昭和12年ごろのもの。 |
昭和12年(1937年)頃 |
写真 |
p127 |
| 事業所
| 日本製靴本社工場全景図(前ページの会社案内口絵より) |
昭和12年(1937年)頃 |
写真 |
〔128〕 |
| 製造工程
| 型入裁断作業場。 |
[昭和12年(1937年)頃] |
写真 |
〔128〕 |
| 製造工程
| 製甲作業場。 |
[昭和12年(1937年)頃] |
写真 |
〔128〕 |
| 製造工程
| 底付作業場。 |
[昭和12年(1937年)頃] |
写真 |
〔129〕 |
| 製造工程
| 仕上げ作業場。 |
[昭和12年(1937年)頃] |
写真 |
〔129〕 |
| 従業員;役員
| 昭和14年ごろ、日本製靴千住本社に集う。 |
昭和14年(1939年)頃 |
写真 最前列左3人目から、山口与之助(研究主任)、山中金一(経理主任)、西島一興(支配人)、大倉明三郎(監査役)、石井章之助(専務取締役)、大倉亨(取締役会長)、島田勝治(技師)、本島十郎(購買主任)、内田忠三郎(製品主任)。 |
〔130〕 |
| 従業員
| 海南島派遣員の1人。(昭和15年11月・関口正司) |
昭和15年(1940年)11月 |
写真 |
p131 |
| 製品
| 陸軍の防寒靴 |
[昭和16年(1941年)頃?] |
写真 |
p132 |
| 映画;文明
| チャーリー・チャップリン主演の『モダン・タイムス』―機械に追いまくられる職工の悲哀を通じての優れた文明批評の映画だった。 |
[昭和11年(1936年)製作] |
写真 |
p132 |
| 設備
| マッケイ縫い機(20世紀初期) 『THE MODERN BOOT AND SHOE MAKER』より |
20世紀初期[(1900年代はじめ)] |
写真 |
p133 |
| 製品
| 日本製靴が作っていた日本陸軍兵用の「四五式編上靴」。(グッドイヤー・ウェルト式) 戦争末期には、写真のような牛革だけでなく豚革や水産皮革のサメ革まで登場して終戦を迎えた。(皮産連史料館提供) |
|
写真 |
〔134〕 |
| 賃金;資料
| 戦時中の給与明細表。国防献金・銃後会費などの名称にも、その時代が伺われる。 |
[昭和19年(1944年)頃] |
写真 |
p135 |
| 製品
| 陸軍の革脚半(かわきゃはん)。日本製靴の製品 |
[昭和16年(1941年)頃] |
写真 |
p135 |
|
| 雑然としていた上海・外灘の大通り |
昭和13年(1938年)ごろ |
写真 |
p136 |
| 海外事業
| 日本の靴工場の進出 |
昭和17年(1942年) |
日本~中国~フィリピン~タイ~ビルマ~フィリピン~シンガポール~ジャワ島にわたる地図上に靴工場がある場所を都市名を添えて記す |
p136 |
| 海外事業;従業員
| 昭和18年のフィリピン出発を前にして。千住工場玄関そばの誠加稲荷の前で。 |
昭和18年(1943年) |
写真 前列左から。清水律蔵、田中広一(○)、大倉明三郎、山岸英史(○)、石田直吉取締役会長、小薬源一郎(○)、和田武製造部長、植田辰雄(○)、石山亀吉(○)、鈴木敬亮、ほか11名。○印は、フィリピン派遣要員。 |
p137 |
| 福利厚生
| 太平洋戦争も近い昭和15年には、皇紀2,600年ということで、千住新橋河原運動場において「奉祝」陸上運動会が盛大に行われた。 |
昭和15年(1940年) |
写真 |
p137 |
| 海外事業;従業員
| 上海製靴の派遣要員たち。 |
昭和21年(1946年)3月15日 |
写真 前列左から、新井釜五郎、鈴柿孝、島田勝治、岩崎狷介、大野米蔵。 |
p138 |
| 海外寺領;資料
| 「在外財産等報告書」とは、日本の会社や個人の在外資産を、敗戦後占領軍に報告させたものだがこれによって上海製靴の所在地や資産状態などを知ることができる。 |
[昭和19年(1944年)頃?] |
写真 |
p139 |
| 世相
| 昭和16年12月8日、「米国および英国に対し戦いを宣す」の新聞報道に見入る人たち。この日の夜は、灯火管制が徹底していたことにも、一般国民の緊張感が想像できる。 |
昭和16年(1941年)12月8日 |
写真 |
p139 |
| 従業員
| 紀元2600年にあたる昭和15年ごろ、日本製靴本社工場で写す。会社からの応召者であろうか、陸軍・海軍の軍服姿も多く見られる。 |
昭和15年(1940年)頃 |
写真 |
p140 |
| 世相
| 山下奉文大将が、英軍パーシバル司令官に「イエスかノーか」と詰め寄ったといわれるシンガポール陥落は、開戦初期の山場だった。国債の売出し宣伝にも一段と身が入ろうというもの。 |
[昭和17年(1942年)2月] |
写真 |
p140 |
| 世相
| みんな口には出さなかったが、戦局の前途が多難であると感じられはじめた昭和18年12月、ついに文科系学生に執行猶予の恩典が停止され、次々と兵営に赴いた。 |
昭和18年(1943年)12月 |
写真 |
p141 |
| 催し
| 二重橋前の全国青年学校代表大会への参加を記念して。 |
|
写真 |
p141 |
| 生産;資料
| 当時の流行靴の紙型。靴会社の教科書として広く参照された 『最新製靴読本』別冊附録より。 |
[昭和19年(1944年)頃?] |
紙型の写真 |
〔142〕 |
| 生産;製造工程
| 昭和19年6月、桜蔭女学校の女子生徒による日本皮革工場での裁断革貼り合わせ作業 |
昭和19年(1944年)6月 |
写真 |
p143 |
| 催し
| 戦時下、上野中学の生徒として学徒動員により日本製靴の工場で働いた思い出を語る座談会。昭和62年、ホテルニューオータニにて。 |
昭和62年(1987年) |
写真 左から渡辺滉、石黒登美男、成島和男の諸氏。 |
p143 |
| 世相
| 戦局は苛烈となり、疎開者は日増しにふえる。千住新橋を渡って郷里への道を急ぐ人たち。すでにリヤカーや荷馬車が有力な輸送手段となっていた。 |
[昭和19年(1944年)頃] |
写真 |
p144 |
| 世相
| 戦時下に乏しい楽しみは、わずか一杯のビールだった。秩序正しく行列をつくって順番を待つ。男も女も、年配者も若者も、その点は平等なのが救いだった。 |
[昭和19年(1944年)頃] |
国民酒場麦酒部入口の写真 |
p145 |
| 戦争
| 日本の軍官民に戦争をあきらめさせた原子爆弾。広島、長崎の空にキノコ雲が大きくわき上がった。 |
[昭和20年(1945年)8月] |
原子爆弾キノコ雲の写真 |
p145 |
| 世相
| GHQのバス停付近(バスには日本人乗車禁止)。占領期間中の日本人にとってGHQ(総司令部)の名は政府以上の権力をもっていた。 |
[昭和20年(1945年)頃] |
銀座通りの写真 |
p149 |
| 世相
| 京成電鉄上野駅付近には、シューシャインボーイがズラリ。靴みがきは最も手軽に営める“正業”であった。日本製靴の社員も通勤時には、よくこの道を利用した。 |
[昭和20年(1945年)頃] |
写真 |
p149 |
| 世相
| 敗戦後の数年は、まずは食糧確保である。大きなリュックを背負い、列車の窓から乗り降りするのは大事な“買い出し”のためであった。(当時の東武電車) |
[昭和20年(1945年)頃] |
写真 |
p150 |
| 政治家
| 戦後初の“宮様内閣”をつくった東久邇宮稔彦殿下も、短期間で総辞職のため官邸を出る。 |
[昭和20年(1945年)] |
写真 |
p150 |
| 財閥解体
| 「財閥解体」は日本占領の懸案のひとつだった。GHQはジープをくり出し、まず三井、三菱、住友、安田の本社を急襲して重要書類を封印した。続いて大倉も同様の取扱いを受ける。 |
[昭和21年(1946年)] |
写真 |
p151 |
| 女性解放;選挙
| 終戦は女性解放のきっかけでもあった。昭和21年4月の選挙には、一挙に夫人代議士39名が誕生した。 |
[昭和21年(1946年)4月] |
写真 |
p151 |
| 世相;文化
| 歌手並木路子のデビュー作。この明るいメロディーは、ともすれば沈みがちな敗戦直後の日本人のこころを大きく励ました。 |
|
「リンゴの歌」のポスター写真 |
p152 |
| 経済団体
| 倉友会とは大倉土木の関連業者の親睦、協力のための団体である。写真は大倉喜七郎頭取命名の書。 |
[昭和10年(1935年)] |
