(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

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月日 事項 年表種別
大正15年(1926) 6月25日 三木清《パスカルに於ける人間の研究》刊―著者ヨーロッパ遊学の成果。所収の論文のいくつかはドイツより送られ《思想》に掲載された。実存哲学的著作としてわが国では最初のものと見なされる。 岩波書店
昭和2年(1927) 4月 三木清氏、京都第三高等学校の教職を辞し法政大学教授となって上京―岩波書店へも定期的に来て編集に協力することになった。 岩波書店
7月10日 《岩波文庫》創刊―第1回発行書31点の広告と共にはじめて東京朝日新聞(7.9)にこの企画を発表。//〈岩波文庫発刊に際して〉という文章が岩波茂雄の名で発表された。この発刊の辞は三木清氏の書いた草案に岩波茂雄が十分に手を入れて成ったものである。装幀は平福百穂氏。百穂氏は新しい図案を自ら描くよりも、古いものから取材した方がよいという趣旨から正倉院の鳥獣花背方鏡の模様を選び、これを模して装幀の図案を描いた。//1926年改造社の《現代日本文学全集》は出版にはじめて大量生産の方式をもちこみ、これに成功した。菊判で6号3段組総ルビつき、300~400頁のものを1円で売ったのである。内容は明治・大正の文学作品で、作家別の編纂であった。書籍の広告で新聞1頁を使用したのも、おそらくこれがはじめての例であろう。この企画の異常な成功をみて、あらゆる出版社が大量生産方式による出版―当時〈円本〉と呼ばれた出版計画―に争って乗り出した。この出版界のあらしの中で、岩波書店でも新しい計画がいろいろ構想されたが、いずれも実行に至らず、最後にドイツのレクラムに範をとって自由分売の小型本―いまでいう文庫版―の叢書を発行することになったのである。この計画は、営業の観点からは改造社の円本と同じくらい、あるいはそれ以上に危険をはらんだ未知の分野の開拓であった。第一に著者が趣旨には賛成してもその成否を危ぶみ、中には印税収入の減少をおそれる人もあった。他方では、小売書店として収益率の少いことを嫌うものもあった。しかし発売されてみると、直ちに読者から熱狂的な歓迎を受け、事前の危惧は一掃された。読者から寄せられた多くの手紙の中には、一生の教養をこの文庫に托すというのもあって、岩波茂雄はこのときはじめて“出版者になってよかった”と思ったという。岩波茂雄はこの文庫に古典ならびに準古典を入れることを決定し、“内容に至っては厳選にもっとも力をつくし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする”と宣言した。定価は約100頁を★一つとし、その★一つ20銭を単位として累進する方式で、原価計算は1万部を最小部数とし、全部売れれば赤字にならないという計算であった。 岩波書店
12月 岩波茂雄、三木清氏とともに朝鮮・満州・北支を巡遊。(1928年1月中旬まで)。 岩波書店
昭和3年(1928) 2月5日 岩波講座《世界思潮》刊行開始―全12巻。編集:三木清・羽仁五郎・林達夫。当時雑誌には〈講座〉という名のものがあり、また、その内容を表示して××講座と称した叢書もあったが、この講座のように、発行所名をつけたものは他になかった。岩波書店は、その後なお多くの講座を計画発行したが、この《世界思潮》を第1次として、それ以後の講座は、岩波講座第2次《物理学及び化学》、岩波講座第3次《生物学》...と呼ぶことになった。今日一般におこなわれている〈講座〉という出版の形式、すなわち多数の執筆者の協力を組織して体系的に問題を整理し、分冊出版するという形式も、この講座によって定式化された。(1929.4.30完結)。 岩波書店
10月1日 三木清・羽仁五郎により《新興科学の旗のもとに》(新興科学社)創刊(1929.12.廃刊)。 出版界
昭和4年(1929) 6月10日 《続哲学叢書》刊行開始―創業後まもなく創刊された《哲学叢書》は、岩波書店の代表的な出版物として長い生命をもっていたが、1917年8月完結、その後すでに10年を経過し、哲学並びに関連諸科学のその後の発達は、新たな《哲学叢書》の刊行を必要としている、と主張したのは三木清氏であった。しかし、これに対して旧《哲学叢書》の著者たちの間に強い反対があったため、計画は変更され、前の叢書を補充するものとして《続哲学叢書》が編纂されることになった。成立の事情が以上のようであったため、進行は滞りがちで、1933年7月20日までに5冊を刊行して中絶するに至った。 岩波書店
