収録社史一覧

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
(株)七十七銀行 銀行 『七十七銀行小史』(1954.05) 「七十七年史」と章立てはほぼ同じで、読みやすいハンディな形にして同時期に出版したもの。執筆は外部研究者に委嘱。
(株)七十七銀行 銀行 『七十七銀行百年史』(1979.04)
(株)七十七銀行 銀行 『東京証券取引所と七十七銀行 : 九十年にわたるその歩み』(1984.12) 1878(明治11)年、宮城県内の士族たちにより第七十七国立銀行が創立。1882(明治15)年、日本橋区南茅場町に東京支店を開設。1898(明治31)年、株式会社七十七銀行に改組。1932(昭和7)年、同行と株式会社東北実業銀行、株式会社五城銀行が合併し、新たに株式会社七十七銀行となる。2編4章からなる本社史は、第七十七国立銀行が1894(明治27)年に東京株式取引所から株式売買の清算にかかわる出納業務、いわゆる場勘業務を受託してから90年の節目に接し、その史実を記録に留め、直面する証券・金融の新しい時代に処する糧とすべく刊行された。第1編は同行東京支店(のちの株式会社七十七銀行日本橋支店)を通じた東京株式取引所(株式会社東京証券取引所)の場勘業務の引き受けの歴史について、第2編は同行に深くかかわった渋沢栄一の足跡および同行と栄一の由縁についてまとめられている。東北地方の振興を主張した渋沢栄一は第七十七国立銀行の創立に対し指導、株主として資金面からも支援した。同行が株式会社になると相談役として引き続き経営を支えた。東京支店の開設に際しても場所の選定に口添えしている。
(株)七十七銀行 銀行 『七十七銀行120年史』(1999.03)
(株)七十七銀行 銀行 『いわき市と七十七銀行平支店百年の歩み : 地域と共に一世紀』(2019.01) 1878(明治11)年、第七十七国立銀行として現在の宮城県仙台市にて営業開始。1898(明治31)年、株式会社七十七銀行に改組。平支店は同行の福島県下2番目の支店として1919(大正8)年に開設。本社史は銀行の一支店を中心に書かれた百年史。本文は戦前編、戦後編、平成編の3部構成。巻末に「国立銀行一覧表」など付表あり。地元の金融業界の動向や石炭産業の盛衰等についても詳しく、平支店のある福島県いわき市周辺の地域史としても有用。
(株)実業之日本社 サービス業 『『実業之日本』の六十年と創立者増田義一』([1957])
(株)実業之日本社 サービス業 『実業之日本社七十年史』(1967.06)
(株)実業之日本社 サービス業 『実業之日本社百年史』(1997.12) 1895(明治28)年、東京専門学校出身の光岡威一郎が帝国実業の発達振興を図るために大日本実業学会を創立。1897年に雑誌「実業之日本」を創刊。その後光岡は健康を害し、発行権と経営権を同窓の増田義一に譲り、増田は1900年実業之日本社を設立。「実業之日本」誌は経済雑誌として成長していく。別冊「百年図書総目録」には、書籍、ムック、コミックス、ビデオ、教育関係図書等の出版物を刊行年順に記載、書名・著訳者名索引つき。
(株)実業之日本社 サービス業 『実業之日本社百年図書総目録』(1997.12) 『実業之日本社百年史』(社史ID:14570)の別冊
品川白煉瓦(株) 窯業 『創業100年史』(1976.12) 1836年江戸生まれの武士西村勝三は維新後東京会議所委員となる。国産煉瓦製造をめざし1875年渋沢栄一らの協力を得て東京会議所瓦斯製造所内に工場を作り、ガス発生炉用の耐火煉瓦(白煉瓦)の製造を始める。1884年工部省所管の白煉化石製造所の払下げを受け、伊勢勝白煉瓦製造所を設立。1887年品川へ移転し、品川白煉瓦製造所と改称。1903年品川白煉瓦(株)へ改組。栄一は相談役(1907-09)。100年史は総合史、部門史・現況、資料から成り、千ページを超える大作。
(株)芝浦製作所 電気機器 『株式会社芝浦製作所』([1936.02])
渋沢倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『渋沢倉庫株式会社三十年小史』(1931.09) 1897(明治30)年、東京深川の渋沢邸内に渋沢倉庫部(匿)を創設。営業主は渋沢栄一、倉庫部長として栄一の長男、渋沢篤二が就任した。1903(明治36)年に匿名組合事業から渋沢家の独立事業となる。1909(明治42)年に改組し、渋沢倉庫株式会社を設立。関東大震災後は本店を茅場町へ移転した。渋沢倉庫部(匿)創設から昭和初期までの30年余りの歴史をまとめた社史。歴代役員には渋沢篤二のほか、栄一の娘婿である明石照男、従甥の渋沢義一、孫の渋沢敬三らの名前も見られる。会社の記章の由来について触れているほか、附録として社史刊行当時、社会問題となっていた金解禁についても記されている。
渋沢倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『渋沢倉庫株式会社創立三十周年記念小史』(1939.08)
渋沢倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『渋沢倉庫六十年史』(1959.08) 1897(明治30)年、渋沢倉庫部匿名組合を創設。1909(明治42)年に改組し、渋沢倉庫株式会社を設立。1933(昭和8)年、浪華倉庫株式会社を合併。戦時中は統制会社令に基づき設立された日本倉庫統制株式会社へ施設、従業員を供出。終戦後、統制会社の解散により業務を再開した。本社史は、渋沢倉庫部創業から創業60周年記念行事の行われた1957(昭和32)年3月までを記したもの。特に戦中、戦後の社会情勢と同社の状況について詳しく記述されている。題字は渋沢栄一の遺墨から集字。はしがきは栄一の孫、渋沢敬三による。印刷および校正は、渋沢栄一伝記資料刊行会が協力している。