写真 |
p153 |
| 経営者
| バロンの愛称で親しまれた大倉喜七郎 |
[明治39年(1906年)頃?] |
写真 |
p153 |
| 事業所
| 大正4年竣工したころの大倉組本館。東京市内で初の鉄筋コンクリートの高層ビルといわれた。外部は1階が石張り、2階以上は化粧煉瓦張りのため、俗に“大倉の赤煉瓦”と称された。 |
大正4年(1915年) |
写真 |
p153 |
| 関係会社
| 大倉財閥系の傘下会社一覧表(株式会社整理委員会調べ) |
昭和21年(1946年)12月現在 |
表、業種別、傘下会社名、公称資本金、持株会社名、同社の持株比率、備考 |
p154 |
| 世相
| 東京・新橋の青空マーケットの盛況 |
昭和21年(1946年)4月ごろ |
写真 |
p155 |
| 資料
| 日本製靴の書庫に残っていた往年の重要文書のファイル。背表紙や背文字にも、時代色がうかがわれる。 |
[昭和21年(1946年)頃] |
マ司令部報告書、最高司令部等と背文字にある文書の写真 |
p156 |
| 通貨
| 昭和21年2月に新旧円が切り換えられたあと、いままでとは趣きが大きく変わった十円札が発行された。左右対称にとらわれないデザインは斬新であった。ちなみに下の一円札(二宮尊徳像)もおなじく戦後の発行である。 |
昭和21年(1946年)2月発行 |
写真 |
p156 |
| 通貨;金融機関
| わずか2週間の短期間で手持ちの旧円は新円と取りかえなければならない。銀行や郵便局の窓口はどこでもおおぜいの庶民が詰めかけていた。 |
[昭和21年(1946年)2月] |
写真 |
p157 |
| 資料
| 特別管理人の登記簿抄本。特別管理人には日本製靴側から2人、債権者側から2人と同数を出し、協議して運営していくしくみだった。 |
[昭和22年(1947年)9月] |
登記簿抄本の写真 |
p158 |
| 財務・業績
| 特別損失に関する計算書 |
[昭和21年(1946年)] |
表、1.戦時補償打切りによる損失金{特殊預金、特殊借入金、単納代金のうち打切り(陸軍口、海軍口)、計}、2.各種積立金(法定積立金、別途積立金、資産償却積立金、事業改善積立金、研究費積立金、諸準備金、計)、3.登記利益金(利益金、過年度課税引当不足金、差引、総計、差引・不足額、計 |
p158 |
| 中小企業
| 千住界わい(第二次大戦前からの商店を抜粋) |
[昭和22年(1947年)頃] |
京成・千住大橋駅を中心とした千住界隈の、商店名を明記した地図。その上に「千住界わいの商店」と題した、第二次大戦前からいた人の商店を抜粋した説明文あり |
p159 |
| 役員
| 戦後の初代日本製靴取締役会長 大沢亨 |
[昭和21年(1946年)頃?] |
写真 |
p159 |
| 財務・業績
| 日本製靴の整備計画に基づく特別損失の補てん案 |
[昭和21年(1946年)10月] |
表、損失の部(戦時補償、旧国債、その他、合計)、利益の部(当期利益、積立金、繰入金等、戦補等求償額、小計、利益金、合計)、差引特別損失金 |
p159 |
| 経営政策
| 整備計画が認可された旨の公告。官報や新聞に掲載するほか、会社の入り口など人目につくところにも、こうした掲示が出された。 |
[昭和24年(1949年)10月正式に認可] |
「整備計画認可公告」の写真 |
p160 |
| 財務・業績
| 日本製靴(特別経理会社)の貸借対照表<指定時現在および新旧勘定併合予想時> |
[昭和23年(1948年)5月31日] |
表、借方勘定科目{[時期](指定時新勘定、指定時旧勘定、新旧勘定併合時予想)、[科目](流通資産、資本参加、長期投資、固定資産、その他資産、職舗請求額、未整備勘定、計)}、貸方勘定{[時期](指定時新勘定、指定時旧勘定、新旧勘定併合時予定)、[科目](短期負債、その他負債、引当金、公称資本金、積立金、利益金、未整備勘定、計)} |
p160 |
| 労働組合;政策
| 米軍の占領政策のひとつの柱に労働組合の結成と育成があった。昭和21年6月には日本労働組合総同盟(総同盟)が、8月には日本産業別労働組合会議(産別)という2大労働組織が誕生している。 |
[昭和21年(1946年)] |
[結成時の?]写真 |
p161 |
| 労働運動;施設
| [明治23年ごろ、日本人靴工組織「職工義友会」を組織した]城常太郎の記念碑(西村勝三が建立) |
[昭和22年(1947年)頃建立?] |
記念碑の写真 |
p161 |
| スポーツ;世相
| “フジヤマのトビウオ”とアメリカ人を驚かせた水泳の古橋広之進選手の活躍は、敗戦後の日本人に自信をもたせる明るいニュースだった。 |
[昭和24年(1949年)] |
水泳競技中の写真 |
p162 |
| 労働運動;催し
| 大正9年(1920)5月2日、日本で最初のメーデーが東京・上野公園で開かれた。鳥打帽、中折れ帽子や羽織姿などの風俗にも初期の労働運動の時代色を見ることができる。 |
大正9年(1920年)5月2日 |
写真 |
p162 |
| 労働運動;催し
| 昭和21年(1946)5月1日、敗戦後,初のメーデーは皇居前広場に50万人が参集した。スローガンも「働けるだけ食わせろ」など、生活防衛的な切実感がこもっていた。 |
昭和21年(1946年)5月1日 |
メーデーの写真 |
p163 |
| 歴史
| 昭和21年1月の、いわゆる「天皇の人間宣言」に続いて、雲の上から下りて庶民の声にふれようとつとめる昭和天皇の姿は、国民の多くから共感と好意をもって迎えられた。 |
昭和21年(1946年)1月 |
昭和天皇の写真と「天皇の人間宣言」の文書の写真 |
p164 |
| 資料
| 経営管理委員会解散を宣言する貴重な文書。 |
[昭和21年(1946年)3月16日] |
解散通告書の写真 |
p165 |
| ストライキ
| 映画会社・東宝の争議は、三船敏郎・久我美子・池辺良らの第一線スターも街頭カンパにくり出し、撮影所を占拠して話題をまいた。 |
[昭和21年(1946年)] |
写真 |
p166 |
| 規則
| 昭和22年4月に印刷された「従業員就業協約」。いま見れば、紙質も印刷もどことなく古めかしい。 |
[昭和23年(1948年)4月] |
「従業員就業協約」表紙の写真 |
p166 |
| ストライキ
| 昭和22年(1947)2月1日を期して、労働組合の全国組織はゼネストの決行を予定したが、GHQによる「占領政策違反」の指令で執行部は涙をのんで中止を決定。駅の出札口にも、その旨が掲示された。 |
昭和22年(1947年)2月1日 |
ビラの貼られた駅の改札口の写真 |
p167 |
| 役員
| 取締役製造部長時代の島田勝治 |
[昭和21年(1946年)4月] |
写真 |
p167 |
| 従業員;労働組合
| 昭和20年代初期の日本製靴の労働組合の人たち。横断幕をよく読むと、当時正式には「日本化学労働組合」の「日本製靴分会」と称していたことがわかる。 |
昭和20年代初期 |
写真 |
p168 |
| 世相
| 進駐軍のPX(売店)となった銀座4丁目角の服部時計店(昭和22年9月ごろ) |
昭和22年(1947年)9月頃 |
写真 |
p169 |
| 労働運動
| 戦後の一時期に労働運動史上一大勢力を誇った産別会議の結成大会。壇上には勇ましいスローガンの垂れ幕が並んでいる。 |
[昭和23年(1948年)頃] |
写真 |
p170 |
| 定款
| 昭和23年に謄写印刷された日本製靴株式会社の定款。いまは珍しい鉄筆によるガリ版印刷である。 |
[昭和23年(1948年)5月改正] |
『日本製靴株式会社定款』の表紙写真 |
p170 |
| 靴;風俗
| 戦後も1年1年と復興していくわけだが、風俗的にはまず服装や髪型などが先で、すぐには目につきにくい足もとのほうは、概して戦中・戦後そのままを引きずっていた。 |
[昭和20年代初期] |
足下の写真 |
p171 |
| 役員;設備
| 昭和24年3月15日、「靴の記念日」の当日、西村勝三翁石像の除幕式が行われた。 |
昭和24年(1949年)3月15日 |
除幕式の写真 |
p172 |
| 風俗
| 昭和23年(1948)ごろ、男性はショートパンツ、女性にはロングスカードが流行した。 |
昭和23年(1948年)頃 |
写真 |
p172 |
| 役員
| 日本製靴の初の代表取締役 海津光一郎 |
