(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

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月日 事項 年表種別
大正4年(1915) 5月7日 日本、中国に最後通牒、25日、日華21ヵ条条約調印、中国各地で排日運動激化。 内外事情
大正9年(1920) 6月18日 日華実業協会を創立。 内外事情
昭和3年(1928) 7月19日 中国国民政府、日華通商条約廃棄通告。 内外事情
昭和5年(1930) 5月6日 日華関税協定調印、条件つきで中国の関税自主権承認。 内外事情
昭和12年(1937) 10月15日 《二葉亭四迷全集》刊行開始―全8巻。二葉亭全集はこれ以前にも刊行されていたが、このときはじめて日記・書簡・手帳等未発表のものが編入された。しかし、この刊行中に、日華事変がはじまり、以後検閲が以前に倍して厳しくなったため、アンドレーエフ《血笑記》の如き、名訳として評判の高かったものも、反戦的傾向の故に編入することができなかった。(1938.8.15完結)。 岩波書店
12月 日華事変の発生以来雑誌の誌面は関係記事が多く7月から12月末までに約6500篇に及び、書籍も時局物が増加、約1000点に達した。 出版界
昭和13年(1938) 3月31日 日華事変特別税法・臨時租税措置法公布、4月1日施行。 内外事情
6月24日 5相会議、日華事変の直接解決に国力を集中する方針を決定。 内外事情
9月20日 岩波新書の名称決定―前年日華事変がはじまったころから、新しい叢書を作ろうという計画があったが、この年に入って実行に決定、3~4月ごろから原稿を執筆者に依頼してあった。原稿用紙200枚を標準にして、全巻書きおろしを原則とした。〈現代人の世界的教養〉をモットーとし、当時の偏狭な国粋主義や、神がかり的な国家主義の跳梁に対して、世界的な視野と科学的な思考とを読書界に注入したいというのが編集の狙いであった。この年の夏休みにすでに20点近い原稿が集まり、9月に入って印刷にかかり、装幀も児島喜久雄氏に依頼してあった。判型はペリカンブックス、ペンギンブックスと同型で、最初は柔かな感じを出すため上辺もアンカットとした。(これは発売後まもなく改められて裁断することになった)。叢書の名前としては、いろいろな名称が提案されたが、結局、長田幹雄の案《岩波新書》に決定したのはこの日である。 岩波書店
11月20日 《岩波新書》創刊―第1回20点同時発行。定価は全部50銭。初版はいずれも1万部以上印刷したが、たちまち売り切れになった。岩波文庫が古典の普及を目的とし、岩波全書が現代学術の基礎的知識の普及を目的としたのに対し、岩波新書は今日の問題に焦点を合せ、その理解や批判に必要な知識を、的確にわかりやすく解説する計画であった。文庫の古典は永遠の生命をもつものであり、したがって文庫に収めるか否かについては厳密を期し、出版物としての生命も永続することを建前としたが、新書の場合にはその生命は3~4年、長くとも5年保てぱよいという考えであった。日華事変を契機にして企画され、したがって、中国に対する国民の正しい理解に資するものを出すことは、当初からの目標で、特別に努力したが、あまりに時局に関するもののみでは読者も限局され、妨害も多く、刊行が困難になる惧れがあったので、広く一般的な教養に役だつものも入れて、ゆとりのある性格とした。この叢書の劈頭にクリスティー《奉天三十年》(矢内原忠雄訳)をおいたのは、満州の民衆のため献身的に奉仕した一伝道者の生涯を紹介して、これを通じて日本の満州侵略と満州国建設の虚偽とに対する批判を促す意味をもっていた。このような形の抗議ですら、この当時には勇気を要することであった。編集計画には、終始、三木清氏が助言者として協力した。なお、この叢書の計画については、それが岩波文庫と並ぶ普及版の叢書であるため、文庫の売行きに影響してこれを低下させはしないかという危惧もあったが、発売されてみると、それは全く杞憂に過ぎなかった。発刊の辞は岩波茂雄が書き、当時の国内体制について憂慮を禁じ得ないという所懐を述べたが、これは当時としては激越な言論と認められ、たちまち右翼から総攻撃をうけた。しかし、1944年までに98冊を刊行し、この叢書の刊行の意図は読書子に完全に支持された。 岩波書店
11月20日 日本と汪派と日華協議記録に調印、汪派と交渉まとまる。 内外事情
昭和14年(1939) 11月1日 日本と汪派との間に日華国交調整に関する協議会をひらく、12月30日、日華協議書類作製。 内外事情