渋沢倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『渋沢倉庫の80年. 1』(1977.03) 1897(明治30)年渋沢倉庫部開業、営業主渋沢栄一、倉庫部長渋沢篤二。1909年渋沢倉庫株式会社創立、会長渋沢篤二、専務八十島親徳。第1巻は栄一の略歴に始まり、戦後復興期の1955年まで。第2巻は1977年までの飛躍展開を記述、株式買占め事件などにもふれる。読みやすい文体で物語風に綴っている。2巻合わせて755ページ(A5判)。
渋沢倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『渋沢倉庫の80年. 2』(1977.03) 『渋沢倉庫の80年. 1』(社史ID:13000)の2巻
渋沢倉庫(株) 倉庫・運輸関連 『渋沢倉庫百年史』(1999.03) 創業から1997年までの100年の歩みを通史で記述。本文・資料編・年表からなり、B5判662ページ。三十年小史から百年史まで執筆はすべて社内スタッフが行っている。
(株)島津製作所 機械 『改組二十年記念帖』(1937.09)
(株)島津製作所 機械 『島津製作所改組三十五年記念誌』(1952.11)
(株)島津製作所 機械 『島津製作所史』(1967.09) 1875年(明8)初代島津源蔵(しまづ・げんぞう、1839-1894)が京都で理化学器械の製作を開始。長男の二代源蔵(1869-1951)と共に、京都舎密局に着任したドイツ人技師ワグネル(Gottfried Wagener, 1831-1892)の指導を受ける。個人経営の島津製作所は1917年(大6)株式会社に改組。以来、蓄電池、標本製作、日本初の医療用X線装置、実験機材など多くの製品開発を行い発展する。本社史は株式会社改組50周年記念誌として、個人経営時代からの90余年の沿革と、主要な機種別製品の生成発展過程を示す技術・製品から成る。これ以前に『改組二十年記念帖』『改組三十五年記念誌』『改組四十年記念誌』を刊行している。
(株)島津製作所 機械 『21世紀をひらく : 創業110周年島津技術の発展』(1985.04)
(株)島津製作所 機械 『島津製作所百十年史』(1985.07)
(株)島津製作所 機械 『科学とともに百二十年 : 島津製作所の歩み』(1995.11)
(株)シマノ その他輸送機器 『シマノ70年史』(1991.03) 大阪府堺市の旋盤工島野庄三郎(しまの・しょうざぶろう、1894-1958)は第一次大戦後の不況で失職した仲間と共に、1921年(大10)島野鉄工所を創業。翌年下請けとして自転車部品のフリーホイールの生産を開始。製品改良に注力し1939年(昭14)にはフリーホイール生産で市場占拠率60%に達し、海外にも進出。1940年(昭15)株式会社に改組、戦災で一時解散するが終戦後まもなく生産再開する。1946年(昭21)設立の島野自転車を1950年(昭25)島野鉄工所と合併し、翌年島野工業に改称。研究開発を重ねて業態を広げ欧米へ進出を果たし、1991年(平3)社名をシマノに変更。70年史は『シマノ工業60年史』(1982年刊)後の10年を詳述し、巻末に70年の通史を簡潔にまとめている。別冊の資料編と映像編付。
(株)シマノ その他輸送機器 『シマノ70年史. 資料編』(1991.03) 『シマノ70年史』(社史ID:06870)の資料編
清水建設(株) 建設 『清水建設百五十年』(1953.11) 越中国出身の初代清水喜助(しみず・きすけ、1783-1859)は1804年(文化元)江戸神田鍛冶町で大工を開業、清水屋と号す。清水屋は幕末明治期に築地ホテル館、三井組ハウスなど洋風建物を建築、渋沢栄一邸も手掛け栄一の信頼を得る。1887年(明治20)には栄一を相談役に迎え、日清日露戦争期を経て業容を拡大、1915年(大正4)合資会社清水組に改組。技術向上と経営合理化に努め、1937年(昭和12)株式会社となる。第二次大戦後1948年(昭和23)清水建設(株)と改称し、復興工事に邁進する。創業150年記念に刊行された本書は、歴史学者丸山二郎(1899-1972)に委嘱した「清水建設株式会社社史原本」を基に編纂されたもので、時代ごとの5篇と附録からなる。本文中に錦絵・図面・写真を多数使用し、各時代の施工写真とその他の主な施工リストを入れた「竣工写真集成」が本文と別のページ立てで挟み込まれている。巻頭の総目次のほか、各篇冒頭に詳細目次を置く。第1篇「江戸時代」には、初代清水喜助の足跡と幕末にかけての事業展開を記載。第2篇「明治時代」では維新後の時代における新たな事業の広がりと共に、渋沢栄一との関わりも詳しく触れている。第3-5篇はその後の躍進と戦後の展開について記載。第6篇附録には年表や各種資料がまとめられ、事項索引付。
清水建設(株) 建設 『清水建設百七十年』(1973.04) 1804年(文化元)創業の清水建設(株)の170年史で、本文5編と資料編からなる。本文は第1-4編が創業時代、個人経営時代、合資会社時代、株式会社時代と経営形態別に時代を区切ったもので、既刊の150年史を1/3に書き改めた内容。第5編は戦後の27年分を新たに書き起こしたもので、事業の発展と国際化の歩みを詳述している。全編各章末に、その時代の主要工事一覧を載せている。また第5編の前には、戦後の主な工事竣工写真が置かれている。