[昭和25年(1950年)6月26日就任] |
写真 |
p173 |
| 風俗;催し
| 戦後もやや落ち着いて、日本橋・白木屋デパートで「脚のコンクール」が開催された。審査員に和田信賢・越路吹雪など人気タレントがあたったが、このコンクールはのちに靴業界の企画として引き継がれた。 |
[昭和20年代後半] |
写真 |
p174 |
| 経営者
| 昭和26年、バーチャ社の会長カイタン氏が来社。前列左より、バートス氏、島田勝治取締役、1人おいてカイタン氏 |
昭和26年(1951年) |
写真 |
p174 |
| 靴;戦争
| 朝鮮動乱に国連軍出兵。改造靴の注文が、日本製靴をはじめ靴業界を潤した |
[昭和25年(1950年)] |
写真 |
p175 |
| 歴史;政治家
| マッカーサー元帥もトルーマン大統領の指揮権発動であえなく解任。「老兵はただ消えさるのみ」の言葉を残してさびしく帰任していった。 |
[昭和26年(1951年)4月] |
写真 |
p175 |
| 政策
| 占領政策の転換で官庁・大企業などの職場に「レッド・パージ」の嵐が吹き荒れる。先頭に立って労働組合の旗を振った人たちがきょうも職場を去っていく。 |
|
写真 |
p176 |
| 戦争
| 朝鮮動乱の好影響のひとつに、米軍車両の修理などがあった。資材や部品が不足がちだったが、産業界にかっこうな刺激となった。 |
[昭和26年(1951年)頃] |
写真 |
p176 |
| 需要
| 特需契約高の推移(経済企画庁「特需契約五カ年の概要」より) |
昭和25年(1950年)~昭和30年(1955年) |
折れ線グラフ、年、特需契約高 |
p176 |
| 従業員
| 日本製靴の親睦団体である「浩養会」の記念写真(昭和28年4月5日、伊香保温泉) |
昭和28年(1953年)4月5日 |
写真 |
p177 |
| 賃金
| 昭和20年代後半の給与辞令書。 |
昭和20年代後半(1950年代前半) |
給与辞令書の写真 |
p177 |
|
| 平和憲法下に誕生した「警察予備隊」は数年後には自衛隊へ。 |
[昭和25年(1950年)7月] |
写真 |
p178 |
| 財務・業績
| 戦後の純益金額推移表 |
昭和20年(1945年)4月~昭和28年(1953年)3月 |
表、決算期(期と期間)、金額、備考 |
p178 |
| 貿易
| 昭和28年、金商又一(株)を通して半長靴3,000足をビルマ政府に輸出(中央・海津光一郎代表取締役、右端・島田勝治常務取締役、左端・遠藤忠次郎営業部長) |
昭和28年(1953年) |
写真 |
p179 |
| 世相
| ともかくも、講和条約が成立して、日本は独立をとりもどした。募金者にはバラを贈る「平和の花」が銀座4丁目に現れた。 |
[昭和26年(1951年)] |
写真 |
p179 |
| 世相
| 東京駅前に建築中の「新丸之内ビル」は、昭和27年11月に落成した。折しも同年は、講和条約が発効して、独立日本のスタートが切られた年であった。 |
昭和27年(1952年)11月 |
写真 |
p183 |
| 業界;催し
| 全国靴商工会の主催による原皮輸入懇請の大会には、全国から3,000名を超える会員が神田共立講堂に集まって大いに気勢をあげた。 |
[昭和23年(1948年)12月] |
写真 |
p184 |
| 福利厚生
| 健康保険組合 半世紀小史 |
昭和17年2月~昭和63年(1988年) |
説明文と取締役会長石田直樹に日本製靴健康保険組合理事長を命じる警視庁名の辞令写真 |
p184 |
| ロゴマーク
| 昭和前期に広く使われていた日本製靴のマーク。 |
昭和前期 |
マークの図 |
p185 |
| 提携・合併
| 米国フリーマン社との提携は昭和32年。同社の正面入口と社内での作業風景。 |
昭和32年(1957年) |
写真 |
p185 |
| 製品
| そのころ[(フリーマン社と提携した頃)]売行きの伸びたスリッポン型紳士靴 |
[昭和32年(1957年)] |
写真 |
p185 |
| 設備
| 1950年代の製靴機械 |
1950年代 |
写真 PATTERN GRADING & CUTTING M/C 紙型グレーディング・マシーン、POUNDING UP M/C 踵タタキ機、HIGH SPEED INSEAM 高速細革縫い付け機、CALIFORNIA SYSTEM M/C プラットシステム機、ONE NEEDLE POST GED HIGH SPEED SEWING M/C サライミシン、 PULLING OVER M/C 釣り込み機、 HIGH SPEED OUTSOLE STITCHER 高速出し縫い機 |
〔186〕 |
| 業界;催し
| 昭和24年に入ると「靴と材料の見本市」が各所で開催された。昭和25年台東区聖天町の特設会場での第2回「靴と材料連合太市」では一流商社30社が参加した。 |
昭和25年(1950年) |
写真 |
p187 |
| 役員
| 欧州から帰国した島田常務を海津代表が迎える。 |
|
写真 |
p187 |
| 海外視察団
| [先進国の最新製靴機械を購入するため]昭和27年ヨーロッパ視察のおり、西ドイツ・モエナス社前で。[(技術担当役員・島田勝治)] |
[昭和27年(1952年)] |
写真 |
p188 |
| 世相
| テレビは当時、高嶺の花であった。プロレス中継など街頭に設置されたテレビには黒山の人だかりとなった。 |
[昭和27年(1952年)頃] |
写真 |
p188 |
| 広告宣伝;業界
| 昭和28年2月には、城北製靴工業会主催による靴の見本市も開かれ、大勢の見学者で賑わった。 |
昭和28年(1953年)2月 |
写真 |
p188 |
| 広告宣伝;ロゴマーク
| 映画館などで放映されたPRフィルム『さわやかな歩み』とニッポンシューのロゴタイプ |
[昭和28年(1953年)] |
写真 |
p189 |
| 広告宣伝;従業員
| 人気のあったラジオのクイズ番組『くすくす・クラブ』で、放送前にあいさつをする遠藤忠次郎(当時営業部長) |
[昭和27年(1952年)] |
写真 |
p189 |
| 広告宣伝
| デザイン界の大御所、伊藤憲治氏によるカレンダー。 |
[昭和28年(1953年)] |
写真 |
p189 |
| 世相;映画
| 映画『君の名は』のスター佐田啓二と岸惠子。昭和20年5月24日の東京空襲の夜、東京数寄屋橋で再会を約束するというストーリー。“すれちがいドラマ”のはしりであった。 |
[昭和28年(1953年)] |
スチール写真 |
p190 |
| 製品
| 縁のはがれないファッジ製法の靴と当時のパッケージ。 |
[昭和28年(1953年)成功] |
靴と箱の写真 |
p190 |
| 広告宣伝
| そのころの見本市。日本製靴は常に売上げがトップであり、賑わいを見せている。 |
[昭和28年(1953年)] |
見本市・日本製靴のブースの写真 |
p190 |
| 海外視察団
| [日本生産性本部の推薦による40日間にわたる]「日本製靴生産性視察団」の一行。日本の靴産業が世界的水準に達するための第1歩であった。 |
[昭和30年(1955年)11月] |
写真 |
p191 |
| 製品
| 第4回「東京都製靴技術コンクール」で東京都知事賞を受賞した当時の婦人靴。(皮産連提供) |
[昭和28年(1953年)春] |
写真 |
p191 |
| 催し;コンクール
| 第1回ミスシューズ・コンテストは、脚線美、態度、容姿が採点基準。昭和34年10月の第10回東京靴まつりコンクールで行われた。 |
昭和34年(1959年)10月 |
写真 |
p192 |
| 靴;規格
| 昭和33年10月1日発行のシューズタイムスのトップ記事jは「かわぐつJIS」問題であった。 |
昭和33年(1958年)10月1日 |
新聞『シューズタイム』1面トップの記事写真 |
p192 |
| 規格
| 千住・東京工場の正門に表示されている日本工業規格表示工場のプレート。 |
|
プレートの写真 |
p192 |
| 靴;製品
| ダイレクト・バルカナイジング・システム(DV式)のオーバーキャップ式安全靴は、日本製靴が第1号であった。 |
[昭和33年(1958年)市販] |
写真 |
p193 |
| 世相;コンクール
| 昭和28年ミス・ユニバースコンテストで伊東絹子が第3位に入賞した。当時そのプロポーションは“八頭身美人”と呼ばれ、巷でも八頭身コンテストが行われた。 |
