収録社史一覧

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
三菱製紙(株) パルプ・紙 『三菱製紙七十年史』(1970.04) 60年史を圧縮して掲載した後に、10年間の歩みを工場ごとに詳述した70年史。1966年(昭41)には白河パルプ工業(株)と合併、パルプから紙に至る一貫生産体制を確立。
三菱製紙(株) パルプ・紙 『更上一層楼 : 三菱製紙90年のあゆみ』(1990.05) 創業からの歩みを90の章立てで記述した90年史。直近30年に重点をあて、読みやすくコンパクトに編集。書名は「さらに一段と高見に上がって千里の目を窮め、次への飛翔を果たしたい」という意を込めたもの。
三菱製紙(株) パルプ・紙 『三菱製紙百年史』(1999.06) 創業100周年を記念し、創業からの通史として編纂した百年史。巻末索引と別冊資料編付。
三菱製紙(株) パルプ・紙 『三菱製紙百年史. 資料編』(1999.06) 『三菱製紙百年史』(社史ID:02980)の資料編
三菱石油(株) 石油 『三菱石油五十年史』(1981.02) 第1次大戦後石油の重要性が高まり、石油事業に関心を寄せた三菱商事は原油を輸入し国内精製するために、三菱合資、三菱鉱業と共に米国アソシエーテッド石油会社の出資を得て1931年三菱石油(株)設立。戦後は再建整備の後1960年には水島製油所操業開始、激増するエネルギー需要に応える。50年史は石油業界の変遷の中に会社の沿革をとらえて記述している。[1999年日本石油(株)と合併し日石三菱(株)発足、2002年新日本石油(株)と改称]
三菱倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『三菱倉庫百年史. [通史]』(1988.03) 岩崎弥太郎が1873年設立した三菱商会では、為替を扱う三菱為替店を1880年東京に設立。海運貨物の荷捌所を開設し、倉敷(倉庫)業務を1885年分離、1887年東京倉庫会社発足。港湾倉庫業へ進出し、三菱社の発展に伴い1918年三菱倉庫(株)と商号変更。第二次大戦後は総合物流業から不動産業へと業容を拡大する。100年史は索引付きの通史と、別冊の「編年誌・資料」からなる。
三菱倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『三菱倉庫百年史. 編年誌・資料』(1988.03) 『三菱倉庫百年史. [通史]』(社史ID:13140)の資料編
三菱造船(株) 造船 『三菱造船株式会社史』(1967.06) 旧三菱重工業の解体により1950年発足した西日本重工業(株)は、長崎造船所・下関造船所・広島造船所・長崎精機製作所・広島精機製作所の事業を継承。1952年三菱造船(株)に社名変更、1964年3社の合併により再び三菱重工業(株)となる。この15年史は他2社の「新三菱重工業株式会社史」「三菱日本重工業株式会社史」と同じ監修者の元に同時に刊行された。第1部総論では15年間の沿革、第2部各論では部門・事業所ごとの歩みを詳述。詳細な図表目次と索引付。
三菱造船(株)長崎造船所 造船 『創業百年の長崎造船所』(1957.10) 1853年ペリーが来航し幕府は開国の方針を決め海軍創設を企図。外国への窓口であった長崎に1857年長崎鎔鉄所が建設され、後に官営長崎造船所となる。海運を営んでいた三菱社の岩崎弥太郎は1887年長崎造船所の払下を受け、三菱造船所と改称。1934年三菱重工業(株)に改組、戦後財閥解体により西日本重工業(株)を経て1952年三菱造船(株)長崎造船所となる。明治期から軍艦や舶用ボイラなどの造機の建造も手がけ、1956年には世界一の船舶建造量を誇る。百年史は写真を多くとりいれ目で見る社史として編纂。
三菱高島炭砿(株) 鉱業 『高島炭砿史』(1989.01) 長崎港外の高島(高島・横島・中ノ島・端島)では、佐賀藩がグラバー商会と共同で石炭採掘事業を始め、1881年岩崎弥太郎が経営を引き継ぐ。1918年三菱鉱業(株)設立、その1事業所となる。創業期に英国の最新技術を導入、その後も組織の合理化・近代化をはかり、当初炭量150万tと予想されたが、最終的には5,500万tもの出炭をみる。1966年、戦後のエネルギー転換期に三菱高島炭砿(株)として独立。石炭産業の不振により1986年閉山。[軍艦島と呼ばれる端島は世界遺産への登録運動が行なわれている]
三菱電機(株) 電気機器 『建業回顧』(1951.01)
三菱電機(株) 電気機器 『三菱電機社史』(1982.03)
三菱電機(株)開発本部 電気機器 『三菱電機研究所50年史』(1986.03)