清水建設(株) 建設 『清水建設百八十年』(1984.06) 1804年(文化元)創業の清水建設(株)の180年史で、本文2編、施工作品集、資料編からなる。本文第1編は既刊の170年史を踏まえた「創業から170年まで」で、全体の1/3の量。第2編「最近10年の歩み」では1973-1983年(昭和48-58)の間の経営革新、多角化、海外展開について詳述している。続く施工作品集には、最近10年の国内外の施工写真をカラーで掲載。資料編の末尾に索引を置く。
清水建設(株) 建設 『清水建設二百年. 経営編』(2003.11) 1804年(文化元)創業の清水建設(株)の200年史。外部研究者の監修のもと、既刊の150年史、170年史、180年史のデータを洗いなおし、社内外の新たな資料も参照して編纂。『経営編』のほかに『生産編』と『作品編』があり、沿革を経営分野からの視点でまとめたこの『経営編』は、年代順に経営の節目で区切った9章からなる。創業期の第1-2章は初代清水喜助(しみず・きすけ、1783-1859)を始めとする経営者を軸に、事業の発展を記す。第3章以下は各章とも総論と各論の構成で経営の足跡を詳述している。本文に関連する資料や写真を欄外に収めるほか、関連事項をまとめたコラムを挟みこんでいる。巻末に資料、年表、索引付。
清水建設(株) 建設 『清水建設二百年. 生産編』(2003.11) 清水建設(株)200年史(社史ID:00500)の『生産編』で、ほかに『経営編』と『作品編』がある。沿革を建設生産分野からの視点でまとめたこの『生産編』は9章からなり、町場大工から総合建設業に至る建築組織と技術の変遷を詳述。第4章までの章区切りは『経営編』の区切りとは多少ずれているが、各章はそれぞれ「総合的記述」「国内外の動向」「生産組織の変遷」「生産技術の変遷」「特徴あるプロジェクト」の5節から構成されている。巻末に主要工事一覧、技術のあゆみ(年表)、主な受賞一覧、索引付。
清水建設(株) 建設 『清水建設二百年. 作品編』(2003.11) 清水建設(株)200年史(社史ID:00500)の『作品編』で、ほかに『経営編』と『生産編』がある。この『作品編』は1804年(文化元)の創業から2003年(平成15)までの建築竣工写真を、『生産編』の章構成に準じた7つの時代区分で掲載。収録写真は既刊社史および、社内資料と自社刊行物掲載写真、社外表彰作品の中から選定。各章の初めに作品画像の「Index」ページを置き、「業務・商業」「生活・文化」「生産・研究」「エネルギー・インフラ」の用途別に作品を概観できるようになっている。本文では用途分類によらず竣工年順に作品を配置し、それぞれ写真・名称・所在地・竣工年・発注者・設計者・主な受賞を載せている。巻末に索引付。
清水建設(株) 建設 『棟梁から総合建設業へ : 清水建設200年の歴史』(2003.11) 清水建設(株)200年史の普及版。1804年(文化元)の創業から2003年(平成15)までの歴史の中から、エポックとなった大きな出来事やプロジェクトとその技術を合わせて43件選び、年代順に掲載。一つのテーマを図版入りで見開き2ページにまとめている。また本文中に「建設文化とシミズの伝統」と題した9つのコラムをはさみ、建設にまつわる儀式や会社マークの変遷などを紹介。続く「200年の感謝に代えて」には、渋沢栄一や歴代役員等28人の言葉を抜粋して載せている。巻末の簡略な年表には該当記事のページを記し、索引も兼ねる。
清水建設(株)名古屋支店 建設 『清水建設株式会社名古屋支店100年の歩み : Discover 100』(1991.12)
清水建設兼喜会 建設 『清水建設兼喜会五十年』(1969.02)
清水建設名古屋兼喜会 建設 『清水建設名古屋兼喜会70年の歩み : Link 70』(1991.12)
ジャスコ(株) 小売業 『ジャスコ三十年史』(2000.12) 1758(宝暦8)年四日市で初代岡田惣左衛門が商売を始める(後の岡田屋)。1937(昭和12)年姫路市で二木一一がフタギ洋品店開業。1955年大阪に井上次郎が服地小売業創業。三者は1969年合併して大阪にジャスコ(株)設立、会長二木一一、社長岡田卓也、副社長井上次郎。その後も次々と合併、業務提携で大きくなった。ローラアシュレイ、タルボット、ツヴァイ、ボディショップも提携先。35歳からの雇用もあり。タイ、マレーシア、中国進出。災害寄付(落果リンゴ)やリサイクル運動も行う。
シヤチハタ工業(株) その他製造業 『飛翔 : シヤチハタ60年のあゆみ』(1986.03) 連続捺印できるスタンプ台製造販売の舟橋商会は1925年(大14)名古屋に創立、名古屋城の鯱を旗に描いたマークを使う。1940年(昭15)販売部門を独立させシヤチハタ商事設立、海外にも進出。翌年には舟橋商会を改組し、シヤチハタ工業を設立する。第二次大戦後は工場を再建し大量生産方式を確立。1965年(昭40)スタンプ台のいらない「Xスタンパー」の印鑑を発売しヒット商品となる。60年史はイベント編、読みもの編、祝賀編、社業編、資料編、年表編からなり、会社のプロフィールをビジュアルに表現。社名の由来である「シャチ物語」や、姓氏と家紋についての読物も掲載。[1999年(平11)シヤチハタ工業とシヤチハタ商事が合併し社名をシヤチハタ(株)に変更]