昭和28年(1953年) |
写真 |
p193 |
| 労働組合;催し
| 昭和33年ブルガリアで開催された第1回世界労連産業別会議の会場。日本製靴からは後藤政一労働組合委員長が出席した。 |
昭和33年(1958年) |
写真 |
p194 |
| 経済団体;催し
| 昭和44年に組織された全国団体・日本製小売商連盟による、全国靴まつりセールも実施された。 |
昭和44年(1969年)[3月] |
写真 |
p194 |
| 靴;規格
| 昭和34年、日本靴連盟は新しいメートルサイズによる測り方の普及をめざして全国の同業者にポスターを配布。同年1月1日以降完全に実施され今日に至っている。 |
昭和34年(1959年)1月 |
ポスターの写真 |
p194 |
| 経済
| 四半期別国民総需要の推移 |
昭和31年度(1956年度)~昭和35年度(1960年度) |
グラフ、年度、金額、[費目](個人消費、財政支出、輸出、設備投資、在庫投資) |
p195 |
| 世相
| 電化ブームのはしりとなった電気洗濯機。昭和30年の普及は46万台であったが、36年には200万台にものぼり、主婦のライフスタイルに革命をもたらした。 |
昭和30年代 |
写真 |
p195 |
| ロゴマーク
| 今もほとんど変らないリーガルのブーツマーク |
[昭和36年(1961年)頃] |
写真 |
p195 |
| 技術・提携・合併
| 昭和36年(1961)セントルイス、ブラウン本社での「リーガル」契約調印式。 |
昭和36年(1961年)[11月] |
写真 |
p195 |
| 製品;設備
| 古い木型とトラディショナル・モデルのウイングチップ |
[昭和29年(1954年)頃] |
写真 |
〔196〕 |
| 経営者;関係会社
| リーガル・シューの功績者E.J.ブリスとマサチューセッツ州ボストンのリーガル・シュー・カンパニー |
[昭和36年(1961年)頃] |
写真 会社についての説明文あり |
p197 |
| 関係会社
| 提携当時のブラウン本社(米国セントルイス) |
[昭和36年(1961年)頃] |
写真 |
p197 |
| 経営者
| 今も日本製靴の国際化に活躍するニッピ・ニューヨーク・インク、立野健三社長。 |
[平成元年(1989年)] |
写真 |
p197 |
| 製品
| VAN-REGALのサドルオックスフォード。1964年の試作品 |
昭和39年(1964年) |
写真 |
p198 |
| デザイン
| 黒と赤のシンプルでインパクトのあるVAN-REGALのパッケージ。店頭で大変目立つデザインであり、若者の憧れのまとであった。 |
|
パッケージ(箱)の写真 |
p198 |
| 事業所;販売
| 「テイメン」と呼ばれているメンズショップの老舗、テイジン・メンズショップ。 |
昭和39年(1964年)12月 |
昭和39年12月発行の雑誌『商店建築』に乘った銀座店の写真 |
p198 |
| 靴;広告宣伝
| 1969年の雑誌広告の一部。服と靴をコーディネートしようという表現は、当時としてはまだ新しい考え方であった。 |
昭和44年(1969年) |
写真 |
p199 |
| 役員
| 企画室長当時の横内[敬一]社長 |
[昭和37年(1962年)] |
写真 |
p199 |
| 事業所;販売
| 直営第1号のリーガル専門店(東京駅・八重洲口)は、アメリカン・クラシック調の店舗であり、高級専門店としてのイメージを大切にした。 |
昭和45年(1970年)10月5日[オープン] |
店舗・REGAL SHOESの写真 |
p199 |
| 事業所;販売
| [東京駅八重洲大地下街にオープンした]開店当時のメンズショップ「KENT & REGAL」。 |
[昭和47年(1972年)4月25日オープン] |
写真 |
p200 |
| 役員
| 日本製靴株式会社 伊藤勇二会長 |
[昭和37年(1962年)?] |
写真 |
p200 |
| 広告宣伝
| 昭和40年ごろのPOPスタンド |
昭和40年(1965年)頃 |
写真 |
p200 |
| 広告宣伝;広報
| お客様と店を結ぶ「リーガルクラブカード」と会誌『リーガルニューライフ』。 |
[昭和57年(1982年)導入] |
写真 |
p200 |
| 催し
| [リーガル・フランチャイジーを対象とした]第1回リーガルツアー。セントルイス・ブッシュ・スタジアムにて ナショナルリーグの盗塁王ルー・ブロック(カージナルス)とともに。 |
[昭和51年(1976年)5月実施] |
写真 |
p201 |
| 営業;広告宣伝
| “動く展示会”として営業活動に活躍したショーカー。 |
[昭和38年(1963年)頃] |
写真 |
p201 |
| 商品;カタログ
| 発売当時のマイクロシューズのカタログ |
[昭和36年(1961年)12月発売] |
写真 |
p201 |
| 広告宣伝
| 業界初のショールームとして話題を呼んだ千住のショールームを訪れたタレント・ロイ・ジェームス氏。 |
[昭和38年(1963年)春] |
ロイ・ジェームスと千住のショールームの写真 |
p202 |
| 靴;オリンピック
| 日本製靴の靴がオリンピック選手団の公式ユニフォーム用として採用されたのは、昭和39年第18回東京オリンピックからである。以後昭和63年第24回ソウルオリンピックまで続いて採用されている。500人近い選手(関係者も含めて)の靴の採寸は大変で、選手のトレーニングの合間をぬって行われる。 |
[昭和39年(1964年)10月] |
オリンピック入場式の写真 |
p202 |
| 靴;オリンピック
| 競技前の行進で選手の足にマメなどをつくらないようにソフトで軽い靴をつくった。ヒモ付またはスリッポンタイプの白い靴が用いられた。 |
[昭和40年(1965年)頃?] |
写真 |
p202 |
| スポーツ
| 当時さかんだった地区別野球大会で予選優勝した時の日本製靴チームの選手と島田[勝治]常務(昭和41年8月)。 |
昭和41年(1966年)8月 |
写真 |
p203 |
| 役員
| 日本製靴株式会社 島田勝治相談役 |
[昭和57年(1982年)頃] |
写真 |
p203 |
| 経済団体
| 昭和40年日ソ両国親善のためにソ連を訪問した日本皮革産業連合会の一行(モスクワにて) |
昭和40年(1965年)[10月] |
写真 |
p204 |
| 交通
| 千住の交通いまむかし |
[昭和37年(1962年)頃?] |
路面電車の写真と千住の交通に関する説明文 |
p204 |
| 靴;提携・合併
| [米国ブラウン・グループと夫人靴について結んだ技術]提携当初のイブ・サンローランの婦人靴と初めて広告にのせたクララの婦人靴。 |
[昭和47年(1972年)] |
[婦人靴の]写真 |
p205 |
| 靴;博覧会
| 昭和43年、日本万国博記念としてタイム・カプセルに収納し、最終開封時期は5,000年後という日本製靴のコンチネンタルタイプ(206N)の靴。 |
昭和43年(1968年) |
写真 |
p205 |
| 設備
| 大阪城本丸跡の地下15メートルに埋設されたタイム・カプセル。現在文明の品物、記録を5,000年後の人々に残そうというロマン。日本製靴の靴をはじめとして総計2,098点の収納物の選定には、日本を代表する学者、知識人たちが参加した。 |
[昭和45年(1970年)] |
写真 |
p206 |
| 経済団体;役員
| 元・日本靴連盟会長、木内豊助氏。 |
[昭和46年(1971年)3月] |
写真 |
p206 |
| 事業所
| 桜に雪というめずらしい風景の中の日本製靴本社事務所(市ヶ谷)。 |
[昭和50年(1975年)8月移転] |
写真 |
p207 |
| 役員
| 日本製靴株式会社 諫早三郎社長 |
[昭和49年(1974年)1月31日就任] |
写真 |
p207 |
| 製品;広告宣伝
| [リーガル・スニーカー]新発売当時、広告にはスーパーリアルなイラストが使用された。 |
[昭和50年(1975年)3月] |
イラスト |
p208 |
| 製品
| スニーカー・ブームの火つけ役、Rマークのリーガル・スニーカー。それまで業界でいわれていた“ズック靴・運動靴”のイメージを一新し、業界に一大旋風をまき起こした。 |
[昭和50年(1975年)3月発売] |
写真 |
