(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

"平福百穂"が書かれている年表項目はハイライトされています。

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月日 事項 年表種別
大正3年(1914) 6月1日 短歌雑誌《アララギ》第7巻5号より売捌所に加わる。島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・平福百穂・古泉千樫氏等アララギ同人と岩波茂雄との友誼にもとづく。 岩波書店
大正14年(1925) 9月5日 新村出《南蛮広記》刊―装幀:平福百穂。その装幀の美しさが当時の読書界で評判であった。 岩波書店
昭和2年(1927) 7月10日 《岩波文庫》創刊―第1回発行書31点の広告と共にはじめて東京朝日新聞(7.9)にこの企画を発表。//〈岩波文庫発刊に際して〉という文章が岩波茂雄の名で発表された。この発刊の辞は三木清氏の書いた草案に岩波茂雄が十分に手を入れて成ったものである。装幀は平福百穂氏。百穂氏は新しい図案を自ら描くよりも、古いものから取材した方がよいという趣旨から正倉院の鳥獣花背方鏡の模様を選び、これを模して装幀の図案を描いた。//1926年改造社の《現代日本文学全集》は出版にはじめて大量生産の方式をもちこみ、これに成功した。菊判で6号3段組総ルビつき、300~400頁のものを1円で売ったのである。内容は明治・大正の文学作品で、作家別の編纂であった。書籍の広告で新聞1頁を使用したのも、おそらくこれがはじめての例であろう。この企画の異常な成功をみて、あらゆる出版社が大量生産方式による出版―当時〈円本〉と呼ばれた出版計画―に争って乗り出した。この出版界のあらしの中で、岩波書店でも新しい計画がいろいろ構想されたが、いずれも実行に至らず、最後にドイツのレクラムに範をとって自由分売の小型本―いまでいう文庫版―の叢書を発行することになったのである。この計画は、営業の観点からは改造社の円本と同じくらい、あるいはそれ以上に危険をはらんだ未知の分野の開拓であった。第一に著者が趣旨には賛成してもその成否を危ぶみ、中には印税収入の減少をおそれる人もあった。他方では、小売書店として収益率の少いことを嫌うものもあった。しかし発売されてみると、直ちに読者から熱狂的な歓迎を受け、事前の危惧は一掃された。読者から寄せられた多くの手紙の中には、一生の教養をこの文庫に托すというのもあって、岩波茂雄はこのときはじめて“出版者になってよかった”と思ったという。岩波茂雄はこの文庫に古典ならびに準古典を入れることを決定し、“内容に至っては厳選にもっとも力をつくし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする”と宣言した。定価は約100頁を★一つとし、その★一つ20銭を単位として累進する方式で、原価計算は1万部を最小部数とし、全部売れれば赤字にならないという計算であった。 岩波書店
昭和4年(1929) 11月5日 《赤彦全集》刊行開始―全8巻。編集顧問:岡麓・平福百穂・守屋喜七・三村安治・楜桃沢勘内・三沢精英・矢島音次・伊藤長七・手塚縫蔵・岡村千馬太・両角喜重・田中一造・小尾喜作・藤森省吾・金原省吾・橋本福松・岩波茂雄。編集委員:斎藤茂吉(主任)・藤沢古実・中村憲吉・土屋文明・森山汀川・加納暁・土田耕平・竹尾忠吉・高田浪吉・高木今衛・宇野喜代之介・横山重・結城哀草果。装幀:平福百穂。この全集は菊判の大冊。第1回は3500部作ったが最終回は1700部になった。(1930.10.15完結)。 岩波書店
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