収録社史一覧

業種"化学工業" 社史一覧 全78件中20件 41件〜60件目を表示

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会社名 業種 社史タイトル(出版年) 会社沿革と社史メモ
大日本人造肥料(株) 化学工業 『創業三十年記念誌』(1917.04) 1879年工部大学を卒業した高峰譲吉は農商務省から英国へ留学、化学製造所で過燐酸肥料の製造を見学する。1884年米国ニューオーリンズ万博にて過燐酸石灰と燐鉱石を購入、持ち帰る。食料生産増加のため、化学肥料の国内製造業創業を目指した渋沢栄一と益田孝は高峰と協議を重ね、1887年東京人造肥料会社を設立。1910年大阪硫曹(株)と合併し大日本人造肥料(株)となる。創業30年を記念して出された社史は、栄一が祝辞を寄せ書を揮毫。過燐酸の発達史・成分・種類・効用・使用法といった製品の宣伝普及のために多くの頁を割く。
大日本人造肥料(株) 化学工業 『大日本人造肥料株式会社五十年史』(1936.11) 化学肥料の有用性を学んだ高峰譲吉は農商務省に謀って全国で化学肥料を試用し良好な結果を得る。渋沢栄一、益田孝と協議を重ね、渋沢喜作、大倉喜八郎、浅野総一郎ほかの協力を得て、1887年東京人造肥料会社を設立。1910年大阪硫曹(株)と合併し大日本人造肥料(株)となる。50年史は第1編沿革、第2編現況からなり、巻末に図表付。合併した多くの会社の略史も含む。
大日本セルロイド(株) 化学工業 『大日本セルロイド株式会社史』(1952.09) 19世紀後半に欧米で印刷のローラーやビリヤード球の原料等として発明された合成樹脂セルロイドは、1877年(明10)日本に初輸入され加工法の研究が始まる。原料の一つである樟脳は日清戦争後日本領となった台湾が主原産国で、多数の事業者が生産開始した結果樟脳の不足が生じた。合同によりセルロイド業界を統制する意見が盛んとなり、1919年(大8)堺セルロイドの専務森田茂吉を中心に日本セルロイド人造絹糸、大阪繊維工業、東京セルロイド、三国セルロイド、能登屋セルロイド、東洋セルロイド、十河セルロイド8社の合併により大日本セルロイドが創立。その後写真フィルムの研究にも進出し、1934年(昭9)富士写真フイルムを設立。創立30周年記念に編纂された社史は時代順に七章からなり、序章に日本のセルロイド業界の歴史を綴る。本文中に多くの製品や工場写真を含む。[1966年(昭41)ダイセル、1979年(昭54)ダイセル化学工業と社名変更。渋沢栄一は堺セルロイドの発起人。]
大日本塗料(株) 化学工業 『大日本塗料の四十年』(1969.10)
電気化学工業(株) 化学工業 『電気化学工業株式会社三十五年史』(1952.03)
電気化学工業(株) 化学工業 『45年の歩み』(1960.11) 窒素肥料のほとんどを輸入していたわが国では、第1次大戦後の好況期に多くの化学工業会社が起こる。カーバイド・石灰窒素などの化学工業品の製造・販売を目的に、1915年三井系有力者により電気化学工業(株)が設立される。発起人渋沢栄一、初代会長は馬越恭平。酢酸工業にも進出し、渋沢栄一が相談役を務めた日本醋酸製造(株)を1941年に吸収合併。45年史は現況、製造、沿革、当社発展のあと、という構成。
東亜ペイント(株) 化学工業 『東亜ペイント45年史』(1960.11)
東燃石油化学(株) 化学工業 『東燃石油化学十五年 : 1960~1975』(1977.09)
東洋インキ製造(株) 化学工業 『東洋インキ80年史』(1988.01) 絵具店勤務の小林鎌太郎(1875-1938)は、1896年(明29)独立して小林インキ店を東京に開業。大蔵省印刷局の横田源太郎(1874-1967)の提案でドイツ製機械を導入し、横田と共に1907年(明40)東洋インキ製造を創立。翌年業界初のインキ見本帳を作成し、印刷会社に配布。生産設備を拡充し製品開発に取り組み、海外へも販路を拡大。戦後は塗料・樹脂事業や接着剤等の新事業へ業容を拡大し発展する。80年史は編年体の通史、事業ごとの部門史、資料、用語辞典・色名の4部からなる。色名には200色近い色見本付。『印刷インキの歩み』(1967年刊)と題する60年史あり。
東洋曹達工業(株) 化学工業 『社史四十年東洋曹達』(1978.04) 石鹸・硝子・陶器などの原料として古来利用されてきたソーダ(炭酸ナトリウム)は、18世紀の産業革命以来工業的な大量生産が図られてきた。日本曹達工業の技師長であった岩瀬徳三郎(いわせ・とくさぶろう、1887-1971)は理想的なアンモニア法ソーダ工場の建設を企図し、共に日本曹達工業を退社した33名の強力な支援のもと1935年(昭10)山口県に東洋曹達工業を設立。ソーダ工業を出発点に総合化学企業へと発展する。40年史は世界のソーダ工業の歴史から書き起こした沿革編、現況と基礎資料からなる部門編、1975年(昭50)に合併した鉄興社編からなる。[1987年(昭62)東ソーに社名変更。ウェブサイトで40年史全文を公開している。]