p208 |
| 製品;広告宣伝
| 紳士靴から婦人・子供靴そして関連グッズまで、日本製靴の製品が一堂に揃っている市ヶ谷のショールーム |
[昭和50年(1975年)頃?] |
写真 |
p209 |
| 製品;広告宣伝
| トータルにコーディネートされたライフスタイルを打出すポロ・ラルフローレンのショップ・ディスプレー。 |
[昭和51年(1976年)頃?] |
写真 |
p209 |
| 製品;ブランド
| 発売当時のリーガル・ブランドのバック類 |
[昭和51年(1976年)頃?] |
写真 |
p209 |
| 催し;広告宣伝
| リーガル100周年記念。100周年を祝うリーガルシューズの店内。[リーガル100周年記念靴抽選会]、100周年を記念する真鍮製のPOP。 |
[昭和55年(1980年)] |
写真 |
〔210〕 |
| 製品
| 手入れも大切に。リーガル・シューケア・セット。 |
[昭和53年(1973年)] |
写真 |
p211 |
| 役員
| 日靴元年(昭和58年)に抱負を述べる諫早[三郎]社長 |
|
写真 |
p211 |
| 経営;ロゴマーク
| “リーガルは、修理までリーガルです”。のキャッチフレーズで、「リーガル・リペア」を打ち出す。修理のメニューと店頭シンボル・マーク。 |
[昭和56年(1981年)頃?] |
写真 |
p211 |
| 品質管理;催し
| 平成元年8月25日、第14回QCサークル地区大会が東條会館において開催された。各部門の代表13サークルが日頃の活動の成果を発表、4サークルが横内[敬一]社長より表彰を受けた。 |
平成元年(1989年)8月25日 |
会場の写真 |
p212 |
| 品質管理;出版
| 『QCニュース』は、No.34号から『TQCニュース』に改まり、平成元年10月1日発行でNo.62号を数える。昭和57年の諫早[三郎]社長のTQC導入宣言は、「本日始めた以上は断じて後へ引かない・・・」であった。 |
平成元年(1989年)10月1日 |
『QCニュース』と『TQCニュース』の写真 |
p212 |
| 品質管理;役員
| 「企業は人間の集団です。その人間の質を高めないでどうして企業が発展していけるでしょう」。TQCの目的の一つを語るTQC推進本部長の岸[勝太郎]専務。 |
[昭和61年(1986年)] |
写真 |
p212 |
| 製品;ブランド
| オリジナル・ブランド「シェトランド・フォックス」。ブリティッシュ・テイストとアメリカン・テイストをミックスした、クラシックスタイルが基本。世界に通用するハイ・クオリティの製品である。 |
[昭和57年(1982年)発表] |
写真 |
p213 |
| 催し
| 「初午祭」は誠和稲荷で祈願 昭和17年以来の家族的な行事。 |
|
「初午祭」の誠和稲荷の写真と行事の説明文、初午祭のテレフォン・カードの写真 |
p213 |
| ブランド;広告宣伝
| 昭和61年はリーガル・ブランドが海を越え日本に来て25年になる。記念ノベルティとして、ペーパー・ウエイトとアニバーサリー・ブックが製作された。 |
昭和61年(1986年) |
写真 |
p214 |
| 出版
| 医学界と靴産業を結ぶバイブル「プロフェッショナル・シューフィッティング」[(ウイリアム・A・ロッシ、ロス・テナント両博士共著)]。足の解剖学・動力学から靴の知識、フィッティングの原理と実際まで、科学的、総合的に解説。日本製靴初の出版物である。 |
昭和62年(1987年)出版 |
表紙の写真 |
p214 |
| 研究;催し
| 産学連係による「[第2回]日本靴医学研究会」の会場。 |
[昭和63年(1988年)] |
研究会会場の写真 |
p214 |
| 役員;提携・合併
| 日本製靴を訪れた[米国最強の]ティンバーランド社のエングル・サエズ取締役と横内[敬一]社長 |
[昭和62年(1987年)] |
|
p215 |
| 経営
| “UNITED COLORS OF BENETTON” |
[昭和63年(1988年)] |
写真 |
p215 |
| 広告宣伝
| 「リーガル・アメリカンクラシック」の雑誌広告は、古きアメリカの広告イメージの復古調であった。 |
[平成元年(1989年)5月発表] |
写真 |
p215 |
| 世相
| 千住風景の移りかわり |
|
千住の上空写真と、明治35年から現在に至る千住についての説明文 |
〔216〕 |
| 技術;提携・合併
| ホテル・グランドパレスで行われたナチュラライザ-の契約調印式。ブリッジウォーター[ブラウングループ]会長とシューメーカー[ブラウンシュー]社長は日本製靴の考え方を積極的に理解され、その友好関係が今後ますます深まることは確かである。 |
[昭和63年(1988年)10月技術援助契約締結] |
写真 |
p217 |
| 設備
| 足型の測定値をブラウン管で表示する最新の足型測定機「フットフィッター」 |
[平成元年(1989年)] |
写真 |
p217 |
| 情報システム
| 昭和63年、飯田橋のシステム室にIBMの新コンピュータ・システムを導入。テープカットをする岸[勝太郎]専務。 |
昭和63年(1988年)[10月] |
写真 |
p218 |
| 情報システム;設備
| 国際化にもリアルタイムの対応をめざすシステム室 |
[昭和63年(1988年)] |
写真 |
p218 |
| 技術;設備
| 理性と感性の統合、日本製靴の情報発信基地でもある設計室(飯田橋分室)。設計室には世界各国からの靴関連資料が豊富である。 |
|
写真 |
p219 |
| 事業所;関係会社
| タイのサハ・グループの技術員も研修に訪れた鹿児島製靴。 |
|
写真 |
p219 |
| 広告宣伝;事業所
| 平成元年7月にオープンした日本製靴最新のショールーム。(神戸・ジーベック) |
平成元年(1989年)7月オープン |
写真 |
p223 |
| 広告宣伝
| 唱歌「くつが鳴る」の音階に合わせて靴が配置されている東京工場の案内パンフレット[『HOW TO MAKE SHOES.』] |
|
写真 |
p223 |
| 広告宣伝
| ナゴヤ球場にも鮮やかなREGALの文字が見られる。 |
|
写真 |
p223 |
| 広告宣伝
| 日本製靴が初めて協賛したスポーツ・イベントの全日本F3選手権。リーガルのトラッドなイメージに、若さとダイナミックなイメージをオーバーラップさせる効果が期待できる。 |
平成元年(1989年)9月 |
第8戦・鈴鹿サーキットの写真 |
〔224〕 |
| カタログ
| 海外向け会社案内カタログ |
|
写真 |
p225 |
| 役員
| 日本製靴株式会社 代表取締役社長 横内敬一 |
[昭和57年(1984年)10月就任] |
写真 |
p225 |
| 経営;スローガン
| CI計画導入に際して、掲出された社内ポスター。時代にフィット、社会にフィット、未来にフィット “FIT In Tomorrow”をCIスローガンとしてスタートした。 |
|
ポスターの写真 |
p226 |
| 設備
| 多機能型の最新鋭靴製造マシン |
|
写真 |
p226 |
| 社会貢献
| 企業の文化活動の一つとして、世界でも有名になった[同郷の]セントルイス・シンフォニック・オーケストラにも毎年賛助している。 |
|
写真 |
p227 |
| 役員;経営戦略
| “日本製靴の21世紀”への航路を示す横内[敬一]社長 |
[平成4年(1992年)] |
写真 |
p227 |
| 販売
| 日本製靴の最高級靴、シェトランド・フォックスを扱っているイタリア・ミラノの高級ブティック。 |
|
写真 |
p227 |
| 社訓
| 社是 団結 創意工夫 |
|
額に収められた写真 |
p228 |
| 役員
| 日本製靴(株)役員 |
平成元年(1989年)6月5日撮影 |
写真、取締役 伊藤伸一、相談役 島田勝治、代表取締役社長 横内敬一、代表専務取締役 岸勝太郎、常務取締役 渡辺忠彦、常務取締役 藤井豊、取締役 赤羽根孝、取締役 矢古宇巌、取締役 脇田実之助、取締役 伊藤利男、常務取締役 品川孝二、常任監査役 原元雄、取締役 小田実、監査役 護得久昻、監査役 熊谷温生 |
p229 |
| 定款
| 日本製靴(株)定款 |
|
原紙定款と現行定款(平成元年3月改正)の表紙と最初の部分の写真 |
p230 |
| 役員
| 日本製靴(株)取締役・監査役 一覧表 |
