※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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慶応4年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
1月21日 | 官吏の勤務時間(午前10時出勤午後4時退庁)および休暇日(1の日と6の日が休暇日)を定める(太政官第44号) | 主要事項 | |
2月11日 | 佐賀藩士大木民平、太政官副総裁三条実美にあてて東西両京を結ぶ鉄道の建設について建議 | 主要事項 | |
7月28日 | 『横浜新報もしほ草』、大阪・神戸間鉄道建設計画を掲載 | 主要事項 | |
明治元年(1868) | - | 【渋沢栄一】明治維新によりフランスより帰国、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)で慶喜に面会。〔28歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
9月8日 | 明治と改元 | 主要事項 | |
11月 | 長州藩士井上勝イギリスから帰国(ロンドン大学で鉄道建設の技術を習得) | 主要事項 | |
明治2年(1869) | - | 【渋沢栄一】駿府藩(後に静岡藩)に「商法会所」設立。上京。明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。湯島天神中坂下(現在の東京都文京区湯島)に居を構える。〔29歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
2月 | アメリカ商社、兵庫駐在のアメリカ合衆国領事W.M.ロビネットを通じて大阪外国事務局に鉄道建設を請願、大阪外国官判事五代才助(友厚)これを却下 | 主要事項 | |
2月 | 加藤弘蔵(のちの弘之)、「交易問答」で鉄道の効用を紹介 | 主要事項 | |
3月 | 雇外国人器械方リチャード・ヘンリー・ブランドン(灯台建設技師)、神奈川県を通じて外国官に横浜・江戸間鉄道建設に関する意見書(里数20マイル、鉄道建設費見積80万ドル)を提出 | 主要事項 | |
3月 | 横浜在留イギリス人アレキサンダー・カンフェル鉄道建設について請願 | 主要事項 | |
5月 | 東京・横浜間に乗合馬車開業 | 主要事項 | |
8月20日 | 『横浜新報もしほ草』、アメリカ大陸横断鉄道の完成と鉄道の必要性を掲載 | 主要事項 | |
8月22日 | 官禄定則を布告(第1等―現米1200石~16の3等―12石) | 主要事項 | |
9月 | 大隈重信イギリス人ホレーシオ・ネルソン・レーとの間に鉄道建設資金借入交渉を進める | 主要事項 | |
10月 | 横浜在住商人中屋譲治ら、東京・横浜間鉄道建設について神奈川県裁判所に建議書を提出 | 主要事項 | |
11月5日 | 大納言岩倉具視、外務卿沢宣嘉、民部兼大蔵大臣大隈重信、大蔵少補伊藤博文ら政府首脳部は、イギリス公使ハリー・スミス・パークスと右大臣三条実美邸に会し、借款契約および鉄道建設に関する意見を交換、パークスは資金調達についてイギリス人ホレシオ・ネルソン・レーを紹介 | 主要事項 | |
11月10日 | 鉄道建設の廟議決定(基本方針として東西両京を結ぶ鉄道を幹線と定め、東京・横浜間と琵琶湖から敦賀港に至る線を支線として建設することに決定) | 主要事項 | |
11月12日 | 資金借入交渉全権の伊達宗城・大隈重信・伊藤博文はレーとの間に11月12日・20日・26日の3回に分けて資金借入れ・技術者雇用に関する正式契約を締結(11月12日の契約書類で仮定された鉄道線路は(1)江戸・大阪・兵庫間と横浜に至る枝線(2)琵琶湖から敦賀港に至る線であり、また鉄道建設資金借款金額はイギリス通貨100万ポンド) | 主要事項 | |
11月18日 | 駐日アメリカ弁理公使チャールス・E・デ・ロング、外務省に対してポートマン契約の再確認を交渉(3年2月3日外務省はデ・ロングを招き政府の自国経営方針を述べ申入れを拒否) | 主要事項 | |
12月9日 | 伊藤博文、大隈重信に対してレーの借款契約改訂の必要を進言 | 主要事項 | |
12月 | 弾正台(のちの司法省)、太政官に鉄道建設反対の建議を提出(翌3年2月にも伺い書を提出) | 主要事項 |