三菱日本重工業(株) 機械 『三菱日本重工業株式会社史』(1967.06) 旧三菱重工業の解体により1950年発足した東日本重工業(株)は1952年三菱日本重工業(株)に社名変更、1964年3社の合併により再び三菱重工業(株)となるまでの15年史。他2社の「新三菱重工業株式会社史」「三菱造船株式会社史」と同じ監修者の元に同時に刊行された。第1部沿革、第2部資料編からなり、経済経営史の観点から外部研究者が執筆。
三菱油化(株) 化学工業 『三菱油化三十年史』(1988.03) 酒田出身の池田亀三郎は1909年東京帝大卒業後三菱合資に入社、石炭化学工業の創設をはかり1934年日本タール工業(後の三菱化成工業)設立。戦後基幹素材産業として発展が期待された石油化学製品を国産化するため、三菱グループとシェルが提携し1956年三菱油化(株)創立、池田が初代社長。30年史は創業前史としてわが国化学工業の成立と三菱の関わりを述べ、本編で創業からの躍進と激動の歩みを記す。[1994年三菱化成工業と合併し三菱化学(株)となる]
三菱レイヨン(株) 繊維 『30年史』(1964.08) 大阪・新興毛織の河崎助太郎と賀集盆蔵は人造繊維工業に関心を寄せ、1933年新興人絹(株)設立。レーヨンステープル生産を開始、繊維会社を持たなかった三菱が経営参加を申し入れ、1937年日本化成工業(株)の傘下に入る。1944年三菱化成工業(株)となるが、戦後財閥解体により繊維部門は1950年新光レイヨン(株)として新発足。1952年三菱レイヨン(株)と改称、総合化繊メーカーとして発展する。30年史は創業からの沿革と資料編からなる。[三菱レイヨン(株)沿革 http://www.mrc.co.jp/company/history.html]
南満洲鉄道(株) 鉄道・バス 『南満洲鉄道株式会社十年史』(1919.05(大正8))
南満洲鉄道(株) 鉄道・バス 『南満洲鉄道株式会社二十年略史』(1927.04) 20世紀初頭にロシアは満州里からウラジオストクを結ぶ東清鉄道とハルビンから旅順・大連へ南下する支線を建設経営してきた。1905年(明38)日露戦争後の日清満州善後条約並附属協定により、日本は長春以南の鉄道と炭抗経営権等について清国政府の承諾を得る。1906年(明39)南満州鉄道株式会社設立の勅令が公布され、政府により鉄道運輸業を行う特殊会社が発足、本社は大連。翌年鉄道施設と撫順・煙台炭抗を政府から引継ぎ営業開始する。20年史は会社の組織、事業、会計の3編からなり、事業には鉄道、海運、港湾、鉱山、製鉄、工業、産業施設(農業・商工業等)、地方施設(鉄道附属地)、および調査事業が挙げられている。市街や鉄道施設等の写真入り。[渋沢栄一は設立委員][1945年連合国により閉鎖機関に指定、1957年清算終了]
南満洲鉄道(株) 鉄道・バス 『南満洲鉄道株式会社三十年略史』(1937.04)
南満洲鉄道(株) 鉄道・バス 『満鉄四十年史』(2007.11)
ミヨシ油脂(株) 化学工業 『ミヨシ油脂株式会社八十年史』(2002.12)
明治火災保険(株) 保険 『明治火災保険株式会社五十年史』(1942.06) 1881年明治生命保険会社を設立した荘田平五郎と阿部泰蔵は、火災保険業の創設を計画し1888年火災保険会を設立。株式会社に改め1891年明治火災保険(株)創立、渋沢栄一は発起人。わが国の経済活動拡大に沿って営業躍進し、1915年には東京海上保険と資本の交流を行い、又海外にも支店を設置する。1941年の創立50年に社名を明治火災海上保険(株)と改める。[1944年東京海上火災保険、三菱海上火災保険と合併し、東京海上火災保険(株)となる]
明治製菓(株) 食品 『明治製菓株式会社二十年史 : 創立二十周年記念』(1936.04) 1906年(明39)台湾に設立の明治製糖では砂糖消費増進のため、1916年(大5)大正製菓を設立。同時期設立の東京菓子へ翌年合併し製造開始、キャラメルやビスケットを発売し好評を博す。1920年(大9)房総練乳を合併し製乳事業を開始。1924年(大13)明治製菓と改称、全国に工場を作り朝鮮、満州、スマトラにも進出する。20年史は会社設立の経緯の後、製菓部と製乳部それぞれの工場略史を掲載。また明治製乳(株)ほか傍系会社にも触れ、工場や商品の写真、製品名一覧等を記載している。[2009年(平21)明治乳業との共同持株会社明治ホールディングスを設立し、子会社となる]
明治製糖(株) 食品 『十五年史』(1921.04)
明治製糖(株) 食品 『明治製糖株式会社三十年史』(1936.04) 欧米で糖業研究を学んだ相馬半治(そうま・はんじ、1869-1946)は台湾で糖業指導に当たり、渋沢栄一らの協力を得て1906年(明39)台南に明治製糖設立。栄一は発起人、創立委員長、相談役を務める。台湾及び内地に工場を建設、同業他社を次々合併し業容を拡大。30年史はコンパクトな装丁ながら工場等の写真を多く掲載し、沿革・現況のほか脱税嫌疑を掛けられた1932年(昭7)の明糖事件や、明治製菓、明治乳業等の傍系事業にも触れている。[戦後内地資産で明糖(株)設立、後に明治製糖を経て1996年(平8)大日本製糖と合併、大日本明治製糖となる]