明治35年(1902年)~平成元年(1989年) |
図表、代表取締役、取締役、監査役の氏名と在任期間 |
〔折込〕231 |
| 役員
| 日本製靴・原始定款に見られる創立に携わった人たちの署名捺印。 |
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10名の住所と氏名一覧 |
〔折込〕231 |
| 靴;歴史
| 靴の起源 登呂遺跡出土の田下駄(ナンバ)。 |
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写真 |
p238 |
| 靴;歴史
| ツタンカーメン王のサンダル。図柄は近隣異民族を象徴する弓とシリア人・ヌビア人が金箔で描かれている。 |
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サンダルの写真 |
p238 |
| 靴;歴史
| 紀元前1500年ごろの靴製造の様子。 |
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絵の写真 |
p238 |
| 靴;歴史
| サンダルをもつアフロディテと牧神パン。 |
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彫刻の写真 |
p238 |
| 靴;歴史
| 昭和63年(1988)、「藤ノ木古墳」より発掘された金銅製履の復元。 |
昭和63年(1988年)発掘 |
写真 |
p238 |
| 靴;歴史
| 日本の草鞋 |
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写真 |
p239 |
| 靴;歴史
| ローマ時代のサンダル |
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写真 |
p239 |
| 靴;歴史
| インド・ペシャワール地方の貴族のはきもの。 |
|
写真 |
p239 |
| 靴;歴史
| 17世紀、ヨーロッパの靴職人。 |
|
絵の写真 |
p239 |
| 靴;歴史
| 18世紀、ロココ朝時代の宮廷で履かれたイザベラ・アレン夫人のハイヒール。絹製、高さ7cmルイ・ヒール。バックルは銀の台に人造宝石飾り。 |
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写真 |
p240 |
| 服装;歴史
| 幕末の兵士の服装は一様ではなく敵方は甲冑に槍、草鞋ばきであったりした。 |
幕末 |
絵の写真 |
p240 |
| 服装;歴史
| 明治10年(1877)、西南戦争で官軍の応援に、東京から出陣する警部補。 |
明治10年(1877年) |
写真 |
p240 |
| 服装;歴史
| 日本ではまだ和服が一般的であった明治32年(1899)、欧米の雑誌に掲載された当時(ビクトリア女王時代)のメンズファッション。下衿を短く、前裾を大きくラウンドカットしたダブルのスーツ。生地は厚手が流行った。 |
明治32年(1899年) |
写真 |
p241 |
| 設備
| 初期のグッドイヤー・ウェルト・ソーイング機械。 |
[明治12年(1879年)] |
絵 |
p241 |
| 服装;歴史
| 振袖にえび茶のはかまと深釦靴の女学生。和洋を折衷した形がとられはじめ活動的になった。 |
[明治30年代] |
絵の写真 |
p241 |
| 靴;歴史
| 明治30年ごろの婦人用深釦靴。 |
明治30年(1897年)頃 |
絵の写真 |
p241 |
| 靴;広告宣伝
| 1904年(明治37)5月『THE COSMOPORITAN』に掲載された、U.S.A.リーガルの広告 |
明治37年(1904年) |
写真 |
p242 |
| 靴;カタログ
| 1910年、春夏用リーガル・カタログ(U.S.A.製) |
明治43年(1910年) |
カタログ表紙の写真 |
p242 |
| 服装
| 鹿鳴館スタイルの風俗画。男性はフロックコートにブーツ。女性はロングスカート、中ヒールのブーツ。 |
[明治時代初期] |
絵の写真 |
p242 |
| 靴;カタログ
| 明治30年(1897)ごろの靴カタログ |
明治30年(1897年)頃 |
写真 |
p243 |
| 服装
| フランスに留学した永井荷風。衿は小形でVゾーンが狭くワイシャツのカラーが高い(ハイカラー)。 |
[明治40年(1907年)頃] |
写真 |
p243 |
| 靴;歴史
| 明治中期の通行靴のトウの変遷。 |
明治中期 |
靴つま先部分の絵の写真 |
p243 |
| 設備
| レスコー・フット・メジャリング・マシーン。アメリカ・1930年ごろ。サイズとウイズを同時に測ることができる。 |
[昭和5年(1930年)頃] |
写真 |
p244 |
| 営業
| 当時のU.S.リーガル・ショップでの採寸の様子(N.Y.C.)。 |
営業 |
写真 |
p244 |
| 製品
| 1910年代には、ブーツに代わってオックスフォードが台頭 |
1910年代 |
写真 |
p244 |
| 風俗;服装
| 東京銀座のモガたち。一様にショートヘア。 |
[大正時代(1910年代)] |
写真 |
p245 |
| 風俗;服装
| アメリカでオックスフォード・バッグ(ダブダブのスラックス)が流行しはじめた大正14年(1925)、日本ではモボが流行る。やはり、ゆったりと裾広がりのスラックスで靴は白と黒のコンビが最先端だった。 |
大正14年(1925年) |
写真 |
p245 |
| 服装
| 欧米の避暑地から多くのファッションが生まれた。パーム・ビーチが最も華やかだったのは1920年代といわれている。 |
1920年代 |
写真 |
p245 |
| 服装
| 来日中(大正11年)のプリンス・オブ・ウェールズ |
大正11年(1922年) |
写真 |
p245 |
| 服装;風俗
| 1948年10月号『エスクアイア』誌に紹介されたボールドルック・スーツ |
昭和23年(1948年)頃 |
写真 |
p246 |
| 服装
| 昭和15年(1940)『アサヒグラフ』に載った国民服第2号。 |
昭和15年(1940年) |
写真 |
p246 |
| 服装;出版
| 『ドレスメーキング』創刊号。 |
[昭和24年(1949年)] |
写真 |
p246 |
| 服装
| M+W時代の先駆となったオードリー・ヘップバーンのトレアドル・パンツとサブリナ・シューズ |
[昭和29年(1954年)] |
写真 |
p247 |
| 服装
| ディオールのHライン。 |
昭和29年(1954年) |
写真 |
p247 |
| 靴
| 1950年代に登場したタッセル・スリッポン。起毛した仔牛革と型押し革のコンビ(U.S.A.製)。 |
1950年代 |
写真 |
p247 |
| 服装
| [一部のおしゃれな男性の間で流行した]ミスターT・ルック(『エスクアイア』誌:1950年11月号)。 |
[昭和25年(1950年)11月] |
写真 |
p247 |
| 風俗
| ベストセラー『太陽の季節』が映画になりスクリーン・ファッションが若者にウケた。サングラスにアロハシャツ、慎太郎刈りが夏の海岸にあふれ、以後つぎつぎと登場する若者風俗のはしり、「太陽族」が生まれた。 |
[昭和31年(1956年)] |
写真 |
p248 |
| 販売;事業所
| 1950年代のアメリカのリーガル・シューショップ。 |
1950年代 |
写真 |
p248 |
| 製品
| [日本製靴の]スーパーKB。ネオ・スーパーS |
[昭和25年(1950年)] |
写真 |
p248 |
| 風俗
| 昭和30年(1955)東京・上野でマンボを踊る若者たち。 |
昭和30年(1955年) |
写真 |
p249 |
| 服装;出版
| 『男の服飾』[『MEN'S CLUB』誌の前身]創刊号。 |
[昭和29年(1954年)創刊] |
写真 [『婦人画報増刊 男の服飾読本』として創刊] |
p249 |
| 風俗
| 有楽町・日劇で開かれたウエスタン・カーニバル。ロカビリーは若者たちをとらえ、熱狂させた。 |
[昭和32年(1957年)] |
写真 |
p249 |
| 服装
| 1958年に登場したコンチネンタル・ルック。 |
[昭和33年(1958年)] |
絵 |
p250 |
| 服装