蛇の目ミシン工業(株) 機械 『蛇の目ミシン創業五十年史』(1971.10) 大正初期に実業家穴水要七の元で小瀬与作はゴム業を営み、ゴム長の内側にメリヤス布を張るのにミシンを使用。当時市場を席捲していたシンガーに対し国産ミシンの製造を志し、1921年亀松茂・飛松謹一と共にパイン裁縫機械製作所を設立。月賦販売方式を採りいれ業績を伸ばし、1935年帝国ミシン(株)と改称。このときから商標名を蛇の目ミシンとし、1949年社名も蛇の目ミシン(株)に改称、1954年現社名となる。50年史は前史に英国の産業革命以来のミシン産業の発達を述べ、本編で沿革と現況を記す。
(株)ジャパン・タイムズ サービス業 『The Japan Times ものがたり : 文久元年(1861)から現代まで』(1966.07) 日本初の英字紙は1861年(文久1)英国人により創刊されたが、日本人による初の英字紙は1897年(明30)創刊の日刊英字新聞『ジャパンタイムズ』。主筆は伊藤博文首相の秘書官であった鳥取出身の頭本元貞(ずもと・もとさだ、1863-1943)で、日本郵船を退職した同郷の山田季治(やまだ・すえじ、1848-1916)が社長として経営を支えた。英語界の俊秀を集め創刊1ヶ月後にはロイター電報と契約し、世界ニュースを掲載。紙名は The Japan Times and Mail → The Japan Times and Advertiser → Nippon Times と変遷し、1956年(昭31)から再び The Japan Times となる。社史はコンパクトながら日本の英字新聞の歴史にも触れ、巻末に英文社史を収録。
(株)秀英舎 その他製造業 『株式会社秀英舎創業五十年誌』(1927.03)
十条製紙(株) パルプ・紙 『十条製紙社史 : 自昭和二十四年八月至昭和四十八年五月』(1974.03) 1873年(明6)に発足した王子製紙は戦後の過度経済力集中排除法により1949年(昭24)苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の3社に分割。十条、釧路、小倉など7工場と研究所を引き継いだ十条製紙は堅実経営で業績を伸ばす。1960年代から森林開発や清涼飲料販売など経営を多角化、1968年(昭43)には東北パルプを合併し規模を拡大。海外にも進出して発展する。王子製紙発足100年を機に編纂した十条製紙のこの社史は、王子製紙の略史を含めた会社発足のいきさつから書き起こし、会社発展の歩みを簡潔にまとめている。本文中に図表を載せ、巻末に資料付。[1993年(平5)山陽国策パルプと合併し日本製紙(株)となる]
十条製紙(株) パルプ・紙 『十条製紙社史. 続』(1998.03) 1949年(昭24)王子製紙の分割により発足した十条製紙は、1993年(平5)山陽国策パルプと合併し日本製紙(株)となる。1974年(昭49)出版の『十条製紙社史』の続編として刊行された本書は、まず第1集で十条製紙の発足から合併までの足跡を編年で記述している。続く第2集では工場移転や技術革新、新会社設立といった重大な出来事を4つの挿話としてノンフィクション作家がまとめ、更にそれを補完する取材余話を加えている。巻末に資料集付。
十条製紙(株)石巻工場 パルプ・紙 『五十年史』(1990.06) 1938年(昭13)創立の東北振興パルプは石巻と秋田に人絹用パルプ製造工場を建設し1940年(昭15)操業開始。終戦後1949年(昭24)東北パルプと社名変更し、石巻工場は製紙用パルプと上質紙生産に重点を移す。1968年(昭43)十条製紙に合併し、同社石巻工場となる。以降十条製紙の基幹工場として設備を増強し、印刷用紙生産では世界最大の規模に発展する。操業開始からの50年史は、巻頭の90頁近い写真集に続き工場の50年概史を8章にわたって記述。次に福利厚生や労働組合史を「折々の記」としてまとめ、歴代工場長や従業員の声を本文中にコラムとして取り入れ、巻末に資料を付している。[1993年(平5)山陽国策パルプと合併し日本製紙(株)が誕生、同社石巻工場となる]
(株)十八銀行 銀行 『九十年の歩み』(1968.11)
(株)十八銀行 銀行 『百年の歩み』(1978.03) 1877(明治10)年、第十八国立銀行として永見伝三郎(ながみ・でんざぶろう、1831-1899)、松田源五郎(まつだ・げんごろう、1840-1901)らにより創立、開業。1897(明治30)年、株式会社十八銀行と改称し、私立銀行として営業を継続。本社史は創立百周年の記念事業の一環として刊行された。本文は全八部構成で、創立前史として永見、松田らが興した永見松田商社(後の立誠会社)に触れ、以降第十八国立銀行創立から創立百周年記念式典が行われた1977(昭和52)年まで記述している。巻末には付編として役員写真、店舗一覧、年表等を付属。渋沢栄一は第十八国立銀行創立の際、松田ら同行関係者に対し、開業手続きや銀行経営の心得について指導している。松田没後、その功績顕彰のため銅像建設が計画されると栄一は発起人の一人となり、建設費用の一部を寄付した。
(株)十八銀行 銀行 『110年の歩み』(1988.06)
(株)十六銀行 銀行 『ふるさとの100年』(1977.10)
