(株)岩波書店『岩波書店八十年』(1996.12)

"西田幾多郎"が書かれている年表項目はハイライトされています。

表示切替
月日 事項 年表種別
大正6年(1917) 10月5日 西田幾多郎《自覚に於ける直観と反省》刊―日本人による独創的な哲学的著作として画期的な意義をもつといわれ、当時非常な注目を集めた。 岩波書店
大正8年(1919) 5月18日 西田幾多郎《思索と体験》刊―西田氏の著作がこのころから著しく普及しはじめた。1941年5月までに3万7500部発行。 岩波書店
大正10年(1921) 3月18日 西田幾多郎《善の研究》刊―最初1911年弘道館書店から発行されて3版まで刊行、その後絶版となっていたものの復刊。西田氏の著作は岩波書店から既に3点出ていたが、さかのぼってこのとき処女作たるこの旧著を復刊したのである。 岩波書店
1926年 - このころ店員は41人、編集の仕事は岩波自身を中心にごく少数の店員で運ばれ、しかも1年に100冊近い新刊書を出し、ほかに雑誌数種類を発行していたのである。出版書は概ねいわゆる堅い本であって、大部数の売行きを期待できないものであったが、それにもかかわらず岩波書店が堅実に成長していったのは、当時の出版事業が一般に現在と趣きを異にしていたからである。岩波書店の実例についていえば、大部分の出版物は初版1000部あるいは1500部のものであったが、中に哲学叢書や、倉田百三・西田幾多郎・鳩山秀夫氏等の著作の如くたえず増刷されるものがあって、それが高率の利益をもたらした。また漱石全集が岩波書店の経営に寄与したことも大きかった。なお従業員が少数で総じて経費が少くてすんだこと、また宣伝が非常に小規模であり、税率も低く、負担が軽かったこと―このような今日とは異なるいくつかの条件のために“出版業は利益を追及する仕事ではない”という理想主義の態度を持して、しかも経営を成長させてゆくことができたのである。 岩波書店
昭和6年(1931) 11月30日 岩波講座第7次《哲学》刊行開始―全18巻。編集:西田幾多郎。(1933.9.4完結)。 岩波書店
昭和15年(1940) 11月2日 風樹会設立―岩波茂雄は、かねて国家の政策および社会の風潮が共に基礎科学の研究を重要視せず、その奨励のおくれていることを憂えていたが、とくに日華事変が始まって以来、世をあげて目前の時務にのみ没頭し、この傾向がいっそう激しくなったことに対して、深い遺憾の念を抱いていた。事変に伴う各種の寄付の要請に対しては、これを峻拒しつづけて来たが、このときに至って、独力で基礎科学の奨励に力を致そうと決意し、自己の所持金の殆んど全額にあたる100万円を投じて財団法人風樹会を設立した。財団の目的は哲学・物理・数学等基礎科学の研究に従事する有為な若い学者の生活を助けることにあった。風樹会と名づけたのは、岩波が早く父母を失い、年を追って風樹の嘆きを深くしていたことによる。役員は理事長:西田幾多郎、理事:岡田武松・高木貞治・田辺元・小泉信三、監事:明石照男の諸氏であった。その運営については、事が学問に関するからといって、岩波はいっさいこれに関与しないことを方針とした。この財団は、戦時中に多くの学者に生活費を支給し研究に専念する便宜を提供することができたが、戦争によって財政上の大打撃を受け、従前の機能を発揮することが困難となった。岩波茂雄の死後、岩波家および岩波書店はこの財団の復興をはかり、現在は再び多くの学者に援助することができるようになった。なお設立にあたり、11月2日全店員にも臨時給与を支出し、祝賀の会を催した。 岩波書店