| 昭和33年(1958) 着やすさとおしゃれが共存したサックドレスが大流行。 |
昭和33年(1958年)[春~夏] |
写真 |
p250 |
| 靴;製品
| 当時の日本製靴製、婦人靴 |
[昭和33年(1958年)] |
写真 |
p250 |
| 靴;風俗
| 昭和25年(1950)、『毎日グラフ』1月1日号に載った、当時の婦人靴のいろいろ。 |
昭和25年(1950年)1月 |
写真 |
p250 |
| 製品
| 「ニッポンシュー」ブランドのメッシュ靴。 |
[昭和25年(1950年)頃] |
写真 |
p250 |
| 風俗
| [婚約発表後の]白いテニスウェアの美智子さまと皇太子殿下(当時)。 |
[昭和33年(1958年)] |
写真 |
p251 |
| 製品;カタログ
| 「ニッポンシュー」ブランドの製品カタログ表紙。B5サイズ・12頁。靴は、まだモノクロ印刷だった。 |
昭和32年(1957年) |
写真 |
p251 |
| ポスター;広告宣伝
| 日本製靴のポスター(昭和28年)。 |
昭和28年(1953年) |
表紙の写真 |
p251 |
| 製品
| ダイレクト・バルカナイジング製法によるチャッカーブーツ。「ニッポンシュー」ブランド。 |
[1950年代] |
写真 |
p251 |
| 風俗
| 別命ウインキーというダッコちゃん。角度によってウインクする。 |
[1960年代] |
写真 |
p252 |
| 服装
| アイビーリーガーだったJ.F.ケネディ。『日本版エスクアイア1987夏号』Vol.1/No.2表紙:UPU社 |
昭和62年(1987年) |
写真 |
p252 |
| 服装
| ビジネスマンの制服のようになったアイビー・ルック。 |
[昭和36年(1961年)] |
写真 |
p252 |
| 商品
| 日本製靴に届いたUSA製リーガル。VAN-REGALのプロトタイプ。 |
[昭和36年(1961年)] |
写真 |
p252 |
| 服装
| 大流行したホンコンシャツ。 |
[1960年代] |
写真 |
p253 |
| 服装;出版
| アイビーの教科書『TAKE IVY』1965年発刊。アイビーリーグのキャンパスを、美しい写真で紹介。いながらにして本場のファッションが体験できた。 |
昭和40年(1965年) |
雑誌の表紙の写真 |
p253 |
| 靴;カタログ
| 「VAN-REGAL」スタート時のカタログ |
[昭和39年(1964年)発売] |
VAN-REGALの靴(PLAIN-TOE、SLIPON、WING-TIP、CHUKKA-BOOTS)の写真 |
p253 |
| 風俗;出版
| 『平凡パンチ』創刊号。昭和40年(1965)。アイビーまっただ中でスタートした、まさに雑誌の表紙は時代の鏡。 |
昭和40年(1965年) |
創刊号表紙の写真 |
p254 |
| 服装
| ワードロープをわかりやすいイラストで紹介(メンズクラブ)。 |
[昭和40年(1965年)頃] |
イラストの写真 |
p254 |
| 風俗
| 1963年、ビートルズ結成。音楽だけでなく、ファッションでも大きな影響を与えた。 |
昭和38年(1963年) |
レコードジャケットの写真 |
p254 |
| 服装
| ビートルズ・ファッションから生まれたモッズルック。 |
[昭和38年(1963年)頃] |
写真 |
p254 |
| 風俗
| アイビーで身をかため、みゆき通りに集まった、みゆき族。 |
[1960年代初頭] |
写真 |
p254 |
| 風俗
| ミニスカート旋風をまき起したツゥイギー。 |
[昭和40年(1965年)] |
写真 |
p255 |
| 服装;販売
| トータル・コーディネイトを主張するアイビー。メンズショップでVAN-REGALがディスプレイされ、販売された。 |
[昭和40年(1965年)頃] |
店頭ディスプレイの写真 |
p255 |
| 服装
| 露出した足を美しく見せるために工夫したネットのストッキング |
[昭和40年(1965年)頃] |
写真 |
p255 |
| 靴;商品
| コルファム(デュポン社・人工皮革)を使ったKENT-REGALのウィングチップ(1967年製) |
昭和42年(1967年) |
写真 |
p255 |
| 製品;商品
| スクエアトウ(日本製靴製)。ビットシューズ(VAN-REGAL)。 |
[昭和40年代] |
写真 |
p255 |
| 服装
| 街中で目を引いたサイケデリック・プリントのワンピース |
[昭和43年(1968年)頃] |
写真 |
p256 |
| 服装
| パンタロンの出現は女性の社会進出のあらわれでもあった。 |
[昭和44年(1969年)] |
写真 |
p256 |
| 商品;技術
| アイビー予備軍のための商品企画もおこたらなかった。 |
[昭和40年代前半] |
写真 |
p256 |
| 靴;カタログ
| 1960~Shoes Fashion & Advertisements. |
1960年代 |
1970年代の靴の広告写真、カタログの写真 |
p257 |
| 服装;出版
| 自分に一番似合うスタイルを見つける方法、お金をかけないでシックに着こなす方法についてまとめた本[『Cheap CHIC』] |
[1970年代はじめ] |
写真と説明文 |
p258 |
| 服装
| ファッションは個性化の時代。ジーンズもベルボトムなど様々はタイプが出現。 |
[1970年代はじめ] |
写真 |
p258 |
| 靴;広告宣伝
| リーガルに妹[(レディース・リーガル)]ができたと知らせる新発売広告(1973年) |
昭和48年(1973年) |
写真 |
p258 |
| 靴;商品
| エレガンスできっちりつくられたサンローラン。 |
[昭和47年(1972年)発売] |
写真 |
p258 |
| 靴;商品
| ロングセラーを続ける、リーガル・デザート・ブーツ。1965年のデビューから13年目の1978年には約85万足が履かれた。 |
昭和53年(1978年) |
写真 |
p259 |
| 靴
| すその長いパンタロンの流行にともなって、ヒールの高いサンダルが登場。 |
[1970年代はじめ] |
写真 |
p259 |
| 風俗;出版
| 1970年3月 ライフスタイルを提案する女性誌『アンアン』創刊号 |
昭和45年(1970年)3月 |
表紙の写真 |
p259 |
| 靴;商品
| ニセ物が現れるほどに人気を呼んだサンローランのエスパドリーユ。 |
[1970年代] |
写真 |
p259 |
| 服装
| ケンゾーのビッグスカート。1974年発表。 |
昭和49年(1974年)発表 |
写真 |
p260 |
| 靴;服装
| ミディ、マキシ、ミモレと長いスカート丈の流行とともにルーズフィット・ブーツがブームになった。 |
[昭和49年(1974年)頃] |
ルーズフィット・ブーツの写真 |
p260 |
| 広告宣伝
| スニーカー新発売のためのTVCM。 |
[1970年代後半] |
スニーカーを履いた足下の写真 |
p260 |
| 靴;服装
| スニーカー・ブームの火付け役リーガル・スニーカー。ブームはファッションだけでなくスポーツや健康指向へと向かう流れの中で新しいライフスタイルに欠かせないアイテムとして定着していった。 |
[1970年代後半] |
スニーカーの写真 |
p260 |
| 靴;販売
| ヘビーデューティーが雑誌などでさかんに取り上げられる以前の'70年代初期、リーガルはすでにワークブーツを販売していた。 |
1970年代初期 |
ワークブーツの写真 |
p261 |
| 服装
| このころから海や山専用のアイテムが、街中で使われるようになる。特にダウンジャケットは目立った。 |
[1970年代後半] |
写真 |
p261 |
| 服装;風俗
| 長くて派手なトランクス、ポロシャツやTシャツと太陽族以後の湘南ファッション、サーファールックは、サーフィンを主題にした映画「ビッグ・ウェンズデー」の上映で街に上陸。シティ・サーファーと呼ばれる若者が現れた。 |
[1970年代後半] |
写真 |
p261 |
| 商品
| 1974年、新発売のリーガル・ドレスブーツ。 |
昭和49年(1974年) |
写真 |
p261 |
| 商品;広告宣伝
| 1970~Shoes Fashion & Advertisements. |