(株)十六銀行 銀行 『十六銀行百年史』(1978.03) 岐阜の織物商に生れた渡辺甚吉(わたなべ・じんきち、1856-1925)は明治初めに銀行創立を目指し、第一国立銀行の指導を受け1877年(明10)第十六国立銀行を設立。1896年(明29)銀行条例に基づき私立銀行に転換、十六銀行と改称。その後銀行合同を推進して岐阜県の中心金融機関となる。100年史は5部と資料編からなり、第1部明治、第2部大正、第3部昭和(戦前)、第4部昭和(戦後)、第5部合同銀行小史、という構成。経済金融情勢の変遷に伴う銀行の歩みを、岐阜の地域特性と合わせつつ記述している。千頁を越える大作。[1977年(昭52)に小冊子『ふるさと100年』を刊行]
(株)十六銀行 銀行 『十六銀行百二十年史』(1998.03)
(株)主婦の友社 サービス業 『主婦の友社の五十年』(1967.02) 大分出身の石川武美(いしかわ・たけよし、1887-1961)は東京で雑誌編集に携わり、第一次大戦による景気変動の中1916年(大5)東京家政研究会を興す。翌年中流家庭の主婦の生活を焦点とした雑誌『主婦之友』を創刊、1921年(大10)主婦之友社と改称。第二次大戦中も日本の家庭と主婦を守るという編集姿勢を貫き、戦後は雑誌を中心とした関連事業にも歩を進める。50年史は年代ごとに沿革と当時の『主婦の友』(1953年社名と共に改称)の記事及び関係者の寄稿を掲載し、雑誌と主婦像の変遷を見ることができる。巻末に創業者石川武美のエピソードと年譜、石川が創立した(財)お茶の水図書館(現・(財)石川文化事業財団お茶の水図書館)の概要を記載。
春光懇話会 電気機器 『春光会・春光懇話会の歩み : 「コンツェルン」から「人・情報のグループ」へ』(2012.10)
(名)商業興信所 サービス業 『三十年之回顧』(1922.05) 日銀の初代大阪支店長外山脩造(とやま・しゅうぞう、1842-1916)は欧米で信用取引発達ための信用調査機関の重要性を知る。関西地区の銀行30行の協力を得て、日本初の興信業として1892年(明25)商業興信所を大阪に設立。1894年(明27)には東京興信所創立のため渋沢栄一が視察に訪れる。1920年(大9)合名会社に改組。副所長執筆の30年史は編年体で経済界概況と大阪地区を中心とした商業動向を詳述し、商業興信所記事では人事や海外との提携にも触れる。[1944年(昭19)東京興信所と合併し(株)東亜興信所となる]
昭和電工(株) 非鉄金属・金属製品 『昭和電工アルミニウム五十年史』(1984.10) アルミニウム工業は明治期に日本に到来し各地に製錬事業計画が起こる。東信電気の高瀬川発電建設部長だった森矗昶(もり・のぶてる、1884-1941)は長野県大町でアルミニウム製造研究に出会い、困難な国産化に挑む。1926年(昭1)日本沃度を設立し、設備・技術・原料・資金すべて独自の知恵と力で実験を推進、1934年(昭9)に国産化成功。日本沃度は日本電気工業を経て合併により1939年(昭14)昭和電工となる。戦後も生産規模を拡大するがオイルショックにより事業縮小し、アルミニウム事業を1976年(昭51)昭和軽金属として独立させる。50年史は昭和電工のみならず日本のアルミニウム産業史の一面もあり、初めてアルミニウムをパリ万博で見た日本人として徳川昭武と渋沢栄一を紹介している。
(株)白木屋 小売業 『白木屋の歴史』(1937.08) 近江長浜の大村彦太郎(おおむら・ひこたろう、1636-1689)が大志を抱いて上京、1662年(寛文2)江戸日本橋に白木屋(しろきや)を創業。次第に店を広げ越後屋(現・三越)と並ぶ呉服店として繁盛する。明治期から百貨店として設備を整え、1911年(明44)日本初のエレベーターを設置。関東大震災で被災するが復興し、1933年(昭8)には全館改修落成。本社史は江戸期の文書を始め創業からの資料の写真を解説と共に掲載、1932年(昭7)の火災や1935年(昭10)の日米親善人形使節の写真も含む。[1958年(昭33)東急百貨店と合併し(株)東横に商号変更、店舗名は白木屋で営業。1967年(昭42)(株)東急百貨店に改称し東急百貨店日本橋店となる。1999年(平11)閉店。]
(株)白木屋 小売業 『白木屋三百年史』(1957.03)
信越化学工業(株) 化学工業 『未来への軌跡 : 昭和とともに60年』(1986.10)
新キャタピラー三菱(株) 機械 『新キャタピラー三菱25年史』(1991.02) 新三菱重工業の主力事業所であった神戸造船所は1959年(昭34)建設機械事業へ進出、明石工場で油圧ショベルを製造開始する。1963年(昭38)米国キャタピラー社と合弁でトラクタ生産のキャタピラー三菱を設立。1964年(昭39)新三菱重工業は合併で三菱重工業となる。キャタピラー三菱は1987年(昭62)三菱重工業(株)明石製作所と合併し、総合建設機械製造の新キャタピラー三菱が誕生。25年史は「キャタピラー三菱の歩み」「三菱重工業明石製作所の歩み」「新キャタピラー三菱の誕生」の3編からなり、それぞれ沿革と部門別の概要を記述。本文中に製品写真等を多数掲載。[2008年(平20)キャタピラージャパンに社名変更]
新日鉱グループ 鉱業 『新日鉱グループの百年 : ビジュアル社史1905-2005』(2006.04)