昭和5年(1930) 5月20日 共産党シンパ事件で中野重治・片岡鉄兵・山田盛太郎・三木清ら検挙。 内外事情
昭和8年(1933) 1月 岩波講座《日本文学》第19回、三木清〈現代階級闘争の文学〉削除処分。 岩波書店
5月13日 長谷川如是閑・三木清ら、ナチスの焚書に抗議。 内外事情
7月10日 三木清・豊島与志雄ら、学芸自由同盟結成。 内外事情
昭和10年(1935) 6月5日 《大思想文庫》刊行開始―全26巻(毎回2巻函入配本)。世界の大思想家26人をえらび、その代表著作の核心をひき出して簡潔に述べることを試みたものである。発案者は三木清氏であった。(1936.12.25完結)。 岩波書店
昭和13年(1938) 11月20日 《岩波新書》創刊―第1回20点同時発行。定価は全部50銭。初版はいずれも1万部以上印刷したが、たちまち売り切れになった。岩波文庫が古典の普及を目的とし、岩波全書が現代学術の基礎的知識の普及を目的としたのに対し、岩波新書は今日の問題に焦点を合せ、その理解や批判に必要な知識を、的確にわかりやすく解説する計画であった。文庫の古典は永遠の生命をもつものであり、したがって文庫に収めるか否かについては厳密を期し、出版物としての生命も永続することを建前としたが、新書の場合にはその生命は3~4年、長くとも5年保てぱよいという考えであった。日華事変を契機にして企画され、したがって、中国に対する国民の正しい理解に資するものを出すことは、当初からの目標で、特別に努力したが、あまりに時局に関するもののみでは読者も限局され、妨害も多く、刊行が困難になる惧れがあったので、広く一般的な教養に役だつものも入れて、ゆとりのある性格とした。この叢書の劈頭にクリスティー《奉天三十年》(矢内原忠雄訳)をおいたのは、満州の民衆のため献身的に奉仕した一伝道者の生涯を紹介して、これを通じて日本の満州侵略と満州国建設の虚偽とに対する批判を促す意味をもっていた。このような形の抗議ですら、この当時には勇気を要することであった。編集計画には、終始、三木清氏が助言者として協力した。なお、この叢書の計画については、それが岩波文庫と並ぶ普及版の叢書であるため、文庫の売行きに影響してこれを低下させはしないかという危惧もあったが、発売されてみると、それは全く杞憂に過ぎなかった。発刊の辞は岩波茂雄が書き、当時の国内体制について憂慮を禁じ得ないという所懐を述べたが、これは当時としては激越な言論と認められ、たちまち右翼から総攻撃をうけた。しかし、1944年までに98冊を刊行し、この叢書の刊行の意図は読書子に完全に支持された。 岩波書店
昭和14年(1939) 2月22日 評論家協会創立、常任委員杉森孝次郎・清沢洌・三木清・室伏高信ら。 内外事情
昭和16年(1941) 3月28日 三木清編《現代哲学辞典》(日本評論社刊)発禁 出版界
昭和17年(1942) 3月 情報局、三木清編《現代哲学辞典》、河合栄治郎《学生と哲学》(共に日本評論社刊)の絶版勧告。 出版界
昭和20年(1945) 9月26日 三木清氏、豊多摩拘置所で逝去。 岩波書店
昭和21年(1946) 9月25日 《三木清著作集》刊行開始―全16巻。(1951.5.20完結)。 岩波書店
昭和26年(1951) 5月20日 《三木清著作集》全16巻完結。(第1回、1946.9.25)。 岩波書店
昭和41年(1966) 10月17日 《三木清全集》刊行開始―全19巻。編集:大内兵衛・東畑精一・羽仁五郎・桝田啓三郎・久野収。1946年9月刊行の《三木清著作集》全16巻には、当時の占領軍の命令、その他の事情によって収録を見合わせた資料も多く、戦後の悪条件のため造本も十全とは言い難いものであった。今回の全集は、新発見のさまざまな評論・日記などを加えて全集とした。なお、刊行に先立ち、三木氏の命日9月26日には〈三木清を偲ぶ〉講演会を東京・京都で同時に開催し、東京では古在由重・羽仁五郎の両氏が、京都では松田道雄・阿部知二・久野収・吉野源三郎の諸氏が講演を行った。(1968.5.24完結)。 岩波書店
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