明治生命保険(株) 保険 『明治生命五十年史』(1933.12)
明治生命保険(株) 保険 『明治生命保険株式会社六十年史』(1942.12)
明治生命保険(相) 保険 『明治生命七十年史』(1955.07)
明治生命保険(相) 保険 『明治生命の九十年』(1973.07)
明治生命保険(相) 保険 『明治生命百年史』(1981.07)
明治生命保険(相) 保険 『目でみる明治生命の110年』(1993.03)
明治生命保険(相) 保険 『創業第二世紀の明治生命110年史』(1993.03)
明治生命保険(相) 保険 『創業第二世紀の明治生命110年史. 資料編』(1993.03) 『創業第二世紀の明治生命110年史』(社史ID:11010)の資料編
明治生命保険(相) 保険 『明治生命百二十年史 : 1881~2001』(2003.03) 1881年に設立された、日本で最初の近代的生命保険会社。岩崎弥太郎の下で仕事をしていた荘田平五郎と、福沢諭吉門下の小泉信吉の話合いが始まり。発起人は小幡篤次郎、朝吹英二、阿部泰蔵、荘田平五郎ら11名。当初は株式会社だったが、戦後は1947年にGHQの勧奨もあり、相互会社組織となる。2004年に安田生命と合併する経緯にもふれている。社史は40年記念誌以降10年ごとに7回刊行されていて、この120年史では1982年以降の事項に多くページを割いている。
明治乳業(株) 食品 『おいしさと健康を求めて : 明治乳業70年史 : 激動と変化のこの10年』(1987.12) 明治乳業の一方のルーツである明治製糖は、1917年(大6)房総練乳に資本参加。房総練乳は1920年(大9)東京菓子に合併、東京菓子は1924年(大13)明治製菓に商号変更する。他方静岡の花島練乳場と北海道の札幌練乳場が合併し1917年(大6)極東練乳設立。各地に工場を開設し事業展開するが、不況による業績悪化のため1935年(昭10)明治製菓が経営に参加。戦時の統制強化の中で1940年(昭15)明治製菓は製乳部門を分離独立させ経営を極東練乳に委任、商号を明治乳業とした。戦後はアイスクリームなどの新商品を開発し技術革新を重ねる。50年史、60年史に続く70年史は読みやすさを重視した編集で、現況、創業からの60年史、それ以降の10年史、社員座談会という構成。[2009年(平21)明治製菓との共同持株会社明治ホールディングスを設立し、子会社となる]
(株)明治屋 小売業 『明治屋百年史』(1987.12) 津山出身の磯野計(いその・はかる、1858-1897)は東大法学部卒業後1880年(明13)三菱の援助で英国に留学し、3年間商業実務を学ぶ。後に郵便汽船三菱会社で食料品等の納入実務を経験。1885年(明18)日本郵船創立を機に、外国人が握っていた同社の食料品・雑貨の納入権を獲得し、同年横浜で明治屋を創業。1888年(明21)にはキリンビールの一手販売権を獲得、明治屋の基礎を強固なものにした。1903年(明36)合名会社、1911年(明44)株式会社に改組。第二次大戦後は占領軍家族向け日用品販売でいち早く復興を遂げ発展。100年史は社内で編集し、食文化向上を目指した創業者の開拓者精神を詳述。資料にある明治末期の取扱商品リストには当時の価格が掲載されている。
(株)明電舎 電気機器 『明電舎100年史. 沿革・資料編』(1998.06) 三吉電機工場で電気機械製造を修業した重宗芳水(しげむね・ほうすい、1873-1917)は、1897年(明30)有志と共に明電舎を創設。当初は輸入発電機・電動機などの修理やスイッチ等の製造を行っていたが、変圧器、配電盤、発電機、電動機の製造へと事業を拡大。明治末期に高圧遠距離送電時代を迎えると明電舎モートル(電動機)の需要は一層高まり「モートルの明電」の礎を築く。1966年(昭41)住友グループに入り経営体質の改善を図り、トータルシステムエンジニアリング企業を目指す。100年史は沿革・資料編と技術製品編からなり、沿革の冒頭に「明電舎100年の歩み」として各時代の製品・工場等の写真を掲載。別冊の技術製品編では分野ごとの技術の変遷を詳述している。
(株)明電舎 電気機器 『明電舎100年史. 技術製品編』(1998.06) 『明電舎100年史. 沿革・資料編』(社史ID:06140)の技術製品編
