(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

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月日 事項 年表種別
昭和13年(1938) 2月1日 大内兵衛・有沢広巳ら教授グループなど労農派検挙(第2次人民戦線事件)。 内外事情
2月5日 東大大内兵衛教授の起訴を理由にその著書《財政学大綱》(1930.6.20刊)に休版命令。 岩波書店
昭和21年(1946) 1月1日 雑誌《世界》創刊号発行―日本には優れた知性が存在しながら、祖国が亡国の道へ進むことを阻止し得なかったということは、岩波が敗戦に関して最大の痛恨事と考えたことであって、今後再びこの過ちを犯さないためには、広汎な国民と文化との結びつきに努めねばならぬといい、岩波書店も在来のアカデミックな出版から、進んで大衆のための出版に進出する必要があると説いた。終戦直後総合雑誌の発刊を提案したのは、この理由からであった。たまたま安倍能成・志賀直哉氏等、30余人の指導的な学者・芸術家から成る〈同心会〉でも総合雑誌発刊の議が起り、岩波にその申入れがあった。その結果1945年9月末、両者協力の形で雑誌《世界》が創刊されることに決した。監修:安倍能成、編集主任:吉野源三郎。《世界》という名称は谷川徹三氏の提案による。正月号を創刊号として1945年12月中旬に発売され、部数は8万部であった。なお同心会と岩波との協力関係については、岩波は自己の創刊した雑誌の編集を同心会の代表たる親友の安倍氏に委託したものと諒解し、同心会の方々は同人雑誌の発行を岩波が引受けたものと諒解し、多少の喰い違いがあったが、安倍氏が幣原内閣の文部大臣となるに及んで、大内兵衛氏が編集指導を代行することになり、しだいに同心会との結合がゆるくなって、やがて同心会が別に同人雑誌《心》を発行するに至って《世界》との関係は自然に解消した。 岩波書店
6月22日 日本出版協会主催〈岩波茂雄記念講演会〉東大で開催。講師:大内兵衛氏他。 岩波書店
昭和23年(1948) 12月12日 安倍能成・仁科芳雄・大内兵衛氏等の平和問題研究会総会開かる―明治記念会館にて。この年7月ユネスコは、アメリカのオルポート、ハンガリアのソロイ等8社会科学者の〈戦争をひきおこす緊迫の原因に関する声明〉を発表、《世界》編集部は東京と京都を中心とする50余人の社会科学者・自然科学者にこの声明の検討を依頼し、これらの諸氏は9月以降東西両地において7部会に分れて研究をつづけて、その結論をこの日もち寄り、この総会を開いた。議長:安倍能成氏、副議長:仁科芳雄・大内兵衛氏。この総会でまとめられた意見は声明として《世界》1949年3月号に発表された。後、この討議に参加した人々によって〈平和問題談話会〉が成立した。 岩波書店
昭和27年(1952) 6月26日 岩波新書《世界経済図説》刊―さきに大内兵衛氏還暦祝賀のため、門下の学者達から安井曽太郎画伯筆の大内氏肖像が贈呈され、その資金にあてるためこの書が企画された。世界経済の基本的問題を、図表と解説と対比しつつ概説する。項目選定・図表・解説等すべて共同討議により、編集に1年を費した。発売とともに、その精密さと便利さとをもって好評を博した。のち、世界経済の変化に応じて改訂第2版を刊行(1956.6.18)。《日本経済図説》はこの本の姉妹篇である。 岩波書店
昭和28年(1953) 4月 岩波文庫創刊25年記念として、この月間に、次ぎの諸行事が行われた。//▲全国の小・中・高校および図書館へ抽選により10万冊の文庫進呈―締切りまでに2万余の申込みがあった。A組...岩波文庫600選1揃全69組、B組...岩波少年文庫・写真文庫各1揃全207組、C組...B組のうちいずれか1揃全414組。//▲文庫卸値正味5分引き販売。//▲小冊子《古典の読みかた》刊―文庫判126頁、非売品。30万部を全国の小売店を通じて読者へ贈呈。執筆者:小泉信三・清水幾太郎・大内兵衛・高木市之助・桑原武夫・吉川幸次郎・河盛好蔵。//▲記念パーティー開催―4月11日、東京会館にて、岩波書店創業40周年記念をも兼ねて著訳者を中心に関係者を招待、約400人来会、4月28日夜、京都、都ホテル、100人来会。//▲岩波文庫の夕―4月18日夜共立講堂にて開催、小売店・印刷所・製本所関係者・社員およびその家族を招待。//▲記念講演会―4月18日午後1時、神田共立講堂にて開催。講師:野上弥生子・都留重人・吉川幸次郎・萩原雄祐。朗読:山本安英。4月30日午後6時、大阪産経会館にて開催。講師:安倍能成・恒藤恭・菊池正士・中野好夫・清水幾太郎。//▲《文庫》4月号特集〈岩波文庫創刊25年記念〉発行。//▲社内パーティー開催―4月24日、会社創立記念日の祝賀を兼ねて。 岩波書店