昭和17年(1942) 12月5日 《図書》12月号、終刊号として発行―各出版社の月報類は日本出版文化協会発行の月報に吸収されることになったためである。やむをえぬ《図書》の廃刊を惜しむ読者の要望に対しては、希望者に毎月の発刊書目をはがきに印刷して知らせることになった。(翌年3月より実施)。//〔12月号内容〕表紙:ミレー〈種まき〉、解説:児島喜久雄。里見弴〈読書について〉、西田幾多郎〈明治二十四五年頃の東京文科大学選科〉、高村光太郎〈三十年〉(朗読のためのことば)。//特集〈回顧三十年感謝晩餐会記録〉内容〈回顧三十年感謝晩餐会の記〉〈あいさつ:岩波茂雄〉〈来賓あいさつ:三宅雪嶺・牧野伸顕・小泉信三・幸田露伴・明石照男・高村光太郎(詩朗読)・天野貞祐・安井てつ・藤原咲平〉〈来会者芳名〉〈付録・杉浦重剛先生に奉る書:岩波茂雄〉。 岩波書店
昭和20年(1945) 6月7日 西田幾多郎氏逝去。11月15日《思想》11月号〈西田博士追悼号〉発行。 岩波書店
昭和21年(1946) 6月 西田幾多郎著《善の研究》の偽書あらわる―この頃、岩波書店刊行の図書は、一般に需要に応じ切れない状態であったのに乗じ、装幀・奥付とも全く同じこの偽書が信州で作られ、東京その他で販売された。 岩波書店
昭和22年(1947) 7月10日 《西田幾多郎全集》刊行開始―全12巻、別巻6。第1巻の発売にあたっては、前日より徹夜でまつ人が長蛇の列を作り、たちまち品切れとなった。このころ新刊書の発売に際して、しばしばこのようなことがあった。(1953.7.15完結)。 岩波書店
昭和28年(1953) 2月 岩波文庫創刊以来の総刊行点数2000点、総発行部数約7500万冊となる―創刊以来25年、この間もっとも出品数の多かったもの10点をあげると次ぎの通りである。夏目漱石《坊つちやん》、島崎藤村《藤村詩抄》、夏目漱石《草枕》《こゝろ》、《古事記》、倉田百三《出家とその弟子》、島崎藤村《千曲川のスケッチ》、樋口一葉《にごりえ・たけくらべ》、徳冨蘆花《自然と人生》、ジイド《狭き門》―最近では年間を通じて出品部数の多いものが次ぎのように変ってきている。《日本唱歌集》、エンゲルス《空想より科学へ》、マルクス《共産党宣言》、《日本童謡集》、プラトン《ソクラテスの弁明》、西田幾多郎《善の研究》、夏目漱石《坊つちやん》、マルクス《賃労働と資本》、ブルフィンチ《ギリシア・ローマ神話》、ルソー《エミイル》。 岩波書店
7月15日 《西田幾多郎全集》全12巻、別巻6完結。(第1回、1947.7.10)。 岩波書店
昭和33年(1958) 6月30日 日本ユネスコ国内委員会、日本の代表的思想文献の翻訳を計画し、西田幾多郎《善の研究》、和辻哲郎《風土》、宇井伯寿《仏教汎論》など5篇を決定。 出版界
昭和40年(1965) 2月26日 《西田幾多郎全集》第2次刊行開始―全19巻。西田博士歿後20年を記念して、1947年から刊行された18巻全集を、より完璧なものとすることに努めた。公刊の著作のほか、日記・書簡・講義・小品・ノートの類に至るまで博捜した結果、田辺元博士宛書簡200余通、処女作《善の研究》成立前後の初期草稿など、ほぼ1巻分の資料を追加、全19巻とした。戦後の悪条件のもとで、装幀・紙質ともに粗悪を免れ得なかった本全集は、この第2次刊行によって漸く完成の域に達した。(1966.9.26完結)。 岩波書店
昭和42年(1967) 11月27日 岩波講座《哲学》刊行開始―全18巻。岩波講座《哲学》が西田幾多郎氏編集のもとに刊行されたのは1931年満州事変勃発の直後であった。以来35年を経て、今回の講座は、学界・在野を含む広範囲の執筆者の協力を得、現代の諸問題に対する生きた哲学的探究を展開して新しい哲学の展望を拓くことを企図し、多数の読者を得た。(1969.9.8完結)。 岩波書店
昭和53年(1978) 10月9日 《西田幾多郎全集》第3次刊行開始―全19巻。(1980.4.15完結)。 岩波書店
昭和62年(1987) 11月6日 《西田幾多郎全集》第4次予約出版刊行開始―全19巻。(1989年6月完結)。 岩波書店
平成元年(1989) 6月6日 《西田幾多郎全集》第4次予約出版全19巻完結。(第1回1987年11月)。 岩波書店
PAGE TOP