(資)紅葉屋商会 証券 『紅葉屋十年志』([1911.11凡例]) 愛知出身の神田鐳蔵(かんだ・らいぞう、1872-1934)は1900年(明33)東京に株式仲買の紅葉屋を創業。都会の同業者の排斥を受けるが、第一銀行の取引を得て公債取引で利益を上げる。1902年(明35)以来有価証券の市価を掲載した英文紅葉屋日報(Daily report of the Momijiya)を発行。1904年(明37)有価証券金庫銀行必要論を渋沢栄一に陳情し知遇を得る。1910年(明43)組織を改め(資)紅葉屋商会とし、翌年には国債証券の保護預りも行う(名)紅葉屋銀行を設立。10年史は創業からの沿革を、店舗や株券、渋沢栄一の書状等の写真と共に記載。[紅葉屋銀行は1918年(大7)(株)神田銀行となるが、1928年(昭3)破産し翌年強制和議申請]
森田ポンプ(株) その他輸送機器 『70年のあゆみ』(1977.04)
森永製菓(株) 食品 『森永五十五年史』(1954.12) 佐賀出身の森永太一郎(もりなが・たいちろう、1865-1937)は米国で西洋菓子製法を学び、1899年(明32)東京に森永西洋菓子製造所を設立。1905年(明38)には貿易商松崎半三郎(まつざき・はんざぶろう、1874-1961)が入店し支配人となる。1910年(明43)会社組織の森永商店設立、1912年(大1)森永製菓と改称。創業時から製造しバラ売りしていたキャラメルは、改良を重ね一粒ずつ包装し携帯に至便かつ外箱を紙にすることで安価になり、菓子店のドル箱となった。1942年(昭17)戦時の企業統合により森永乳業、森永食品工業、東海製菓、森永関西牛乳を合併、翌年森永食糧工業と改称するが、戦後1949年(昭24)商事部門、乳業部門を分離し、森永製菓に社名復帰した。55年史では第1部が森永太一郎と松崎半三郎の回顧録、第2部が創業からの写真録で商品や広告等を紹介、第3部は資料。
森永製菓(株) 食品 『森永製菓一〇〇年史 : はばたくエンゼル、一世紀』(2000.08)
森永乳業(株) 食品 『森永乳業五十年史』(1967.09) 森永製菓(株)は主要商品森永ミルクキャラメルの原料である練乳を自社製造するため、愛国煉乳を買収し1917年(大6)日本煉乳を創立。1920年(大9)森永製菓に合併しその畜産部となるが、1927年(昭2)には分離し森永煉乳を設立。1941年(昭16)に森永乳業と改称するが、翌年再び森永製菓に合併。森永製菓は1943年(昭18)森永食糧工業と改称、1949年(昭24)同社の乳業部が分離独立して現在の森永乳業が設立された。日本煉乳創立からの50年史は社長自ら執筆の創業篇に始まり、パイオニア篇、販売篇、酪農篇、幾山河(回想記、MF事件被災児法要含む)、現況、年表という構成。本文中に多くの図表を取り入れ、ジャーナリストの編集により10ヶ月で完成した。
森村商事(株) 商社 『森村百年史』(1986.10) 江戸京橋の商家に生まれた森村市左衛門(六代)(もりむら・いちざえもん、1839-1919)と弟の森村豊(もりむら・とよ、1854-1899)は輸出貿易を志し、1876年(明9)東京銀座四丁目に匿名組合森村組を設立。第一次世界大戦下の好況期、1904年(明37)日本陶器合名会社(現・ノリタケカンパニーリミテド)、1917年(大6)東洋陶器(現・TOTO)、1919年(大8)日本碍子(現・日本ガイシ)を設立し、セラミック分野に一王国を築く。1946年(昭21)社名を森村商事に改称し敗戦後の再建に着手、窯業関連品・香料・インキ等の輸入業務に進出する。また1910年(明43)に市左衛門が自邸に幼稚園と小学校を設立、今日の森村学園の礎となる。「編集後記」には百年史編纂に使用した『森村翁言行録]』などの参考文献・資料とそれらの所在、さらに証言を得た関係者などについて詳述されている。
(株)八木商店 繊維 『創業80年史』(1972.10)
(株)安川電機製作所 電気機器 『安川電機40年史 : 1915-1955』(1956.04)
安田火災海上保険(株) 保険 『80年史 : 安田火災海上保険株式会社』(1968.11) 明治初期に国営の火災保険事業が計画されたが実現せず、その計画書類を後に発見した柳川清助と鵜殿長らが1888年民営初の東京火災保険会社を設立。1893年武井守正と安田善次郎が帝国海上保険(株)を設立。両者は1944年政府の勧奨により、第一機缶保険(株)と共に合併し、安田火災海上保険(株)発足。80年史は東京火災・帝国海上それぞれの編年史に加え、次々合併した東洋火災・太平火災・第一火災・第一機缶各社の略史も掲載。最後に合併後の安田火災海上保険の編年史を載せている。
安田火災海上保険(株) 保険 『挑戦と躍進 : 安田火災百年小史』(1988.10) 『安田火災百年史 : 明治21年~昭和63年』(1990.10)(社史ID:11060)の普及版として刊行、執筆は外部研究者。内容の構成は80年史と同様。1976年に本店ビル内に設置した東郷青児美術館で所蔵する、ゴッホ「ひまわり」を社史巻頭に掲載。[2002年日産火災海上保険(株)と合併し、(株)損保ジャパンとなる]