[1970年代] |
1970年6月~1979年10月の靴のカタログ写真 |
p262 |
| 商品;靴
| リーガル・ブリティッシュ・コレクション。リーガル・イーストコースト・コレクション |
1980年代 |
靴の写真 |
p268 |
| 出版
| アイビーリーグなど有名大学に入る準備をする学校「プレップ・スクール」。その学生生活全般に渡る手引書[『プレッピーハンドブック』]。プレッピースタイルは、ここから生まれた。 |
1980年代 |
写真 |
p268 |
| 服装;風俗
| コットンパンツやチノーズにデッキシューズを合わせるところが、アイビーとちがっている。 |
昭和55年(1980年)春 |
写真 |
p268 |
| 風俗
| プレッピー好みのバイク、Vespa。 |
昭和55年(1980年)春 |
写真 |
p268 |
| 服装;風俗
| 上から下まで黒一色[のカラス族]。DCブランドの傾向であった。 |
[昭和57年(1982年)] |
写真 |
p269 |
| 風俗;世相
| 無印良品が感性豊かな人々をマーケットに新しい生活を提案。 |
[昭和58年(1983年)] |
店頭の写真 |
p269 |
| 服装;風俗
| 1920年代の[モボ・モガ]ファッションがよみがえるレトロ現象。さらに様々な時代の様式がごちゃまぜになった折衷スタイルが'80年代の特徴。 |
1980年代 |
写真 |
p269 |
| 服装;風俗
| ひまわりは、靴のリボンにまで展開された。 |
[1980年代] |
写真 |
p269 |
| 製品
| 日本製靴の高級オリジナルブランド シェトランド・フォックス。 |
[昭和58年(1983年)] |
写真 |
p269 |
| 風俗;出版
| [YUPPIE HANDBOOK ヤッピー・ハンドブック]都市に住むヤング・エリートのライフスタイルを紹介。 |
[昭和59年(1984年)] |
雑誌表紙の写真 |
p269 |
| 世相
| エアロビクス、フィットネス、アスレチック、あるいはジョギングと健康への関心が高まると同時にビジネス社会でも健全な体は必須条件という風潮が生まれた。 |
[1980年代] |
写真 |
p270 |
| 服装;映画
| 映画「炎のランナー」、映画「ウォール街」。映画のウェアデザイン担当にラルフローレンやアランフラッサーなど有名デザイナーが参加。スクリーンファッションがそのまま、メンズウェアの流行となった。 |
[1980年代] |
写真 |
p270 |
| 映画;服装
| [映画]「炎のランナー」の影響でクラブマン・スタイルが話題になる。 |
[昭和56年(1981年)] |
写真 |
p270 |
| 服装;世相
| 1980年代後期ファッションはますます多様化。シャネルのバッグ、ワイズのシャツ、エルメスのスカーフの女子大生「渋カジ」もその一つ。 |
1980年代後期 |
写真 |
p271 |
| 靴
| アウトドア・ブーツの本格派。ティンバーランド。 |
[昭和61年(1986年)] |
写真 |
p271 |
| 商品;広告宣伝
| 1980~Shoes Fashion & Advertisements. |
[1980年代] |
1980年代の靴のカタログ写真 |
p272 |
| 広告宣伝;表彰
| 日本製靴 広告受賞作品記録 |
昭和42年(1967年)~平成元年(1989年) |
年、受賞広告賞・回数、順位 |
p278 |
| 経営
| 日本製靴(株)会社概要 資本金・売上高・従業員の推移 会社概要 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
一覧、社名、本社事務所、設立年月日、資本金、役員、従業員数、年商高、主力工場、主な取引銀行、関係会社、関連会社 |
p280 |
| 財務・業績
| 日本製靴(株)会社概要 資本金・売上高・従業員の推移 資本金額の推移 |
明治35年(1902年)1月21日~昭和63年(1988年)12月31日 |
表、年月日、資本金額、摘要 |
p280 |
| 売上
| 日本製靴(株)会社概要 資本金・売上高・従業員の推移 売上高の推移 |
第146期(1978.1.1~1978.12.31)~第156期(1988.1.1~1988.12.31) |
棒グラフ、期・期間、金額 |
p281 |
| 従業員
| 日本製靴(株)会社概要 資本金・売上高・従業員の推移 従業員の推移 |
第146期(1978.1.1~1978.12.31)~第156期(1988.1.1~1988.12.31) |
表、期別、年度、従業員数 |
p281 |
| 靴;業界
| 1988年靴製造業ベスト10 |
昭和63年(1988年)[10月] |
表、順位、社名、年商、従業員数 |
p281 |
| 組織;関係会社
| 組織図 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
会社組織図と関係会社・関連会社一覧 |
p282 |
| 関係会社;事業所
| リーガルシューズ・フランチャイズチェーンおよび関連ショップ |
[平成2年(1990年)1月現在] |
写真(リーガルシューズ八重洲店、メンズウェアリーガル東京駅店、リーガルスポーツ下北沢店)、関連ショップ(日本地図上に北海道地区、東北地区、関東地区、中部地区、近畿地区、四国地区、中国地区、九州地区と分けて、各地区ごとにショップ名を記す) |
p283 |
| 関連会社
| 日本製靴グループのネットワーク |
[平成2年(1990年)1月現在] |
地図、写真(岩手製靴株式会社、秋田製靴株式会社、米沢製靴株式会社、岩手シューズ株式会社、有限会社田山製甲所、鹿児島製靴株式会社、日本製靴株式会社東京工場。それぞれに製法、日産足数、従業員数を記す)。日本地図上で北海道地区、東北地区、関東地区、中部地区、近畿地区、中国地区、九州地区と分け、本社・支店・営業所・出張所名、製造会社、販売会社 |
p284 |
| 経営
| 日本製靴株式会社 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
一覧、事業所名(本社事務所、本社事務所分室(3か所)、東京工場、日本靴科学研究所、大阪支店、名古屋営業所、水戸出張所)、住所、電話番号 |
p285 |
| 関係会社;販売
| 関係会社(販売会社) |
[平成2年(1990年)1月現在] |
一覧、社名(北日本シューズ株式会社、東北日本シューズ株式会社、東日本シューズ株式会社、株式会社タップス、株式会社アーバンクラフト、株式会社コースト、関東日本シューズ株式会社、中部日本シューズ株式会社、近畿日本シューズ株式会社、株式会社ジーベック、西日本シューズ株式会社、株式会社ニスコ、株式会社ニッカ、株式会社フィット)、住所、電話番号 |
p285 |
| 関係会社;生産
| 関係会社(製造会社) |
[平成2年(1990年)1月現在] |
一覧、社名(岩手製靴株式会社、岩手シューズ株式会社、秋田製靴株式会社、米沢製靴株式会社、鹿児島製靴株式会社、有限会社田山製甲所、株式会社ニッカエンタープライズ、加茂製靴株式会社、株式会社チヨダサプライ)、住所、電話番号 |
p285 |
| 関係会社
| 関連会社 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
一覧、社名(チヨダシューズ株式会社、株式会社ニッピ、東北リーガルシューズ株式会社、ニッピニューヨーク インコーポレーテッド) |
p285 |
| 沿革
| 年表 |
慶応3年(1867年)~昭和64年・平成1年(1989年)8月20日 |
年表、年、代表者、靴の周辺、社会・風俗 |
p286 |
| 参考文献
| 文献一覧 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
[分類](靴・皮革業関係、基礎文献・年表・通史、明治大正史・事件と人、昭和史・事件と人)、書名、編著者名、発行所、発行年 |
p297 |
|
| 写真資料提供一覧 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
機関名・社名・人名、写真資料名、社史での掲載ページ |
p298 |
|
| 編集全般にお世話になった団体、個人の方々 |
[平成2年(1990年)1月現在] |
団体・個人の50音順 |
p298 |