昭和15年(1940) 1月21日 汪派を離脱の高宗武・陶希聖、香港大公報紙上に日華協議書類内容を暴露し汪派を攻撃。 内外事情
11月2日 風樹会設立―岩波茂雄は、かねて国家の政策および社会の風潮が共に基礎科学の研究を重要視せず、その奨励のおくれていることを憂えていたが、とくに日華事変が始まって以来、世をあげて目前の時務にのみ没頭し、この傾向がいっそう激しくなったことに対して、深い遺憾の念を抱いていた。事変に伴う各種の寄付の要請に対しては、これを峻拒しつづけて来たが、このときに至って、独力で基礎科学の奨励に力を致そうと決意し、自己の所持金の殆んど全額にあたる100万円を投じて財団法人風樹会を設立した。財団の目的は哲学・物理・数学等基礎科学の研究に従事する有為な若い学者の生活を助けることにあった。風樹会と名づけたのは、岩波が早く父母を失い、年を追って風樹の嘆きを深くしていたことによる。役員は理事長:西田幾多郎、理事:岡田武松・高木貞治・田辺元・小泉信三、監事:明石照男の諸氏であった。その運営については、事が学問に関するからといって、岩波はいっさいこれに関与しないことを方針とした。この財団は、戦時中に多くの学者に生活費を支給し研究に専念する便宜を提供することができたが、戦争によって財政上の大打撃を受け、従前の機能を発揮することが困難となった。岩波茂雄の死後、岩波家および岩波書店はこの財団の復興をはかり、現在は再び多くの学者に援助することができるようになった。なお設立にあたり、11月2日全店員にも臨時給与を支出し、祝賀の会を催した。 岩波書店
11月30日 汪政権と日華基本条約調印、日・満・華共同宣言発表。 内外事情
昭和17年(1942) 11月3日 回顧30年感謝晩餐会開催―創業25周年(1937年)の折、岩波茂雄は恩顧をうけた人々を招いて感謝の会を催したい考えであったが、日華事変勃発後の騒然とした時勢に遠慮して果たさなかった。その後5年を経てこの年30周年を迎えたが、時局はますます悪化の一途をたどり、好転の見込みは全くなかった。しかし岩波は、もしこの機を逸すれば、自分をして今日あらしめてくれた恩人たち―生涯を回顧してその深い恩誼を想わずにはいられない人人―に対し、終に感謝の意を表することなくして終るであろうと考え、困難を排して感謝晩餐会を開くことにしたのである。会場は大東亜会館(東京会館)、来会者は約500人、岩波書店に深い関係のあった人々、岩波が少年時代から直接間接に教えをうけ尊敬を献げていた人々、および、いわゆる世間的地位は低くとも、渝わることなき親愛の念をもって長く交際をつづけて来た人々を選んで招待した。物資不足の折、宴会用の材料を集めるのにも一方ならない苦労があった。来会者は、三宅雪嶺・幸田露伴等の耆宿から、当時新進の学者に至るまで、わが国の学界及び思想界を代表する人々を殆んど網羅していたが、時流にそった評論家たちは、この会を指して“自由主義者最後の晩餐会”と評した。妨害者があらわれることを心配した人もあったが、幸いに異状なく会を進めることができた。岩波はこの席で自分の半生を語り、感謝の真情を吐露した。この日たまたま同時刻に同会館で情報局主催の大東亜文学者大会があったが、主要な人物の多くが岩波書店の会合の方へ出席して寂しかったといわれる。この晩餐会の記録は《図書》12月号に特集として掲載された。 岩波書店
昭和18年(1943) 10月30日 汪政権との間に日華基本条約に代えて日華同盟条約締結。 内外事情
昭和22年(1947) 3月 中国の5大学へ全新刊書を寄贈することとなる―5大学とは、北京・中山・曁南・中央・武漢の各大学で、当時東京にあった中華民国代表団の選定に従ったもの。岩波茂雄は生前、日中の友好を深く心にかけ、日華事変勃発前、日中の関係が頓に悪化して来た時期に、出来うれば、むしろ抗日の精神に燃える中国の青年を日本に留学生として招き、その援助に日本人として誠意をつくして両国の相互理解の道を通じたいと希望し、同時に中国に岩波の全出版物を寄贈して研究に資したいと願った。図書寄贈は実行に移ろうとした際、不幸にも日中戦争が勃発して志を果たさなかった。戦後、岩波書店は、この岩波茂雄の遺志を継承し、中国の代表団と連絡・協議の上、これを実現した。1949年の中国革命に伴い、一時中絶したが、後、中華人民共和国の成立をまって再び開始した。ただし中国解放後は、北京・中山・武漢・東北師範の各大学と北京図書館へ贈ることとなっている。 岩波書店
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