5月23日 《岩波婦人叢書》刊行開始―全10冊、第1回5冊刊。装幀:中村研一。とくに婦人のために企画された叢書としては、岩波書店最初の試み。戦後日本の婦人の社会的地位は著しく変化し向上したが、古い因習は至るところに残り、経済生活も貧しく、日常生活における婦人の苦労は依然として重かった。しかし婦人の自覚と知識に対する要求とは益々強く、戦前とは全く一変した状況にあった。この叢書はその状況に応じて、婦人に必要な社会的知識を提供すると共に、日常の家庭生活の技術・出産・育児・保健等、実際問題についても、基本的な知識や考え方をわかりやすく伝えようとした試みであった。大内兵衛《婦人の経済学》は特によく読まれた。(1954.10.30完結)。 岩波書店
8月 文芸春秋新社・中央公論社・岩波書店など有力21社、大内兵衛・我妻栄らによる〈言論出版の自由に関する委員会〉に賛助会員として加盟。 出版界
昭和29年(1954) 1月16日 平和問題談話会主催・《世界》編集部後援により〈中国学術文化視察団帰国報告講演会〉開催―共立講堂において、司会:大内兵衛。講師:安倍能成・阿部知二・岸輝子・清水幾太郎・吉野源三郎。 岩波書店
昭和30年(1955) 5月7日 訪ソ学術視察団大内兵衛ら出発、帰途中国にたちよる。 内外事情
12月4日 郭沫若氏東慶寺に墓参―1937年上海事変が勃発するや、かねて日本に亡命中の郭沫若氏は、千葉県市川市に夫人と令息令嬢を残して急遽帰国した。岩波茂雄はそれを知って、残された夫人たちの生活を援助し、戦時中も変らず継続して戦後に及んだ。中国解放後、郭氏の家族はそれぞれ中国へ帰ったが、たまたま、この年、中国科学院訪日学術視察団の来日に際し、郭氏は団長として18年ぶりで来朝、繁忙の間にこの日、鎌倉東慶寺の岩波茂雄の墓に参じ、岩波家の家人および内山完造・大内兵衛氏などと交歓、故人を追懐して、季札掛劔の故事による詩を賦した。 岩波書店
昭和32年(1957) 5月 岩波文庫創刊30年・岩波新書創刊20年記念行事―次ぎの如き催しを行なった。//18日東京産経会館にて記念文化講演会開催―講師:大内兵衛・中谷宇吉郎・幸田文・桑原武夫。//20日椿山荘にて記念パーティー―印刷・製本関係者等600人来会。//22日・24日文化講演会―富山市・新潟市公会堂にて開催。講師:中谷宇吉郎・野間宏・小宮豊隆。同時に文豪遺墨展・岩波写真文庫展・日本古典文学大系が出来るまでの順序工程展示を行う。この後記念の文化講演会を全国13ヵ所で開催した。 岩波書店
昭和33年(1958) 6月8日 憲法問題研究会、第1回総会を開く、大内兵衛ら44人の学者参加。 内外事情
昭和36年(1961) 7月25日 小冊子《100冊の本―岩波文庫より》刊―新書判56頁、非売品。岩波文庫は創刊以来35年間に2700点を刊行し古典の普及版叢書としては、創刊当時模範とした《レクラム文庫》をも凌ぐ厖大な書目を擁し、国際的に見ても類のない出版となったが、それだけに、一般の読書人、とくに若い人々にとっては、その全体を見渡して選択を行うことが困難となり、適当な案内を必要とするに至った。1956年に《読書案内》という小冊子を出したのもこの必要に応じるためであったが、さらに岩波文庫の中から100点をえらんで実際的に一つの指標を提供することを試みたのである。100点の選衡については、まず下記15人の選者に依頼して、それぞれ岩波文庫総目録を検討の上若い読者に推奨すべき書目100点を挙げていただき、その結果を集計し、得票数による順位をつけて選者に報告、さらに数名の選者が討議を重ねて結論を出した。小冊子に発表するにあたっては、各著作に解説を付した。選者:臼井吉見・大内兵衛・大塚久雄・貝塚茂樹・茅誠司・久野収・桑原武夫・武谷三男・鶴見俊輔・中野重治・中野好夫・松方三郎・丸山真男・山下肇・渡辺一夫。非売品として各小売店を通じて頒布、非常な歓迎を受け、増刷を重ねた。他方7月25日から新聞紙上にもこの結果を広告、100点の文庫本そのものもセットとして販売したが、その反響は著しく、岩波文庫発刊時に次ぐ盛況を示した。 岩波書店