ニチバン(株) 化学工業 『ニチバン80年史』(1999.09) 1895年(明28)歌橋又三郎(1863-1937)は東京日本橋に薬局歌橋輔仁堂を創立し、チェコのF.J.ピック博士(1834-1909)発明のピック氏硬膏製造法を完成させた。長男の歌橋憲一(うたはし・けんいち、1889-1977)はピック氏硬膏の一貫生産を目指し、輔仁堂から分立して1918年(大7)歌橋製薬所を創立、絆創膏製造を開始する。1934年(昭9)株式会社に改組。1944年(昭19)日絆工業、1948年(昭23)日絆薬品工業と改称。セロテープ(登録商標)を進駐軍へ納入し業績を伸ばす。1961年(昭36)ニチバンと改称、企業体質改善を図り新製品開発を進める。80年史は製品史に重点を置いた構成で、序章でピック氏軟膏を扱い、4章までは既刊の50年史を元に編集。5~8章で最近30年を詳述、巻末に社員全員の顔写真を6頁にわたり掲載している。
日産化学工業(株) 化学工業 『八十年史』(1969.05) 1887年創立の東京人造肥料会社(後大日本人造肥料(株))は1923年、関東酸曹、日本化学肥料と合併。1937年日産グループに参加し、日産化学工業(株)となる。1943年日本鉱業(株)と合併するが2年で分離、1945年日本油脂と合併して再び日産化学工業(株)となる。戦後は経営多角化し、石油化学工業へも進出。80年史は第1部現況、第2部通史、第3部部門史、第4部資料からなる。産業史の意味合いも兼ね、執筆は(社)化学経済研究所に委託。
日産化学工業(株) 化学工業 『百二十年史』(2007.05) 1887(明治20)年、渋沢栄一、高峰譲吉(たかみね・じょうきち、1854-1922)らにより、日本初の人造肥料(化学肥料)製造会社として東京人造肥料会社の社名で創業。1893(明治26)年、株式会社となる。1910(明治43)年、大日本人造肥料株式会社に社名変更。1937(昭和12)年には日本産業株式会社[日産コンツェルン]傘下となり、日産化学工業株式会社に社名変更。同グループ内での吸収・再編を経て、1945(昭和20)年に改めて日産化学工業株式会社として発足。本社史は、創業から120周年を記念して制作されたもの。主に、創業からの歴史を振り返る「経営編」、主要製品について記した「製品編」および「資料編」の3編で構成。題字は、創業者渋沢栄一の曾孫である渋沢雅英が揮毫している。
日本カーバイド工業(株) 化学工業 『日本カーバイド工業株式会社二十年史』(1958.02)
日本化成(株) 化学工業 『50年史』(1987.11)
日本酸素(株) 化学工業 『日本酸素七十五年史』(1986.03) 山口武彦(やまぐち・たけひこ、1869-1962)が1906年(明39)創業した山武商会は、海外から酸素溶接切断機などの工作機械を輸入していた。切断機に使用するボンベ入り酸素も一緒に輸入していたが、酸素使用後は借り物の空ボンベを輸入元に返送せねばならず、運賃がかさみ問題があった。山口は採算面だけでなく新規事業として将来性が見込める酸素製造の国産化を模索し、1910年(明43)日本酸素合資会社を設立。1918年(大7)株式会社に改組。第二次大戦後は液化酸素事業、プラント事業、冷凍食品事業等にも進出し発展する。75年史は創立からの歩みを7章に分け、50年史以降の25年を特に詳述。[2004年(平16)大陽東洋酸素(株)と合併し、大陽日酸(株)に社名変更]
日本ゼオン(株) 化学工業 『日本ゼオン二十年史』(1972.11)
日本染料製造(株) 化学工業 『日染廿年史』(1936.12) 第一次大戦によりドイツから輸入していた必需品が高騰し、国内製造が求められる。染料製造を企図した稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862-1949)らの働きかけで1915年(大4)染料医薬製造奨励法案が成立。政府は直ちに発起人会を招集し、1916年(大5)日本染料製造が設立された(渋沢栄一は相談役)。戦後不況を国庫補助により乗り越え、海外留学生を送り技術を習得、新製造法の開発に努め躍進する。20年史は世界の染料工業の歴史や明治以降の日本への技術移入の経緯にも触れながら、会社の沿革を簡潔にまとめている。[1944年(昭19)住友化学工業に合併]
日本曹達(株) 化学工業 『日本曹達70年史』(1992.02) 第一次大戦終結後欧州からの化学製品輸入が途絶え、化学工業勃興の機運が高まる。京都大学で学んだ中野友礼(なかの・とものり、1887-1965)は中野式隔膜電解法を完成、カセイソーダなどの化学製品製造を目的に1920年(大9)日本曹達を設立。新潟に工場を建設、積極経営で企業買収を行い日曹コンツェルンを形成。渋沢同族(株)が株主であった大島製鋼所も1937年(昭12)に子会社の日曹製鋼が吸収している。第二次大戦後財閥解体の指定を受け、1949年(昭24)新たな日本曹達として発足する。70年史は沿革と部門史、資料からなる。
日本ペイント(株) 化学工業 『日本ペイント株式会社五十年史』(1949.12) 東京開成学校でワグネルに化学を学んだ茂木重次郎(もてき・じゅうじろう、1859-1932)は顔料とペイント製造の研究を進め、1881年(明14)東京に光明社を設立し塗料工業を始める。業績を伸ばし1895年(明28)合資会社に改組、次いで1898年(明31)には日本ペイント製造(株)と改組改称する。大阪にも工場を建設し、第一次大戦を機に海外に販路を広げる。1927年(昭2)日本ペイント(株)と改称し、1931年(昭6)本社を大阪に移して業容を拡大。戦災を受けるが戦後復興を果たし、1948年(昭23)には増資をして経営基盤を強化する。50年史は1-8章が光明社創業からの沿革、9章が社是と経営の特色、10章が資料という構成で、会社のあゆみをコンパクトにまとめている。
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