(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

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月日 事項 年表種別
大正2年(1913) 7月19日 岩波茂雄(32歳)書店開業のため神田女学校・東京女子体操音楽学校の教職を退く。即日古本市場にゆく。22日、大久保百人町の住居を引き払い、神田南神保町16番地の店舗として借り受けた家に移る。 岩波書店
大正3年(1914) 6月1日 短歌雑誌《アララギ》第7巻5号より売捌所に加わる。島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・平福百穂・古泉千樫氏等アララギ同人と岩波茂雄との友誼にもとづく。 岩波書店
12月5日 魚住影雄《折蘆遺稿》刊―著者は高等学校時代の岩波茂雄の尊敬する友人で、編者は安倍能成氏であった。 岩波書店
大正4年(1915) 10月3日 《哲学叢書》刊行開始―全12冊。編者:阿部次郎・上野直昭・安倍能成。第1次世界大戦の社会・経済的影響や西欧思潮の無秩序な流入による当時の思想界の混乱は、わが国における哲学の貧困を示すものである、との考えから岩波茂雄は、日本人の哲学的思索の確立に資するため、哲学の知識の普及を思いたち、この叢書を刊行することになった。この叢書は学生層に広く浸透し、爾後岩波書店は哲学書の出版社として存在を認められるに至った。編者は岩波茂雄の友人であり、著者も大部分は岩波と交友関係にあった。これらの友人は、この叢書の発刊にあたって売行きを危ぶんだが、発行者の岩波は700部あるいは1000部を印刷すると称して、非常に積極的であったという。(全巻予約直接申込者800名)売れ行きの最も多かったものは速水滉《論理学》(1916.4.10刊)で大正末(1926)までに7万5000部、1963年3月までに16万6800部、高橋穣《心理学》(1917.7.10刊)大正末までに4万3000部。1949年4月までに10万1300部発行。(1917.8.25完結)。 岩波書店
大正5年(1916) 9月12日 鳩山秀夫《日本債権法総論》刊―鳩山秀夫氏は岩波茂雄の高等学校時代の友人であり、学生時代から秀才の名が高かった。債権法に関する解釈法学をほとんど完全に近く作り上げた人といわれる。後に総論のみならず各論をも著わし、驚くべき多数の読者をもった。この書は岩波書店の法律関係出版物として最初のものである。 岩波書店
大正6年(1917) 9月 《漱石全集》の予約募集を発表―全12巻。(刊行途中第13巻と別冊が計画に加わり全14巻となる)。編集顧問:狩野亨吉・大塚保治・中村是公。編集者:寺田寅彦・松根東洋城・阿部次郎・鈴木三重吉・野上豊一郎・安倍能成・森田草平・小宮豊隆。刊行のスローガンに“日本が生める世界的文豪を永久に記念すべき一大金字塔”“芸術は永く、人生は短し”の二つを使った。著者の生前にその著作を発行した書店との関係を考慮して岩波書店内に漱石全集刊行会を置き、岩波茂雄が代表者になった。 岩波書店
大正9年(1920) 11月15日 岩波茂雄、小石川小日向水道町92番地所在の中勘助氏の住宅を購入―中勘助《銀の匙》の舞台はこの家の周辺といわれている。 岩波書店
大正10年(1921) 10月1日 雑誌《思想》創刊―編集は和辻哲郎氏を中心に岩波茂雄も従事した。 岩波書店
12月25日 《科学叢書》(1933年3月15日までに8冊刊行)、《通俗科学叢書》(1935年10月5日までに9冊刊行)刊行開始―当時岩波茂雄は科学知識と科学的思考法の乏しいことに日本の欠陥があると考え、《哲学叢書》につづいて直ちに科学の向上と普及とを目的とする出版を思いたったが、5年後漸く寺田寅彦・石原純両氏の編纂にかかわるこの叢書を発刊するに至った。 岩波書店
大正11年(1922) 7月9日 森鴎外氏逝去―鴎外は岩波茂雄が古本屋を開業した当時、書物を求めて値引きを要求したところ、岩波が応じなかったのでそれでは商売はできないだろうとさとしたという。しかし岩波は後に手紙を書いて自分の信念を吐露し、鴎外はそれを理解して岩波を励ましたという。 岩波書店
7月 岩波茂雄、長野県上伊那郡教育会有志の南アルプス縦走に参加―岩波書店は1916年に《日本アルプス登山案内》を、翌1917年に《高山植物の研究》を出版しているが、これは岩波が非常に自然を愛し、若いころから登山を好んだことによる。この種の出版としては、比較的時代に先がけたものであった。(~8月) 岩波書店
8月14日 岩波茂雄、代々木練兵場で乗馬中、落ちて重傷を負う。 岩波書店
