※(グレーの背景色)は、「渋沢関係略年譜」を参考のために表示しています。この社史に掲載されている年表項目ではありません。
年 | 月日 | 事項 | 年表種別 |
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明治10年(1877) | - | 【渋沢栄一】択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。〔37歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 英国人ジョサイア・コンドル、工部大学校教師として来日、西洋建築工学の移入に貢献 | 社会の動き | |
- | 工学校(明治五年設置)が工部省工部大学校と改称 | 社会の動き | |
明治11年(1878) | - | 【渋沢栄一】東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。〔38歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 横浜外国人居留地下水道改良工事着手 | 当社のあゆみ | |
- | 東京株式取引所開業 | 社会の動き | |
明治13年(1880) | - | 【渋沢栄一】博愛社社員(後に日本赤十字社常議員)。〔40歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 地震学会設立 | 社会の動き | |
明治14年(1881) | - | 【渋沢栄一】ハワイ国皇帝ディヴィド・カラカウァ飛鳥山訪問。東京大学より文学部「日本財政論」の講師を嘱託される。〔41歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 二代喜助死去。満之助が三代店主に就任 | 当社のあゆみ | |
- | 日本鉄道会社設立 | 社会の動き | |
明治15年(1882) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社創立。千代夫人死去。〔42歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 三代満之助、近代化(会計帳簿改良ほか)に着手 | 当社のあゆみ | |
- | 日本銀行開業 | 社会の動き | |
明治16年(1883) | - | 【渋沢栄一】大阪紡績会社相談役、同社工場落成。 東京電燈会社創立(後に委員)。伊藤兼子(かね子)と再婚。〔43歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 横浜吉田町店宅を本店とし東京本石町の居宅を支店とする | 当社のあゆみ | |
- | 堀川護岸、横浜中村川、吉田川浚渫 | 代表的建物 | |
- | 鹿鳴館落成 | 社会の動き | |
明治18年(1885) | - | 【渋沢栄一】ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッド設立(後に理事)。日本郵船会社創立(後に日本郵船株式会社取締役)。東京瓦斯会社創立・委員長(後に東京瓦斯株式会社取締役会長)。〔45歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 手斧始挙行(大正一二年~昭和二四年中断、昭和二五年に復活) | 当社のあゆみ | |
- | 横浜税関事務所 | 代表的建物 | |
- | 第一次伊藤博文内閣成立 | 社会の動き | |
明治19年(1886) | - | 【渋沢栄一】「竜門社」創立。東京電灯会社開業(後に委員)。〔46歳〕【竜門社】竜門社が東京・深川福住町の青淵先生邸内に創立する。機関誌『竜門雑誌』創刊号を刊行。 | 渋沢関係略年譜 |
- | 工学士坂本復経入店、初代技師長に就任 | 当社のあゆみ | |
- | 三代満之助、坂本復経をともない欧米の建設事情視察 | 当社のあゆみ | |
- | 造家学会(現・建築学会)発足 | 社会の動き | |
明治20年(1887) | - | 【渋沢栄一】東京製綱会社発起委員(後に取締役会長)。東京人造肥料会社創立委員(後に取締役会長)。京都織物会社創立、相談役。日本煉瓦製造会社創立・理事(後に日本煉瓦製造株式会社取締役会長)。東京ホテル創立・理事長(後に帝国ホテル株式会社取締役会長)。北海道製麻会社・相談役。〔47歳〕 | 渋沢関係略年譜 |
- | 三代満之助死去。長男喜三郎(八歳)が四代清水満之助を襲名 | 当社のあゆみ | |
- | 渋沢栄一を相談役に迎え、助言により民間建築主流の方針へ | 当社のあゆみ |