昭和38年(1963) 3月11日 《矢内原忠雄全集》刊行開始―全29巻。監修:南原繁・大内兵衛・黒崎幸吉・楊井克巳・大塚久雄。編集:楊井克巳・大塚久雄・藤田若雄・坂井基始良・矢内原伊作。矢内原氏が生前、経済学者と伝道者と教育者とを一身に兼ね、その著作もこの三つの分野にわたって厖大であったため、歿後、或いは学術的著書だけをまとめて出版、或いは宗教的著書だけを集めて刊行したいという申込みが、二、三の出版社から行われ、いずれも全著作を集成する試みには躊躇の色を示した。本全集は、それにあきたりず著者の全貌を伝えたいという遺族・門下の方々の切望に応えて刊行されたもので、編集にあたっては、個人雑誌《嘉信》掲載の講義・所感等を改めて分類・総括するなど、特別な配慮が行われ、著者の多面的な業績が整理されて読者に伝えられた。発売前から門下の方々の並々ならぬ努力があり、予想を遥かに上回る多数の読者を得た。(1965.7.29完結)。 岩波書店
3月 小冊子《激動の中で―岩波新書の25年》作製―新書判80頁、非売品。岩波新書発刊以来の25年間の歴史を述べ、諸家の批評と読書指導を巻頭に置いた。創刊以来、この叢書の成功に刺激されて幾種類かの〈新書版〉が現れ、またその後も、多くのペーパーバックスが氾濫しているが、その中にあって、岩波新書の特質を読者に理解してもらうため、激動の時代にこの叢書がどのような趣旨で発刊され、どのような歩みをつづけて今日に至ったかを述べたものである。内容:大内兵衛〈岩波新書の文化小論〉、松田道雄〈岩波新書と私〉、阿部知二〈真理と自由〉、〈岩波新書について―赤版時代・青版時代〉。(4.1発行)。岩波文化講演会の来会者、その他希望者に贈呈した。講演会は4月22日の福岡をはじめとして11月末までに全国26都市で開催。 岩波書店
昭和39年(1964) 6月4日 〈岩波市民講座〉開講―1957年、岩波文庫創刊30年、岩波新書創刊20年を記念して〈岩波の文化講演会〉を発足させたが、それ以後8年余の間に、全国百数ヵ所で講演会を開催して、学者・評論家・作家等の著者と読者の間の交流に努めてきた。この試みは学問・研究の成果を世に伝えるという岩波書店の基本的な出版理念に沿って行われてきたものであるが、さらに一歩をすすめて、講演会と並行して新たに〈岩波市民講座〉を開設した。1000人を超える聴衆を前にして行われる講演会と違って、この講座は1回およそ2時間の講義を2回あるいは3回連続して行い、できる限り体系的な知識を聴講者が得られるよう、会場も小規模な場所をえらび、受講者数も限定することとした。この日、〈大内兵衛先生講座 世界経済の天気図―南風競わず―〉を第1回として、新宿紀伊国屋ホールで毎週木曜日午後1時半から開講し、1968年4月からは会場を神保町ビル岩波ホールに移し、毎週金曜日午後2時の開講とした。また、1965年には仙台・広島・名古屋で、1966年には静岡・福岡・金沢でも開催した。1965年には1年間で19講座39回を行い、受講者の総数は男性7046人・女性2687人に及び、1回当り受講者はほぼ250人であった。その後、勤めをもたれる方々の強い要望に応えて、夜間に開催することとした。〈岩波市民講座〉は直接の受講者だけではなく、その内容が《図書》に掲載されることも多く、なかには〈大塚久雄先生社会科学の方法〉のように、岩波新書としてまとめられたものもあった。発足後15年をへて、1979年を最後としてその幕を閉じ、より高度な〈市民セミナー〉へと移行した。 岩波書店
昭和41年(1966) 10月17日 《三木清全集》刊行開始―全19巻。編集:大内兵衛・東畑精一・羽仁五郎・桝田啓三郎・久野収。1946年9月刊行の《三木清著作集》全16巻には、当時の占領軍の命令、その他の事情によって収録を見合わせた資料も多く、戦後の悪条件のため造本も十全とは言い難いものであった。今回の全集は、新発見のさまざまな評論・日記などを加えて全集とした。なお、刊行に先立ち、三木氏の命日9月26日には〈三木清を偲ぶ〉講演会を東京・京都で同時に開催し、東京では古在由重・羽仁五郎の両氏が、京都では松田道雄・阿部知二・久野収・吉野源三郎の諸氏が講演を行った。(1968.5.24完結)。 岩波書店
昭和44年(1969) 2月13日 《世界》3月号所載の大内兵衛論文〈東大を滅ぼしてはならない〉の文中に部落差別にかかわる表現があり、部落解放同盟中央本部から抗議。同号を自主的に回収。 岩波書店
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