安田火災海上保険(株) 保険 『The Yasuda Fire and Marine Insurance, 1888-1988 : a century of achievement』(1988) 『安田火災百年史 : 明治21年~昭和63年』(1990.10)(社史ID:11060)に先立ち刊行された、英語版100年史。
安田火災海上保険(株) 保険 『安田火災百年史 : 明治21年~昭和63年』(1990.10)
(株)安田銀行 銀行 『安田銀行六十年誌』(1940.09) 安田善次郎は両替商から始まり実質的に銀行であった安田商店を改組し、1880年東京日本橋に合本安田銀行を設立。紀元二千六百年に出された60年史は、設立以前の安田商店時代から、合本組織、合資会社、合名会社、株式会社の時代ごとに編年体で記述。1923年に11行が合同した経緯と各行の略史も記載。[1948年富士銀行と改称]
安田信託銀行(株) 銀行 『安田信託銀行四十年史』(1965.12) 1900年以降わが国民間信託会社が続々と設立され、1923年信託法と信託業法が施行。日本興業銀行総裁を務めた志立鉄次郎は安田銀行副頭取結城豊太郎の協力を得て信託会社設立を計画。全国から発起人を募り1925年大阪に共済信託(株)設立、社長は2代安田善次郎。1926年安田信託(株)と改称、1933年東京へ本店を移す。戦後信託銀行に転換し、1948年中央信託銀行(株)誕生、1952年安田信託銀行(株)となる。第1部では40年の歩みを編年体で記述、第2部は現況、資料等。900頁の大部ながら目次は20行と簡略。
安田信託銀行(株) 銀行 『安田信託銀行五十年史』(1976.09) 前半は40年史の内容を半分ほどにまとめているが、初代安田善次郎が1899年渋沢栄一の欧米視察の話により信託業務に関心を抱いた挿話は記載されている。後半は最近10年間の経済変動化での業務について詳述。
安田信託銀行(株) 銀行 『安田信託銀行六〇年のあゆみ』(1986.03) 前編として創立から50年までの歩みに触れた後、最近10年の出来事を中心に新商品の開発とサービス向上の側面に焦点をあてて編集。ハンディな体裁。[2002年みずほアセット信託銀行、2003年みずほ信託銀行となる]
安田生命保険(相) 保険 『八十年史』(1961.12)
安田生命保険(相) 保険 『安田生命百年史』(1980.12) 安田善次郎は我が国初の生命保険会社として1880年東京に共済五百名社を設立。1928年に安田生命保険(株)となり、戦後一時光生命保険(相)と称したが、1952年安田生命保険(相)に復帰。百年史は巻頭に研究者による論文「共済五百名社の歴史的意義」を掲げ、序章で安田善次郎の人と事業観に触れる。戦後史は長期計画期ごとの時代区分で経営史を述べ、更に付篇として10分野ごとの経営政策の軌跡を記す。
安田生命保険(相) 保険 『安田生命123年史』(2003.09) 創始者安田善次郎は生命保険業を営利事業でなく社会事業とみなし、一貫して「相互扶助」の原点にこだわる。また財閥の安定株主として常に競争より安全な経営を指向。2004年明治生命と合併。
安田生命保険(相) 保険 『45000日の「今日一日」 : 安田生命の123年』(2003.09) 『安田生命123年史』の姉妹編で、執筆を社外に依頼し読みやすくコンパクトにまとめたもの。本文の間に年代ごとのエピソードをまとめたコラムと、写真集をはさんだ構成。2004年明治生命と合併し、明治安田生命保険(相)となった経緯にも触れている。
安田保善社 商社 『安田保善社とその関係事業史』(1974.06) 1838年富山の下級士族の家に生まれた初代安田善次郎は、商人として身を立てるため江戸へ出、1864年両替商安田屋を開業。1880年に安田銀行を設立、また生命保険事業を行う共済五百社を結成。1887年には資産を維持し一族の繁栄に資するため私盟組織保善社が発足。1912年合名会社保善社設立、1925年に合名会社安田保善社と改称。以後戦後の財閥解体により解散までの事業史を編年体で記述した社史は、1960年から13年かけて関係者により編纂される。1988年には別冊で詳細な人名・企業名索引が出版されている。
安田保善社 商社 『安田保善社とその関係事業史. 人名索引,企業・団体名索引』(1988.12) 『安田保善社とその関係事業史』(社史ID:08020)の索引
(株)ヤナセ 自動車・自動車部品 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 1』(1981.12)