新日鉱グループ 鉱業 『社史 : 1986-2005 : 新日鉱グループ創業100周年記念』(2006.05) 1905年(明38)創業の久原鉱業は非鉄金属と石油事業で躍進。1928年(昭3)持株会社の日本産業(株)と改組後、鉱業部門は日本鉱業(株)となる。第二次大戦後日本鉱業の石油部門は共同石油の設立を経てジャパンエナジーとなり、金属部門は日鉱金属として発展。両社は2002年(平14)持株会社新日鉱ホールディングス設立により新日鉱グループとして体制を整える。100年史は日本鉱業の『五十年史』と80年史『社史:1956-1985』、及び『共同石油20年史』の続編として、1986年以降のグループ経営・事業の変遷を記録したもの。時代ごとの本編と資料編からなり、同時にビジュアル社史『新日鉱グループの100年』を刊行。[2010年(平22)新日鉱ホールディングスは新日本石油と経営統合してJXホールディングスとなり、傘下の企業はJXグループを形成]
新日本製鉄(株) 鉄鋼業 『炎とともに : 新日本製鉄株式会社十年史』(1981.03) 1970年に八幡製鉄(株)と富士製鉄(株)が合併して発足。この10年史は「炎とともに」の共通タイトルのもとに、「八幡製鉄株式会社史」「富士製鉄株式会社史」と同時に刊行された。第1部はわが国近代製鉄業の成立から日本製鉄(株)の設立と解体、第2部は八幡製鉄(株)と富士製鉄(株)合併の経緯、第3部が新日本製鉄(株)の10年の歩み。
新日本製鉄(株) 鉄鋼業 『生きることのすべてに : 鉄とともに、時代とともに : 新日鉄20周年記念誌』(1990.08) 1970年の創業から20周年を記念して出版されたコンパクトな冊子。図・写真を豊富に使い、広報の視点から現状と将来展望を描いている。
新日本製鉄(株)大分製鉄所 鉄鋼業 『未来を拓く : 大分製鉄所20年史』(1992.04) 古来砂鉄を多く産した大分では弥生時代から鉄の文化が興隆しており、日本刀や鉄砲製造に鍛冶技術が応用されていた。1876年の廃刀令以降は産業を支える製鉄業に転換していく。1970年設立の新日本製鉄(株)は高度経済成長に伴い増大した鉄鋼需要に応えるべく、従来の室蘭・釜石・君津・名古屋・堺・広畑・光・八幡の製鉄所に加え、新たな製鉄所として1972年大分製鉄所を建設。20年史は建設の経緯からを記述した総合史と部門史、別冊の資料集からなる。
新日本製鉄(株)大分製鉄所 鉄鋼業 『未来を拓く : 大分製鉄所20年史. 資料集』(1992.04) 『未来を拓く : 大分製鉄所20年史』(社史ID:04620)の資料編
新日本製鉄(株)釜石製鉄所 鉄鋼業 『釜石製鉄所九十年史 : この十年の歩み』(1976.09) 1886年の創業から90年を記念して編纂。80年史に続く10年の歩みを、多くのエピソードと写真・グラフで綴った社史。
新日本製鉄(株)釜石製鉄所 鉄鋼業 『鉄と共に百年. 本編』(1986.10) 古来鉄作りの伝統がある岩手県釜石の大橋に1727年磁鉄鉱石が発見される。1878年官営製鉄所が操業開始するが挫折し1883年廃業。東京の鉄屋田中長兵衛と横山久太郎は設備の払下げを受け、1886年出銑に成功、翌年釜石鉱山田中製鉄所設立。1924年三井鉱山の傘下に入り釜石鉱山(株)創立。以降1934年~日本製鉄(株)、1950年~富士製鉄(株)を経て1970年新日本製鉄(株)釜石製鉄所となる。百年史は前半が創業からの総合史、後半が付設の病院史も含めた部門史。別冊は写真集と資料編。
新日本製鉄(株)釜石製鉄所 鉄鋼業 『鉄と共に百年. 写真・資料』(1986.10) 『鉄と共に百年. 本編』(社史ID:04650)の資料編
新日本製鉄(株)堺製鉄所 鉄鋼業 『堺製鉄所二十年史』(1984.11) 1950年発足の八幡製鉄(株)は経済の高度成長に伴う鉄鋼需要の急伸に対応するため、一大消費地である関西経済圏を後背に製鉄所建設を計画。堺市に1961年堺製鉄所が開設され、1970年に新日本製鉄(株)堺製鉄所となる。20年史は発足からの歩みを記述した総合史と、部門史・資料編からなる。
新日本製鉄(株)製品技術研究所 鉄鋼業 『製品技術研究所20年史』(1981.04) 第二次大戦後の鉄鋼業界では、自主的な技術研究の振興のために研究体制の確立が望まれていた。1959年富士製鉄(株)は中央研究所設置、1962年相模原市に研究所を建設し、研究活動を開始。1970年八幡製鉄との合併により、新日本製鉄(株)研究開発本部製品技術研究所となる。20年史は富士製鉄時代の10年と新日鉄発足後の10年に区切り、所員の座談会と回想録も取り入れた編集。
新日本製鉄(株)中央研究所 鉄鋼業 『中央研究所10年史』(1971.05)
新日本製鉄(株)名古屋製鉄所 鉄鋼業 『躍進 : 銑鋼一貫20年史. 総合史』(1984.09) 急増する鉄鋼需要へ対応し中部地方産業構造の重化学工業化を図るために、1958年富士製鉄(株)と地元経済界の共同出資により東海製鉄(株)創立。1964年高炉に火が入り銑鋼一貫体制を確立する。1967年合併により富士製鉄(株)名古屋製鉄所となり、1970年には八幡製鉄と合併し、新日本製鉄(株)名古屋製鉄所となる。20年史は創業からの歩みを4編に分けて述べた「総合史」と、別冊の「部門史」からなる。
新日本製鉄(株)名古屋製鉄所 鉄鋼業 『躍進 : 銑鋼一貫20年史. 部門史』(1984.09) 『躍進 : 銑鋼一貫20年史. 総合史』(社史ID:04700)の部門史
新日本製鉄(株)広畑製鉄所 鉄鋼業 『30年史』(1970.09) 1934年国策により日本製鉄(株)が発足。第4次拡充計画で原産地から遠くても消費地に近い阪神地区に製鉄所建設が計画される。瀬戸内海沿岸の兵庫県飾磨郡広村広畑が選ばれ、1939年に高炉に火が入る。世界最新鋭の鋼板工場として稼動するが、戦後は全面休止となる。再開の交渉がみのり1950年再び高炉に火が入れられ、日本製鉄が解体し新発足した富士製鉄(株)の元で再スタートを切る。1970年からは新日本製鉄(株)広畑製鉄所となる。30年史は総合史と詳細な部門史から構成されている。