10月28日 岩波茂雄、速水滉・上野直昭・中勘助・和辻哲郎・津田青楓・安倍能成・篠田英雄・高橋健二氏等とともに天竜峡を下る。 岩波書店
大正12年(1923) 6月14日 ケーベル博士横浜にて逝去―《思想》は1921年10月創刊以来毎号ケーベル博士の随筆を掲載して来た。訳者は久保勉氏。岩波茂雄はケーベル先生の文章を掲載するだけでも《思想》を発行する意義があるといっていた。8月1日、《思想》8月号〈ケーベル先生追悼号〉発行。 岩波書店
11月 神田南神保町16番地にバラックを建て、小売部の店舗には古本・新刊を並べ、卸部はその建物の一部で事務をとった。出版の事務は小石川小日向水道町の岩波邸の中の一棟を事務所として既に10月からつづけられていた。この事務所は翌年神保町に復帰した。//岩波茂雄は、大震災で“裸一貫”になったことをむしろ感謝し、新たな決意をもって日本の文化のため一層の努力をするという挨拶状を各方面に出したが、事実焼け残った唯一台の自転車を自分の専用と定め、朝早くから夜までそれに乗って多くの著者を歴訪し、新たな出版に努めると共にいくつかの新計画をたてた。 岩波書店
大正13年(1924) 2月1日 津田左右吉《神代史の研究》刊―この書は16年後に著者が出版法第26条により、皇室の尊厳を冒涜するものとして起訴され、出版者岩波茂雄もまた同じ理由で起訴されるに至った問題の書であるが、問題となるまではただ画期的な国史研究としてのみ学界の注目をひき、次第に読者を得つつ滞りなく刊行されていた。1938年発売を禁止されるまでに6400部発行された。 岩波書店
大正14年(1925) 9月 会計に複式簿記制を採用―岩波茂雄の友人第一銀行頭取明石照男氏と相談、同じく第一銀行の曽志崎誠二氏を煩わして従来の帳簿組織を改め、複式簿記を採用、新たな会計制度を作った。曽志崎氏は出版業というものの複雑さをこのとき知って驚いたという。岩波書店は開業以来13年にして始めて大福帳式の旧経営から脱しようとしたが、この折にはまだ帳簿の組織の改革だけに止まった。 岩波書店
昭和2年(1927) 7月10日 《岩波文庫》創刊―第1回発行書31点の広告と共にはじめて東京朝日新聞(7.9)にこの企画を発表。//〈岩波文庫発刊に際して〉という文章が岩波茂雄の名で発表された。この発刊の辞は三木清氏の書いた草案に岩波茂雄が十分に手を入れて成ったものである。装幀は平福百穂氏。百穂氏は新しい図案を自ら描くよりも、古いものから取材した方がよいという趣旨から正倉院の鳥獣花背方鏡の模様を選び、これを模して装幀の図案を描いた。//1926年改造社の《現代日本文学全集》は出版にはじめて大量生産の方式をもちこみ、これに成功した。菊判で6号3段組総ルビつき、300~400頁のものを1円で売ったのである。内容は明治・大正の文学作品で、作家別の編纂であった。書籍の広告で新聞1頁を使用したのも、おそらくこれがはじめての例であろう。この企画の異常な成功をみて、あらゆる出版社が大量生産方式による出版―当時〈円本〉と呼ばれた出版計画―に争って乗り出した。この出版界のあらしの中で、岩波書店でも新しい計画がいろいろ構想されたが、いずれも実行に至らず、最後にドイツのレクラムに範をとって自由分売の小型本―いまでいう文庫版―の叢書を発行することになったのである。この計画は、営業の観点からは改造社の円本と同じくらい、あるいはそれ以上に危険をはらんだ未知の分野の開拓であった。第一に著者が趣旨には賛成してもその成否を危ぶみ、中には印税収入の減少をおそれる人もあった。他方では、小売書店として収益率の少いことを嫌うものもあった。しかし発売されてみると、直ちに読者から熱狂的な歓迎を受け、事前の危惧は一掃された。読者から寄せられた多くの手紙の中には、一生の教養をこの文庫に托すというのもあって、岩波茂雄はこのときはじめて“出版者になってよかった”と思ったという。岩波茂雄はこの文庫に古典ならびに準古典を入れることを決定し、“内容に至っては厳選にもっとも力をつくし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする”と宣言した。定価は約100頁を★一つとし、その★一つ20銭を単位として累進する方式で、原価計算は1万部を最小部数とし、全部売れれば赤字にならないという計算であった。 岩波書店
7月24日 芥川竜之介氏自殺―遺書によってその全集の出版は、漱石と同じ出版者すなわち岩波茂雄に托すという遺志が明らかにされた。 岩波書店
12月 岩波茂雄、三木清氏とともに朝鮮・満州・北支を巡遊。(1928年1月中旬まで)。 岩波書店
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