(株)ヤナセ 自動車・自動車部品 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 2』(1982.06) 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 1』(社史ID:06800)の2巻
(株)ヤナセ 自動車・自動車部品 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 3』(1984.01) 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 1』(社史ID:06800)の3巻
(株)ヤナセ 自動車・自動車部品 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 4』(1986.03) 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 1』(社史ID:06800)の4巻
(株)ヤナセ 自動車・自動車部品 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 5』(1987.10) 『轍 (わだち) : 日本自動車界のあゆみとヤナセ. 1』(社史ID:06800)の5巻
八幡製鉄(株) 鉄鋼業 『炎とともに : 八幡製鉄株式会社史』(1981.03) 1950年過度経済力集中排除法の適用により日本製鉄(株)が解体され、富士製鉄(株)・日鉄汽船(株)・播磨耐火煉瓦(株)とともに八幡製鉄(株)が発足。以降日本経済の発展に沿って成長し、光・堺・君津にも製鉄所を建設。1970年富士製鉄(株)と合併、新日本製鉄(株)となる。社史は20年間の歩みを総合史と部門史に分けて記述。同時に刊行された「富士製鉄株式会社史」「新日本製鉄株式会社十年史」は「炎とともに」の共通タイトルを持つ。
八幡製鉄(株)八幡製鉄所 鉄鋼業 『八幡製鉄所五十年誌』(1950.11) 明治初期に官民の鉄鋼業がいくつか起こったがいずれも不振であり、政府は新たな官営製鉄所の設置を図る。1896年製鉄所官制発布、福岡県遠賀郡八幡村に設置が決まり、和田維四郎が長官就任。外国人技師を雇い1901年に八幡製鉄所が作業開始、東洋一の操業を誇る。1934年法律に基づき民間の5社と合併、日本製鉄(株)となる。50年史は創業から1950年に日本製鉄が解体し民間の八幡製鉄(株)となるまでの歩みで、簡単な沿革の後に部門ごとの詳細を述べている。渋沢栄一の三男正雄が1940~1942年に所長を務めた。
山一証券(株) 証券 『山一証券史』(1958.11) 1897(明30)年株式売買の小池国三商店(後に小池(資))を創業した小池国三(こいけ・くにぞう、1866-1925)は、東京商業会議所議員となり1909年(明42)渡米実業団(渋沢栄一団長)の一員として渡米、株式仲買の新知識を得る。帰国後1911年(明44)商栄銀行を買収して経営にあたる(後に小池銀行と改称)。1927年(昭2)銀行法公布により銀行の公社債業務兼業廃止が決まり、証券業務を分離し1930年(昭5)小池証券を設立。一方解散した小池(資)関係者設立の山一(資)は1926年(大15)山一証券に組織変更。1943(昭18)年金融統制により小池、山一両証券が合併し、新たに山一証券が設立される。創業60周年を記念して出版された本社史は、前編が明治以来のわが国証券市場発達史、後編が小池国三商店創業から1957年(昭32)までの山一証券史。[1997年(平9)自主廃業、企業資料は東京大学経済学部図書館へ寄贈される]
山一証券(株) 証券 『山一証券100年史. 上』(2011.10)
山一証券(株) 証券 『山一証券100年史. 下』(2011.10) 『山一証券100年史. 上』(社史ID:10270)の下巻
(株)山口銀行 銀行 『山口銀行史』(1968.09)
(株)山口銀行 銀行 『山口銀行史』(1999.06) 1878年設立の第百十国立銀行を母体に、1944年国策に従い山口県下の5行が合併して山口銀行となる。1977年に徳山東支店で起きた不祥事件についても記載あり。社史は索引は簡単だが目次は詳細。山口県の歴史文化を表した本店の壁面彫刻が絵引き付で掲載されている。
(株)山口銀行 銀行 『山口銀行史. 資料編』(1999.06) 『山口銀行史』(社史ID:10030)の資料編
山下新日本汽船(株) 海運 『社史 : 合併より十五年』(1980.06)
(株)山武 電気機器 『山武百年史 : 新たなる価値創造・オートメーションの拓く未来』(2007.06)
山種証券(株) 証券 『山種証券50史話』(1984.02)