新日本製鉄(株)広畑製鉄所 鉄鋼業 『広畑製鉄所50年史 : 創造と挑戦. 総合史』(1990.07)
新日本製鉄(株)広畑製鉄所 鉄鋼業 『広畑製鉄所50年史 : 創造と挑戦. 部門史』(1990.07) 『広畑製鉄所50年史 : 創造と挑戦. 総合史』(社史ID:04730)の部門史
シンフォニアテクノロジー(株) 電気機器 『シンフォニアテクノロジー創業100年史 : 1917-2017』(2017.09) 1878(明治11)年、鳥羽造船所創立。1889(明治22)年、出資者が変わり鳥羽鉄工株式会社に改称。1896(明治29)年、安田善次郎らに買収され鳥羽鉄工合資会社となる。のち、三重紡績株式会社傘下を経て、1916(大正5)年、鈴木商店傘下となり株式会社鳥羽造船所創立。翌年、造船工場内に電機試作工場を開設(創業)。1918(大正7)年、帝国汽船株式会社と合併。さらに1921(大正10)年、帝国汽船の造船部廃止により、鳥羽造船所は株式会社神戸製鋼所に譲渡される。1949(昭和24)年、神戸製鋼所の分割に伴い、同社電機部門は神鋼電機株式会社を設立する。2009(平成21)年、シンフォニアテクノロジー株式会社へ社名変更。本社史は創業年とする1917(大正6)年から2017(平成29)年までの100年間およびその前史をまとめたもの。資料編を別冊とした2冊組。社内報アワード2018特別部門ゴールド賞受賞作品。
シンフォニアテクノロジー(株) 電気機器 『シンフォニアテクノロジー創業100年史 : 1917-2017. 資料編』(2017.09)
新三菱重工業(株) 機械 『新三菱重工業株式会社史』(1967.06) 旧三菱重工業の解体により1950年発足した中日本重工業(株)は、神戸造船所・名古屋製作所・水島製作所・京都製作所・三原車輌製作所の事業を継承。1952年新三菱重工業(株)に社名変更、1964年3社の合併により再び三菱重工業(株)となる。この15年史は他2社の「三菱造船株式会社史」「三菱日本重工業株式会社史」と同じ監修者の元に同時に刊行された。第1編では総論と沿革、第2編では経営・製品・生産体制を詳述。詳細な図表目次と索引付。
新三菱重工業(株)神戸造船所 造船 『新三菱神戸造船所五十年史』(1957.05) 三菱社は三菱造船所(長崎)の拡張とともに神戸港の有望な将来性に着眼し、1905年三菱合資会社神戸三菱造船所発足。1917年三菱造船(株)発足に伴いその傘下に入り、1934年三菱航空機会社を合併し三菱重工業(株)となる。1950年財閥解体により中日本重工業(株)神戸造船所となり、1952年新三菱重工業(株)と社名変更。社史は1955年までの50年史で、沿革、経営、生産、勤労の4編と附録の資料からなる。
新和海運(株) 海運 『新和海運三十年史』(1992.09) 1901年(明34)に操業開始した官営八幡製鉄所は大量の原料鉄鉱石を中国大陸から調達し、社有船で運送していた。当時満州では1906年(明39)発足の南満州鉄道が、大連から物資を輸送するため大連汽船を買収し海運に進出。八幡製鉄所は1934年(昭9)国策により日本製鉄となり、第二次大戦後の占領政策で船舶部が分離独立し1950年(昭25)日鉄汽船となる。一方閉鎖機関に指定された大連汽船の資産は1947年(昭22)発足の東邦海運が引き継ぎ、同社は1962年(昭37)日鉄汽船と合併し新和海運が誕生した。30年史は序章と第1章で、日鉄汽船と東邦海運の創立から合併までの経緯を記述している。
新和海運(株) 海運 『新和海運史』(2011.12)
須賀工業(株) その他製造業 『須賀工業90年史』(1992.11)
鈴木自動車工業(株) 自動車・自動車部品 『50年史』(1970.04) 静岡出身の鈴木道雄(すずき・みちお、1887-1982)は大工徒弟で覚えた技術を活かし、1909年(明42)鈴木式織機製作所を創立。遠州は織物が盛んで織機メーカーとして順調に成長し、1920年(大9)鈴木式織機(株)へ改組。海外へも輸出し発展するが、織機以外の製品として1936年(昭11)自動車製造の研究を始める。戦時中は中断していたが、戦後自動車エンジン試作を再開し、軽自動車を中心とする自動車メーカーへと成長を遂げた。1954年(昭29)鈴木自動車工業と社名変更し、更に大きく発展する。50年史は沿革と、経営・技術・生産・営業・管理からなる現況、座談会とインタビューからなる回顧と展望の3部構成。オートバイや乗用車の製造工程の写真を多く取り入れた編集。[1990年(平2)スズキ(株)に社名変更]
住友大阪セメント(株) 窯業 『住友大阪セメント百年史』(2008.03) 福島県石城(いわき)郡の八茎(やぐき)鉱山産出の石灰石に着目した実業家広瀬金七と岩崎清七(いわさき・せいしち、1865-1946)は、発起人を募り1907年(明40)横浜に磐城セメントを創立。新技術の回転窯を導入し、より高い生産性を目指して発展する。1963年(昭38)住友グループに参加し、住友セメントと改称。一方1882年(明15)大阪に設立の硫酸瓶製造会社は、業態を変え大阪窯業、大阪窯業セメントと改称し、1963年(昭38)大阪セメントとなる。1994年(平6)経営強化のため両社は合併し、住友大阪セメントが発足。磐城セメント創立からの100年史は11章までが住友セメントの沿革で、1-10章は『住友セメント八十年史』(1987年刊)の要約。12章に大阪セメントの沿革を置き、13-14章に合併後の歩みを記述している。索引付。