大和運輸(株) 陸運 『大和運輸五十年史』(1971.03) 東京数寄屋橋生まれの小倉康臣(おぐら・やすおみ、1889-1979)は、貨物輸送が荷車と牛馬車全盛の時代にトラック輸送専門の企業化に強く心をひかれ、1919年(大8)大和運輸を創業。三越呉服店等との配達契約を結び、1929年(昭4)には東京・横浜間の定期運輸を開始する。1940年(昭15)鉄道省の勧奨により全資本を日本通運が持つが、1948年(昭23)日通資本を離脱。1957年(昭32)米国アライドヴァン社からネコマークの使用承認を受け「親子猫」のマークを制定。サービス向上に努め海上コンテナや航空貨物の取扱いも開始する。50年史は社史編、創業者の自伝編、トラックの移り変わりや制服等の写真も含む資料編からなる。索引付。[1982年(昭57)ヤマト運輸と商号変更、2005年(平17)純粋持株会社ヤマトホールディングスへ移行]
ヤマト運輸(株) 陸運 『ヤマト運輸70年史』(1991.06)
(株)山梨中央銀行 銀行 『創業百年史』(1981.03) 幕府直轄の山梨は維新後武士が四散し、士族授産事業に見るべきものはなかった。山梨県令らが殖産興業を目的に地元富農豪商の出資者を募り、1874年(明7)銀行類似会社興益社を設立、第一国立銀行とコルレス契約を結び体制を整備する。1877年(明10)第十国立銀行へ転換し、1897年(明30)国立銀行の営業満期により普通銀行の第十銀行に商号変更。産業経済の発展と共に業容を拡大する。1941年(昭16)一県一行の国の強力な要請に応えて有信銀行と合併、山梨中央銀行となる。100年史は創業前史、本誌、県内銀行史、資料からなり、創業前史で興益社を、本史で第十国立銀行創立から山梨中央銀行の沿革を詳述。県内銀行史には合併した有信銀行ほか80行もの略史を掲載している。
山本鋼業(株) 鉄鋼業 『山本家創業八十周年小史』(1952.06)
ヤンマーディーゼル(株) 機械 『ヤンマー50年小史』(1963.04)
ヤンマーディーゼル(株) 機械 『燃料報国 : ヤンマー70年のあゆみ』(1983.06)
湯浅金物(株) 小売業 『三百年ののれん』([1969.06])
(株)有終会 不動産 『有終会のあゆみ : 創立40周年を記念して』(1989.10) 有終会は1893年(明26)頃、第一銀行行員の自社株取得の便宜を図り、福利厚生策の一部を分担するため、渋沢栄一の「合本主義」の思想に基づき栄一を会長に任意団体として設立された。社名は四書五経によるもので、命名者は栄一と推察される。1912年(明45)第一銀行が二十銀行を合併したため二十銀行所有の根室牧場の移管を受け、1912年(明45)合資会社有終会として酪農および畜産に寄与する。戦後1948年(昭23)年解散するが、翌年には不動産および保険業を定款に掲げ合資会社として再スタート、1952年(昭27)株式会社となる。40年史は前史に任意団体発足時から解散まで、本史に再スタートからの歩みを記載。[1993年(平5)ユウシュウコープ、2009年(平21)ユウシュウ建物に社名変更]
(株)有隣堂 小売業 『有隣堂八十年史』(1989.10) 横浜生まれの松信大助(まつのぶ・だいすけ、1884-1953)は、1894年(明27)に父と長兄が横浜に開業した書籍販売の第一有隣堂から独立、1909年(明42)第四有隣堂を開業した。姉は第二有隣堂、次兄は第三有隣堂を開業していたが、大助は義兄と共に1917年(大6)有隣堂文具部を設立。1919年(大9)第四有隣堂は第一有隣堂と有隣堂文具部を合併し、(株)有隣堂と改組。しかし関東大震災の打撃が重く1927年(昭2)株式会社を解散、個人経営として経営再建に努め、1931年(昭6)(名)有隣堂を設立。1956年(昭31)株式会社に改組し、書店を中心とした地域の文化センターを目指して発展する。80年史では横浜地域史、出版業界の状況も含めて記述。社名の有隣は論語から採っている。
雪印乳業(株) 食品 『雪印乳業沿革史』(1985.04)
ユサコ(株) 商社 『ユサコ55年の歩み』(2004.08)
ユニチカ(株) 繊維 『ユニチカ百年史. 上』(1991.06)
ユニチカ(株) 繊維 『ユニチカ百年史. 下』(1991.06) 『ユニチカ百年史 上』(社史ID:02520)の下巻
(株)横河橋梁製作所 建設 『横河橋梁五十年史』(1960.05) 帝国大学造家学科出身の横河民輔(よこがわ・たみすけ、1864-1945)は三井元方でわが国初の鉄骨構造の三井総本店の設計・施行を担当、渡米してアメリカの工法を学ぶ。1903年(明36)横河工務所を設立。鉄骨構造物を主体とする建築物の鉄材の自給および鉄材による橋梁の建設を目指し、1907年(明40)製作組立て部門を分離独立させ、横河橋梁製作所を創業。1918年(大7)株式会社へ改組、各地の鉄道橋梁や無線電信塔など鉄骨建造物を数多く建設する。50年史は1章から7章は時代順に会社の発展過程を記述、8章から11章は部門別の資料と現況。随所に製品写真を多数盛り込んでいる。[1991年(平3)横河ブリッジと社名変更]