住友海上火災保険(株) 保険 『住友海上の歩み. 昭和戦後編 1』([1987.09])
住友海上火災保険(株) 保険 『住友海上の歩み. 昭和戦後編 2』([1989.07]) 『住友海上の歩み. 昭和戦後編 1』(社史ID:10370)の2
住友海上火災保険(株) 保険 『住友海上の100年 : チャレンジの軌跡』(1993.10)
住友海上火災保険(株) 保険 『住友海上火災保険株式会社百年史 : 1893-1993』(1995.01)
住友化学工業(株) 化学工業 『住友化学工業株式会社史』(1981.10) 住友家の別子銅山の銅精錬の際発生する有毒ガスを転じて、有益な過燐酸肥料を製造するため、1913年新居浜に住友肥料製造所が設置される。1915年工場が完成し肥料の出荷を始め、1934年住友化学工業(株)となる。社史は前史として住友家の創業から始まり、肥料工業から総合化学工業へ、戦後の石油化学工業への展開が記述されている。1944年に合併した日本染料製造(株)の沿革も含む。社名・製品・社内事項の索引付。
(株)住友銀行 銀行 『住友銀行三十年史』(1926.07) 江戸時代から別子銅山の経営を行なっていた住友家は、両替などの金融業務も手がけていた。1895年個人経営の住友銀行を創設。1912年には(株)住友銀行とし、金融業を発展させる。30年史は1926年までの歩みを創業、発達、組織、店部の章立てで記述している。
(株)住友銀行 銀行 『住友銀行史』(1955.11)
(株)住友銀行 銀行 『住友銀行史. 続(行名復帰から創業七十周年まで)』(1965.11) (株)住友銀行は戦後財閥解体により1948年大阪銀行と行名変更していたが、1952年もとの行名に復帰。以降1965年までの経済変動の中での経営施策の歩みを記述。1955年に刊行された『住友銀行史』の続編。
(株)住友銀行 銀行 『住友銀行八十年史』(1979.12) 80年史は前史として別子銅山の開発から始まる住友家の事業創設から詳しく書き起こし、創業、大正・昭和戦前期の成長、第二次世界大戦後の発展という章立てで年代順に記述。80周年を迎えたときに起こった安宅産業問題の概要にも触れている。
(株)住友銀行 銀行 『住友銀行史 : 昭和五十年代のあゆみ』(1985.11) 住友銀行の親密な取引先の総合商社安宅産業は1975年に経営破綻、1977年伊藤忠商事と合併する。住友銀行はこの処理を終えた後経営陣を一新し、新たな発展を歩む。創業90年を記念して出された社史は、この安宅産業問題の処理についても詳しく触れている。
(株)住友銀行 銀行 『住友銀行百年史』(1998.08)
住友金属工業(株) 鉄鋼業 『住友金属工業六十年小史』(1957.05) 1895年大阪に開業した日本伸銅(株)は日清戦争後の恐慌期に経営困難に陥り、1897年住友家が買収して住友伸銅場を開設。1901年同じく大阪に住友鋳鋼場開設。両者は大正年間にそれぞれ住友伸銅鋼管(株)、(株)住友製鋼所となり、1935年合併して住友金属工業(株)が誕生。60年史は50年史のために作成された稿本をもとに、創業から鉄鋼・非鉄金属両部門で発展した過程を、従業員向けにコンパクトにまとめたもの。
住友金属工業(株) 鉄鋼業 『住友金属工業最近十年史 : 創業七十周年記念』(1967.06) 60年史の後1967年までの10年間に、金属素材メーカーから総合鉄鋼メーカーへ脱皮成長した過程を、部門別にまとめたもの。
住友金属工業(株) 鉄鋼業 『住友金属工業最近十年史 : 創業八十周年記念』(1977.10) 1967年から1977年までの10年間の歩みを9章に分けて記述。前半は鹿島製鉄所建設に代表される高度成長期の躍進を述べ、後半はドル・ショック後の世界経済の激しい構造変化の中での経営施策を記述している。
住友金属鉱山(株) 非鉄金属・金属製品 『住友金属鉱山二十年史』(1970.11) 1937年住友別子鉱山と住友炭砿が合併し発足した住友鉱業(株)は、敗戦による財閥解体で1946年井華鉱業(株)と社名変更。1950年金属部門が分離独立して別子鉱業(株)発足、1952年社名変更し住友金属鉱山(株)となる。主要営業品目は当初銅・金・銀であったが、ニッケル・亜鉛等を加え総合非鉄メーカーとして発展し、経営多角化、海外進出をはかる。20年史は戦後の混乱期からの歩みを経営史の側面から16章に分けて記述。
住友金属鉱山(株) 非鉄金属・金属製品 『住友別子鉱山史. 上巻』(1991.05) 伊予宇摩郡(愛媛県)別子山村に銅鉱脈が発見され、住友当主泉屋吉左衛門により1691年開坑。まもなく最盛期を迎え、長崎貿易で銅が主要輸出物となる。幕末期の経営困難を乗り越えるが1899年別子大水害を機に新居浜に事業所移転。鉱山の近代化をはかり戦後の財閥解体を経て1950年別子鉱業(株)発足、1952年社名変更し住友金属鉱山(株)となる。業績悪化により1973年閉山。以降は菱刈鉱山及び精錬事業を継続。社史は上巻が開坑から新居浜移転までを住友史料館が執筆、下巻は以降閉山までを社内で執筆。別冊資料編付。
住友金属鉱山(株) 非鉄金属・金属製品 『住友別子鉱山史. 下巻』(1991.05) 『住友別子鉱山史. 上巻』(社史ID:05060)の下巻
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