(株)横河橋梁製作所 建設 『横河橋梁八十年史』(1987.11) 1907年(明40)創業からの80年史。創業者横河民輔の伝記を序章とし、戦前編4章、戦後編5章、資料編からなり、人名・製品・事項索引付。1960年(昭35)刊行の50年史の不足を補い、経営上の失敗や過誤も記述している。執筆は社内だが、社史作りの専門家との共同作業の過程を編集後記に詳述。[1991年(平3)横河ブリッジに社名変更]
(株)横河建築設計事務所 建設 『横河建築設計事務所 : 80年の流れ』(1983.10) 1890年(明23)帝国大学造家学科を卒業した横河民輔(よこがわ・たみすけ、1864-1945)は、三井元方の建築掛技師として三井総本店の設計監督にあたる。その完成を機に三井を退社し、1903年(明36)日本橋に建設の設計・監理を行なう横河工務所を開設。三越呉服店などを建築し、帝国劇場の設計を劇場創立委員会(委員長渋沢栄一)より依頼され、1911年(明44)に竣成。その他日本工業倶楽部・東京株式取引場など数多くの建築にあたる。1953年(昭28)株式会社となり、1969年(昭44)横河建築設計事務所と改称。80年史は創立からの歩みを概観した後、建築作品写真を各時代ごとに掲載している。
(株)横河電機製作所 電気機器 『計測器ひとすじに : 横河電機の50年』(1965.09) 1903年(明36)横河工務所を起こした建築家横河民輔(よこがわ・たみすけ、1864-1945)は、建築と関係の深い電気設備に着目。欧州で技術を学んだ甥の横河一郎(よこがわ・いちろう、1885?-1938)と技術者青木晋(あおき・しん、1888?-1938)を中心に1915年(大4)電気計器研究所を設立。翌年横河電機製作所と改称し、第一次大戦の影響で欧州産電力計の輸入が途絶すると、電気計器国産化の旗手として急成長。さらに工業計器、オートメーションの自動制御装置などの開発により工業化の波に乗る。50年史は序章で創立者横河民輔の人物に触れ、第1-10章では時代を追って沿革をまとめている。[1983年(昭58)北辰電機製作所と合併し横河北辰電機となり、1986年(昭61)横河電機に社名変更]
(株)横河ブリッジ 建設 『横河ブリッジ百年史』(2008.04)
横浜生糸取引所 その他金融業 『横浜と絹の百年』(1994.04) 明治以降横浜から積み出される生糸は輸出商品の花形であった。横浜の蚕糸貿易商は生糸価格の安定と需給の円滑化を目的に取引所設立を計画。1894年(明27)蚕糸、製茶、綿布、織物、海産物を対象とした横浜蚕糸外四品取引所が設立。1910年(明43)横浜株式米穀取引所と合併し横浜取引所と改称。戦時下蚕糸業の縮小により経営悪化し1943年(昭18)解散。戦後GHQは蚕糸業復興を支援し生糸取引が再開、1951年(昭26)横浜生糸取引所が創立される。明治期の取引所開設からの100年史は開国から昭和前期の生糸貿易最盛期に重点をおき、蚕糸取引業の歩みを簡潔にまとめたもの。[1998年(平10)前橋乾繭取引所と合併し横浜商品取引所となる(現(株)東京穀物商品取引所。2009年(平21)生糸取引は休止)]
(株)横浜銀行 銀行 『横浜銀行四十年史』(1961.04) 1878年横浜に設立された第七十四国立銀行(後に七十四銀行)は、大正期に経営不振から休業。原富太郎ら横浜の財界人が奔走し、七十四および横浜貯蓄銀行を整理して1920年新たに(株)横浜興信銀行を設立。神奈川県下の銀行と次々合同し、1957年(株)横浜銀行と改名。40年史は1950年に出版された「横浜興信銀行三十年史」以降の10年間の歩みを詳述し、後半に30年略史を載せている。
(株)横浜銀行 銀行 『横浜銀行六十年史』(1980.12) 1920年の(株)横浜興信銀行設立からの60年の歩みを通史で述べる。第1部は神奈川県の中枢金融機関として横浜開港から記述を始め、1957年の(株)横浜銀行への行名変更まで。第2部では以降の20年間の躍進について詳述。
(株)横浜銀行 銀行 『横浜銀行の歩み : 地域とともに141年 : 創立90周年記念誌』(2011.05)
(株)横浜銀行 銀行 『写真でみる横浜銀行の歩み : 地域とともに141年』(2011.05)
横浜護謨製造(株) ゴム 『四十年史』(1959.01)
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